『ブルックリンの恋人たち』:2014、アメリカ

ヘンリー・エリスは地下鉄の構内でギターを演奏しながら歌い、日銭を稼いだ。ヘッドホンで音楽を聴きながら夜道を渡ろうとした彼は、走って来た車にはねられた。モロッコで遊牧民の文化を研究しているフラニーは、作家である母のカレンから電話を受けた。弟のヘンリーが事故で入院したと聞き、フラニーはニューヨークへ戻った。病院へ赴いた彼女は、昏睡状態に陥っているヘンリーの姿を目にした。彼女は担当医に弟の状況を尋ね、「脳に血腫がある。今は辛抱強く待つしか無い」と告げられた。
カレンはフラニーに、ヘンリーをはねたタクシー運転手のラメシュに妻と2人の子供がいること、「急停車しようとした」と言っていることを話す。彼女はヘンリーの不注意だったことを認識しており、自分を責めた。カレンは夫を亡くしており、ヘンリーは実家を離れて一人でブルックリンで暮らしていた。実家に戻ったフラニーは弟の部屋へ入り、彼が人気ミュージシャンのジェイムズ・フォレスターに夢中だったことを知った。
ギターケースを調べたフラニーは、ヘンリーの自作CDを発見する。CDを再生すると、冒頭部分にはフラニー宛てのメッセージが入っていた。ヘンリーは「初めて自慢できる曲だ」と語り、自作の曲『マーブル・ソング』を歌っていた。フラニーはジェイムズのコンサートチケットを見つけ、会場へ赴いた。コンサートの後、フラニーは物販コーナーでジェイムズに話し掛けた。彼女はヘンリーのことを話し、CDを渡した。フラニーは弟の日記に書かれていたバンドの演奏を聴いたり、店へ出掛けたりした。
フラニーがヘンリーの病室にいると、ジェイムズが現れて「たまたま近くに来たから、寄ってみようと」と言う。彼は「ヘンリーの曲を聴いた。素晴らしかった」とフラニーに告げる。ジェイムズが「何か歌おうか」と提案すると、フラニーは「弟も喜ぶわ」と歓迎した。ジェイムズはギターを弾いて、歌を披露した。フラニーが「弟の好きな店へ行くの。良かったら一緒に」と誘うと、彼は「今夜はステージが無いから」とOKした。
その夜、フラニーとジェイムズはレストランで夕食を取り、会話を交わした。ジェイムズはメイン州の山小屋で暮らしていること、前回のアルバムから思うように曲が書けないこと、長く付き合った恋人と1年前に別れたことを語る。フラニーはモロッコの遊牧民を専門に研究していること、人類学の博士号を目指していることを話す。さらに彼女は、「ヘンリーの日記を読んで、彼が行った場所へ行き、彼が聴いた音を録音してる」と述べた。
フラニーは大学を辞めてミュージシャンになったヘンリーを責め、半年も口を利いていなかった。ビデオや曲へのリンクが送られてきても、ずっと無視していた。そんな弟との関係を、彼女はジェイムズに明かした。クラブへ出掛けて歌手のステージを見ていた彼女が涙ぐむと、ジェイムズは優しく手を握った。コンサートの後、フラニーが「いつまでニューヨークに?」と訊くと、ジェイムズは「ステージ2回と結婚式の余興がある。録音でベルリンに行くけど、何も書けないから不安だ」と答えた。
フラニーはヘンリーの病室へ行き、「馬鹿なのは貴方ではなく、私よ。頑固すぎるの」と語り掛けた。彼女は古道具屋で買った蓄音機でレコードを掛けたり、ネットでジェイムズの演奏する動画を見たりした。フラニーとカレンが病室を飾ってヘンリーのハーフ・バースデイを祝っていると、ジェイムズがやって来た。カレンは「一緒にお祝いを」と言い、夕食にも誘った。フラニーはジェイムズのコンサートを聴きに行き、一緒に夜の街を散歩した。そして2人は、体を重ねた…。

脚本&監督はケイト・バーカー=フロイランド、製作はマーク・プラット&ジョナサン・デミ&アダム・シュルマン&アン・ハサウェイ&クリストファー・ウッドロウ&モリー・コナーズ、共同製作はロッコ・カルーソー、製作協力はアマンダ・バウアーズ&トーマス・フロイランド、製作総指揮はマリア・セストーン&サラ・E・ジョンソン&ホイト・デヴィッド・モーガン&ジェイコブ・ペチェニック&アンディー・ニューバーガー&ビル・ジョンソン&ジム・セイベル&キャスリン・ディーン&ジャレッド・ルボフ、撮影はジョン・ガレセリアン、美術はジェイド・ヒーリー、編集はマドレーヌ・ギャヴィン、衣装はエマ・ポッター、オリジナル歌曲はジェニー・ルイス&ジョナサン・ライス、音楽はジェニー・ルイス&ジョナサン・ライス&ナサニエル・ウォルコット、音楽監修はブライアン・マクネリス&エリック・クレイグ。
出演はアン・ハサウェイ、ジョニー・フリン、ベン・ローゼンフィールド、メアリー・スティーンバージェン、ローラ・カーク、キャス・ディロン、ポール・ウィッティー、エリザベス・ジマン、シャロン・ヴァン・エッテン、ダン・ディーコン、ザ・フェリス・ブラザーズ、ナオミ・シェルトン他。


サンダンス映画祭グランプリにノミネートされた作品(ちなみに同年の受賞作は『セッション』)。
脚本&監督のケイト・バーカー=フロイランドは、アン・ハサウェイの主演作『プラダを着た悪魔』で監督助手を務めていた女性。
これまでに3本の短編を手掛けているが、長編映画は監督も脚本も初めて。
ジョナサン・デミに書き上げた脚本を送ったところ、そこからアン・ハサウェイの元に送られ、気に入った彼女がプロデューサーとフラニー役を兼ねることになったそうだ。

ジェイムズ役のジョニー・フリンは「ジョニー・フリン&ザ・サセックス・ウィット」というイギリスのバンドのフロントマンで、アン・ハサウェイが起用を決めている(この作品以前にも俳優経験がある)。
ヘンリーをベン・ローゼンフィールド、カレンをメアリー・スティーンバージェンが演じている。
他に、シンガーソングライターのシャロン・ヴァン・エッテン、エレクトロニック・アーティストのダン・ディーコン、フォーク・ロック・バンドのザ・フェリス・ブラザーズ、ゴスペル歌手のナオミ・シェルトンが、本人役で出演している。
作曲家のポール・ウィッティーと歌手のエリザベス・ジマンも、歌手役で出演している。

ヘンリーが事故に遭うまでを描くオープニングのシーンは、まるで必要性が無い。
彼が路上ミュージシャンだったことは、映像として最初に描かなくても、全く支障はない。台詞だけで処理しても事足りるぐらいだ。
しかも、そこで『マーブル・ソング』を少し歌っているので、フラニーがCDを再生するシーンが初披露じゃなくなるというマイナスも生じる。
『マーブル・ソング』は重要な曲のはずなのに、その扱いはどうなのかと。

そもそも、フラニーが『マーブル・ソング』を聴いても、これといった反応を示さないってのも違和感があるんだよな。
ヘンリーが姉へのメッセージを添えてまで録音し、「初めて自慢できる」という思い入れの強い曲なのに、すんげえ扱いが雑だわ。いっそのことフラニーが聴く時点では音を流さず、終盤で初めて観客には曲を聴かせて、そこでのフラニーの反応も含めて感動に利用してもいいぐらいなのに。
ただし、「なんでヘンリーはギターケースにメッセージ付きCDを入れていたのか」という疑問はあるけど。
フラニーに送っていたのならともかく、自分で持っていても意味が無いわけで。

ヘンリーが事故に遭うシーンを描くことで、「こっちの不注意だった」ってことがバレるので、それによって彼への同情心が削がれる。
まあ冒頭シーンを描かないにしても、どうせカレンが「ヘッドホンをしていたヘンリーの不注意」と言及しちゃってるので、そこは脚本として織り込み済みのようだ。
だけど、そこは加害者のいない事故か病気にでもしておいた方が良かったんじゃないかと。ヘンリーをひいた運転手の名前には触れるけど、どうせ一度も登場しないんだし。
加害者のいない事故や病気による入院という形にしておけば、「ヘンリーに落ち度は無い」ってことで、メリットしか見当たらないんじゃないかと思うんだが。

フラニーが登場すると、モロッコで遊牧民の調査活動をしている様子が描かれるが、これも意味が無い。
後からジェイムズとの会話シーンで「専門はモロッコの遊牧民」「人類学の博士号を取る」と話しているが、だから「電話を受けた時点ではモロッコにいる」ってのは筋としては間違っていない。
ただし、そもそも「フラニーがモロッコの遊牧民を研究している」という設定自体、ストーリー展開に何の影響も及ぼさないので、バッサリと切ってもいい要素なのだ。せいぜい「遠くに住んでいる」というだけでいい。
っていうか、そもそも「遠くに住んでいる」という設定さえ必要性は乏しい。「家族とは離れて暮らしている」というだけで充分なのだ。

フラニーがヘンリーの部屋でジェイムズのポスターやコンサートのチケットを見つけた段階で、「この2人が恋愛関係に発展する筋書きがあるんだろうなあ」ってのは何となく予想できる。
そういう意味では、フラニーとジェイムズがセックスするのは、大きく間違っているわけではない。
その前には、2人で外食したり、散歩したりしているし、むしろ自然な流れと言ってもいいはずだ。
にも関わらず、違和感しか抱かないのは、そこを納得させるだけのドラマが著しく不足しているからだ。

フラニーはジェイムズと会っている時、「ヘンリーが目覚めないかも」という不安や「ヘンリーと仲良くしておけば良かった。責めるべきじゃなかった」という後悔を吐露することが、ほとんど無い。
むしろ、会っていない時に、そういう感情を表現している。
「ジェイムズと会っている時だけは不安な気持ちを忘れることが出来る。安らぎを覚える」という存在として、位置付けているのかもしれない。
だけど、彼女が抱いている感情は弟に対するモノなので、「そこから逃れる」だけじゃマズいのではないかと思ったりもするし。

フラニーとジェイムズは出会ってから日が浅いが、「だからセックスに至るのは釈然としないし、説得力に欠ける」とは言い切れない。
例え出会ってからの時間が短くても、中身を濃密にすれば、そこは大きな問題じゃない。上手く描写すれば、観客を引き込むドラマが構築できた可能性もあるだろう。
しかし、この映画では雰囲気と音楽で誤魔化してしまい、中身がペラペラになっているのだ。
雰囲気を大切にするのも、音楽を重視するのも、決して全面的に否定されることではないが、誤魔化すためのモノになっているのはマズい。

この映画、とにかく「歌」、特にジョニー・フリンの歌に頼ろうとする部分が、ものすごく大きいと感じる。
アン・ハサウェイは自分でジェイムズ役に起用したぐらいだから、彼の歌に強い力があると感じてオファーしたんだろう。
もちろん、ジョニー・フリンは実際に歌手活動をしているぐらいだから、歌が下手なわけではない。
しかし、それだけで映画を牽引し、ドラマとしての説得力を持たせることを求めるのは酷じゃないかと。

っていうか、ジョニー・フリンの歌に頼りすぎるのは、手抜きじゃないかとさえ思ってしまうんだよな。これは商業映画であって、決して彼のプロモーション・フィルムじゃないんだからさ。
だけど、実はPVのつもりで作っているんじゃないかと疑いたくなってしまうぐらい、ものすごくフワフワしていて中身が薄いんだよな。
何が描きたいのか、焦点がボンヤリしたまま最後まで到達しちゃうし。
ジェイムズがNYの最終公演でフラニーのために作った未完成の新曲を披露し、会場に来たフラニーが感涙し、ジェイムズには会わずにメッセージと2人で口ずさんだ即興の曲を録音したCDだけを残し、それぞれが別の場所で同じ曲を聴いているトコで映画は終わるのだが、「で?」と言いたくなってしまう。

(観賞日:2016年7月16日)

 

*ポンコツ映画愛護協会