『ヒマラヤ杉に降る雪』:1999、アメリカ

1954年冬。ワシントン州北西部のピュージェット湾にあるサン・ピエドロ島。日系人のカズオ・ミヤモトが、漁師カール・ハイネの殺人容疑で逮捕された。彼は第一級殺人の罪に問われ、裁判が開かれる。カズオの弁護士のネルス、検事はフックス、そして裁判長はフィールディング。傍聴席では、カズオの妻ハツエが見守っている。
カズオとカールの間には、苺畑の土地を巡る問題があった。カズオの父がカールの父から土地を買い取る約束を交わしたのだが、戦争の勃発によって代金の支払いが途中で停止してしまった。カールの父は亡くなり、その妻エッタは他の人間に土地を売却した。カズオは約束の土地を自分が買い取ろうと考え、カールに話を持ち掛けていた。
裁判の傍聴に来た新聞記者のイシュマエル・チェンバースは、ハツエに視線を向ける。かつてイシュマエルとハツエは互いに惹かれ合う仲だったが、戦争によってハツエが家族と共にマンザナー収容所に入れられてしまった。ハツエはイシュマエルに「愛していなかった」と書いた手紙を送り、それをイシュマエルは彼女の裏切りと取った。
裁判は、圧倒的にカズオに不利な状況にあった。そんな中、イシュマエルはカールが船の転覆で死んだことを示す無線記録を手に入れる。それさえあれば、カズオの無実は証明できる。だが、イシュマエルはハツエの夫を助けることに迷いを感じていた…。

監督はスコット・ヒックス、原作はデヴィッド・グターソン、脚本はロン・バス&スコット・ヒックス、製作はキャスリーン・ケネディ&フランク・マーシャル&ハリー・J・アフランド&ロン・バス、共同製作はリチャード・ヴァン&デヴィッド・グターソン、製作総指揮はキャロル・ボーム&ロイド・A・シルヴァーマン、撮影はロバート・リチャードソン、編集はハンク・コーウィン、美術はジャニン・オップウォール、衣装はルネ・アーリック・カルファス&ヒサミ・ヤマモト、音楽はジェームズ・ニュートン・ハワード。
出演はイーサン・ホーク、ジェームズ・クロムウェル、リチャード・ジェンキンズ、ジェームズ・レブホーン、サム・シェパード、エリック・タール、マックス・フォン・シドー、工藤夕貴、リック・ユーン、ヤン・ルーブス、セリア・ウエストン、アリジャ・バレイキス、ケイリー=ヒロユキ・タガワ、キャロライン・カヴァ、ダニエル・ヴォン・バーゲン、リーヴ・カーニー、鈴木杏、シーラ・ムーア他。


デヴィッド・グターソンのベストセラー小説『殺人容疑』を映画化した作品。
イシュマエルをイーサン・ホーク、フィールディング判事をジェームズ・クロムウェル、フックスをジェームズ・レブホーン、イシュマエルの父をサム・シェパード、ネルスをマックス・フォン・シドー、ハツエを工藤夕貴が演じている。カズオを演じるリック・ユーンは、これが映画デヴュー。
一応は「工藤夕貴がハリウッドのメジャー映画で初主演を射止めた作品」とされているのだが、オープニングクレジットでの順番は、かなり後の8番目。メインキャストの紹介が終わって、他の出演者の中では1番目といった感じの扱いになっている。

日本人からすると、「被害者の体に残されていた傷が剣道で出来る傷に似ているので、犯人は日本人だ」というロジックには笑ってしまうのだが、そこは日系人差別を示すポイントの1つであり、もちろん笑っちゃいけないマジなシーンである。
ゲージツ的な映像美の中で、現在のシーンと各キャラクターによる過去の回想シーン(自分の過去に関する回想と、事件に関する回想の2種類がある)が入り混じりながら進行していく。それなりに捌いてくれてはいるものの、原作を読んで予習していないと、過去と現在を整理することで頭の中が精一杯になる可能性はある。

この映画はアメリカで公開された当時、大してヒットしなかった。
それは、アメリカ人を悪く描いているとか、アメリカの歴史の触れて欲しくない部分に触れているとか、そういうことが原因というより、それ以前に、単純に映画として中途半端だったからだろう。

滑り出しは、日系人差別の問題を含んだ法廷サスペンスの雰囲気。続いてアメリカ人の差別意識を告発する主張が強くなり、それからイシュマエルとハツエの恋愛劇も入ってくる。で、ものの見事に焦点が不鮮明になり、どっち付かずのアブハチ取らず。
主役のイシュマエルが、単に裁判に興味を持った記者という設定ならば、これは日系人差別を告発する法廷サスペンスになったのかもしれない。しかし、彼には「かつてハツエと愛し合った関係」という設定があるので、恋愛の要素も入ってくる。

法廷サスペンスとしての面白さは皆無に等しい。証人への尋問の中で得られた証言から次の展開が生まれるわけでもないし、新たな証拠品から意外な方向へ進んで行くわけでもない。裁判のシーンは、日系人差別を見せるための場所に過ぎない。
強い差別意識を持つ人物を登場させると、一方で差別に反対する人物を登場させる。アメリカの良心を代表する人物を登場させることで、アメリカの観客に作品が嫌悪されないようにバランスを取っているのかもしれない。ただ、それでハリウッド映画としてのバランスは取れたかもしれないが、メッセージは弱くなっている。

回想シーンでの差別する人間や差別される人間の描写は、それほど強くない。収容所に入れられたハツエ達の生活風景は、ほとんど描かれない。主役のイシュマエルも彼の父も差別反対の立場であり、彼らの様子はハツエ達の様子と同程度に描かれる。よって、日系人差別を告発するメッセージは薄くなっている。
回想シーンでは差別問題を描くよりも、戦争によって引き裂かれた男女の悲恋を描こうとする意識の方が強いのかもしれない。ただ、肝心なところで映像に凝りすぎるわ音楽が過剰に盛り上がりすぎるわで、ちっとも悲恋に気持ちが入り込めない。
しかも、やたらキレイな映像で見せようとしているものだから、そこに本来あるはずの人間の痛みや苦しみが全く伝わってこない。その辺りを工藤夕貴の表情だけで何とか表現しようとしている向きは見られるが、それだけでは限界がある。

主役はイシュマエルだが、それほど主役としての働きを示しているわけではない。裁判のシーンでは単なる傍観者に過ぎず、検事や弁護士の方が遥かに目立っている。回想シーンにおいても、他の人物より少しぐらいは目立つかなあという程度の扱い。終盤になって、ようやく主役としての面目躍如を果たすという具合。
で、最後にイシュマエルが証拠を持って来て、すぐに被告は無罪ということになり、「アメリカの良心が日系人を救ったよ、良かったね」ということでハッピーエンド。
だけど裁判に不満を抱いている人間、日系人への差別意識の強い人間は大勢いるわけで、どう考えたってハツエ達は裁判が終わった後もバッシングを受けるだろう。
だから、ホントはこの話でハッピーエンドなんて絶対に有り得ないのよね。ってことは、「裁判では無罪判決を勝ち取ったけれど、ハツエ達には厳しい明日が待ち受けているだろう」と苦みのある含みを持たせて締めくくった方が、ふさわしかった気もする。
ただ、それはそれで後味が良くないしなあ。難しいところではあるけれど。

 

*ポンコツ映画愛護協会