『ハサミを持って突っ走る』:2006、アメリカ

オーガステン・バロウズが幼い頃、母のディアドラは頻繁に学校を休ませた。オーガステンは母に夢中で、ディアドラは息子を溺愛した。1972年。ディアドラは自作の詩を朗読し、6歳のオーガステンに感想を尋ねた。「雑誌の『ニューヨーカー』に掲載されているような詩だった」とオーガステンが言うと、彼女は嬉しそうな表情を浮かべた。彼女は息子に、「ママは有名な女になる運命なの」と述べた。詩の朗読会に出掛ける夜、ディアドラは帰宅が遅くなった夫のノーマンを激しく罵った。「渋滞に巻き込まれたんだ」とノーマンが釈明すると、彼女は「私への嫌がらせでしょ」と口撃した。
ディアドラは朗読会に参加するが、客は1人しかいなかった。オーガステンは小遣いの硬貨を煮沸して磨き、父から理由を問われて「光る物が好きだから」と答えた。「お前はパパに似てないなあ」とノーマンが漏らすと、彼は「ママに似てるんだ。僕も有名人になりたい」と告げた。ディアドラはドレスを縫い、「いつかカーネギーホールに立つわ」とオーガステンに宣言した。彼女は『ニューヨーカー』に詩が掲載されずに嘆き、オーガステンは彼女に抱き付いて慰めた。
1978年。ディアドラはポエトリー・クラブを主宰し、女性5人を自宅に招いた。メンバーのファーン・スチュワートが自作の詩を朗読すると、彼女は酷評して「怒りを表現するの。諸悪の根源は男よ」と指導した。次の発表をディアドラから促された他の面々は、全員が発表を尻込みした。ディアドラはノーマンにヒステリックな感情をぶつけ、口論を繰り返した。「君は正気じゃない」と言われたディアドラは、「貴方は抑圧されて生きてるから、芸術的な情熱が正気じゃないように思えるのよ。私を殺す気なんでしょ」と怒鳴った。
ノーマンが「君が自分で自分の首を絞めてるだけだ」と指摘すると、ディアドラは口汚く罵った。オーガステンが仲裁に入っても、彼女は争いを止めようとしなかった。ノーマンは頭を打って怪我を負うが、ディアドラは冷たい言葉を浴びせるだけだった。彼女はオーガステンの主治医から紹介された精神科医のフィンチを家に呼び寄せ、「今夜は夫に殺されそうになった」と訴えた。フィンチはオーガステンに、「ご両親のことは大丈夫だ。一緒に解決していこう」と告げた。
フィンチはディアドラに幾つかの質問を投げ掛け、神経を鎮めるためのバリウムを渡した。彼は診療室にディアドラとノーマンを招いて、定期的なカウンセリングを提案した。ノーマンが「仕事がある」と拒否すると、フィンチは「彼は酒浸りで自分の過ちを認めず、家族を殺す恐れがある」とカルテに記した。彼はディアドラとオーガステンをカウンセリングに呼んだ時、離婚を勧めた。隣の部屋に繋がるドアについてオーガステンが尋ねると、フィンチは「オナニーのための部屋だ」と告げる。彼が親子を部屋に案内すると、長女のホープが勝手に入って昼寝をしていた。フィンチは彼女を叱責し、「電話番に戻れ、仕事をしろ」と指示した。
ノーマンは家を出て行き、ディアドラは「やっと詩に集中できる」と口にした。彼女はオーガステンを連れて、フィンチの家を訪れた。オーガステンはフィンチがディアドラを呼んで話している間、彼の妻であるアグネスと2人でテレビを見る。するとアグネスは無表情でドッグフードを食べ、オーガステンにも勧めた。「不潔でしょう。犬のエサだ」とオーガステンが言うと、アグネスは「新しいことに挑戦するのが怖い?哀れね」と告げた。部屋にはクリスマスツリーが飾ってあり、オーガステンが「少し早すぎます」と言うと、アグネスは「いいえ、遅すぎる。もう2年も飾ったまま」と述べた。
オーガステンはフィンチの次女のナタリーから、かつて電気ショック療法で使っていたという装置を見せられる。ナタリーは医師を演じ、オーガステンに患者の役を要求した。彼女はオーガステンの頭部に装置を取り付け、電気を流そうとする。しかしホープが来たので、電気ショック療法は中止になった。オーガステンはフィンチに呼ばれ、「お母さんは危険な状態だ。お父さんがお母さんを殺す危険性もある。お母さんを保護するため、モーテルに連れて行く」と言われる。「ここにいるのは嫌だ」とオーガステンが話すと、フィンチはディアドラに説得するよう頼む。ディアドラはオーガステンに、「数日か、長くても1週間よ」と告げた。
オーガステンはコレクトコールで父に連絡しようとするが、応じてもらえなかった。1週間が経過しても母から連絡は無く、オーガステンはフィンチ家が異常だと感じて日記に書き留めることにした。女性たちは何かを決める時、聖書占いに頼った。フィンチは自分のお気に入りがホープだと公言しており、ナタリーは姉に怒りをぶつけた。ホープは冷静に嫌味を浴びせ、ナタリーは悪態で返した。ホープは猫のフロイトを飼っており、会話が出来ると主張した。
ホープはフロイトを駕籠に閉じ込めて、「フロイトは殺してと言ってる。レム睡眠中にコンタクトしてきた。看取ってくれと言われたから、死ぬまで閉じ込めてる」と語った。フロイトが死ぬとホープは「死因は白血病」と言うが、オーガステンは水もエサも与えず4日も閉じ込めたせいだと確信した。フィンチ家の面々がフロイトを埋葬しているとディアドラが車で通り掛かるが、オーガステンが喜ぶと「週末だから会いに来ただけよ」と冷たく言うだけだった。
1979年。オーガステンは美容師になる夢を抱き、ナタリーにも夢を尋ねる。彼女が「大学で文学を専攻したい」と答えると、オーガステンは「願書を出せばいい」と言う。するとナタリーは、「無理よ、あの家族じゃ」と口にした。彼女が腕を組んで来ると、オーガステンは「僕はゲイだ」と明かす。ナタリーは「知ってたわ。養子のニールもゲイなの」と告げ、「どこにいるの?」と訊かれて「前は裏の納屋にいたけど、パパが家の中に住まわせないから下宿に引っ越した」と説明した。
オーガステンはナタリーの紹介でニールと会い、リナ・ウェルトミューラー監督作品の特集を映画館で観賞した。ニールから母親と会っているのか問われた彼は、「週末に会ってる」と答える。ニールが「ああいう母親は困るよな。俺の母親も育児放棄。父親もだ」と言うと、オーガステンは「僕の父も会ってくれない」と話す。幼少期はフィンチの患者だったニールに、オーガステンは養子になった理由を尋ねた。「13歳からは大人というのが彼の信念だ。だから自分で親を選んだ。ナタリーも同じだ」という彼の言葉で、オーガステンはナタリーも養女だと知って驚いた。するとニールは、テレンスのことを尋ねてみるよう持ち掛けた。オーガステンは自分もゲイだと打ち明け、彼の家に誘われて肉体関係を持った。
オーガステンがディアドラの新居へ行くと、ファーンと抱き合ってキスをしていた。ファーンは慌ててオーガステンに謝罪し、逃げるように家を出て行った。ディアドラは全く悪びれず、「学校で楽しくやりなさい。私との生活より退屈でもね」と告げた。彼女は「今まで抑圧されて、自由になろうと戦って来た。母親と夫からの抑圧と戦い続けてきたけど、ようやく自分が自分だと胸を張れる」と語り、ファーンとの関係を認めてほしいと告げた。
ディアドラは養子縁組の書類を渡し、フィンチ家の養子になるよう指示した。既に彼女はフィンチが法的後見人になることを決めており、「先生と相談して、これが一番いい方法だと思った」と言う。「僕をカウンセラーに売ったの?」とオーガステンが怒鳴ると、ディアドラは「お前にとっても私にとっても、これが一番いいからよ」と告げた。オーガステンはニールと何度も肌を重ね、抱えている不満を聞いてもらった。フィンチは2人の関係を知り、オーガステンに「会うなとは言わないが、近況は報告してくれ」と要求した。
学校をサボっていることをフィンチに注意されたオーガステンは、「中学校には行かない。僕には合わない」と訴える。するとフィンチは「睡眠薬を飲めば行かずに済む」と言い、「死ぬかもしれない」とオーガステンが怖がると「ただの芝居だ。そうすれば、学校に通えない状態だから治療に専念させると説明できる」オーガステンが「幾ら何でも」と尻込みすると、フィンチは「君は冒険心が無いのか」と焚き付ける。オーガステンは睡眠薬を飲んで母親に発見させ、病院に運ばれて処置を受けた。
アグネスは退院したオーガステンに美容師のハンドブックを渡し、それで勉強をするよう勧めた。彼女はオーガステンに、「夢を持つのはいいことよ。苦しいことも乗り越えられるから」と助言した。ディアドラはファーンとの関係を続けようとするが、冷たく拒否された。オーガステンが暗い顔をしていると、ナタリーは「可哀想に見せるのはやめな。自分で乗り越えないと」と諭す。「君に何が分かる?親に捨てられ、恋人に利用されてる気持ちが分かるのか」ととオーガステンが怒鳴ると、彼女は「お気の毒」と嫌味っぽく告げた。
オーガステンがテレンスについて執拗に追及すると、ナタリーは「私が好きだった唯一の人だよ。捨てられたけど」と泣きながら明かした。テレンスはカウンセリングに来ていた患者で、母を亡くして多額の遺産を相続していた。それはナタリーが13歳の時で、テレンスは41歳だった。可愛いと言われたナタリーはテレンスを好きになったが、鎖骨を折られた。フィンチは訴訟にしない代わりに、ナタリーの大学進学の資金を出すようテレンスに要求した。しかしフィンチはテレンスが出した7万5千ドルの全額を娘のために使わず、自分の脱税分として国税庁に支払った。
オーガステンは「天井の狭いキッチンは嫌だ」と言い、同調したナタリーと天井に穴を開けた。フィンチは治療に来たニールから怒りの言葉を浴びせられるが、淡々と「確かに私は何もしてやれなかった」と受け流すだけだった。「どうして俺を家族にしてくれないんだ」とニールが訴えると、彼は「私の言うことが絶対だからだ。従わなければ罰を与える」と述べた。アグネスはディアドラと会い、「貴方に話があるの。もう夫とは会わないで」と告げた。「でもセラピーを受けなきゃ。先生が必要なの」とディアドラが言うと、彼女は「彼が必要なのは私よ。家族には彼が必要なの」と告げる。しかしディアドラは全く反応せず、「セラピーに行かないと」とフィンチの元へ向かう。フィンチは「君に必要なのは崇拝してくれるファンだ」とディアドラに語り、患者のドロシーを紹介した。
国税庁職員のマイケル・シェファードはフィンチ家を訪れ、6週間後に家を差し押さえることを通告した。ホープは動揺するフィンチを励まし、嫌味を言うナタリーを睨んで「パパは大型客船よ。パパが沈めば大勢の客が道連れになるのよ」と告げた。オーガステンは美容学校に入るための練習を繰り返し、ニール&ナタリー&ホープの頭髪を実験台に使った。ホープはシチューを作ってナタリーに味見させ、フロイトの肉を使ったことを嬉しそうに明かす。ナタリーが「正気じゃない」と激怒し、同席していたオーガステンとニールも呆れて立ち去ると、ホープは「冗談に決まってるでしょ」と声を荒らげた。
ディアドラはドロシーを伴ってポエトリー・クラブの会合を開き、オーガステンとニールを招いた。メンバーのジョーンが「やっぱり男性がいると落ち着かない」と不安を漏らすと、ディアドラは「そんなことより貴方の詩に母親が欠けていることの方が問題よ」と鋭く告げた。ニールが激しい口調で攻撃的な詩を読むと、ディアドラは「怒りを吐き出していて素晴らしい」と絶賛した。ドロシーはディアドラに促されて台所へ行き、飲み物を用意した。オーガステンが「仕事中のママに飲み物を出すのは僕の役目だ」と苛立つと、彼女は「ママは今、私の物よ」と落ち着き払って告げる。オーガステンが「イカれたママを見て面白がってるんだろ」と声を荒らげると、ドロシーは「視野が狭いのね。ママは芸術家よ」と見下した態度で言い放った…。

脚本&製作&監督はライアン・マーフィー、原作はオーガステン・バロウズ、製作はデデ・ガードナー&ブラッド・ピット&ブラッド・グレイ、製作総指揮はスティーヴン・サミュエルズ、共同製作はオーガステン・バロウズ&ボニー・ワイス、撮影はクリストファー・バッファ、美術はリチャード・シャーマン、編集はバイロン・スミス、衣装はルー・エイリッチ、音楽はジェームズ・S・レヴィン、音楽監修はP・J・ブルーム。
出演はアネット・ベニング、ブライアン・コックス、ジョセフ・ファインズ、エヴァン・レイチェル・ウッド、アレック・ボールドウィン、ジル・クレイバーグ、ジョセフ・クロス、グウィネス・パルトロー、ガブリエル・ユニオン、クリスティン・チェノウェス、パトリック・ウィルソン、コリーン・キャンプ、ダグマーラ・ドミンスク、ジャック・キーディング、ガブリエル・グエジ、ナンシー・カサーロ、オミッド・アブタニ、ジュリー・レマラ、ウィル・カーター、ボニー・ワイス、ダコタ・マセット、マリアンヌ・ミューラーリール他。


オーガステン・バロウズによる回想録を基にした作品。
TVドラマ『マイアミ整形外科医』のクリエーターであるライアン・マーフィーが、初の映画監督&脚本を手掛けている。
ディアドラをアネット・ベニング、フィンチをブライアン・コックス、ニールをジョセフ・ファインズ、ナタリーをエヴァン・レイチェル・ウッド、ノーマンをアレック・ボールドウィン、アグネスをジル・クレイバーグ、オーガステンをジョセフ・クロス、ホープをグウィネス・パルトロー、ドロシーをガブリエル・ユニオン、フェーンをクリスティン・チェノウェス、シェファードをパトリック・ウィルソン、ジョーンをコリーン・キャンプが演じている。

1972年のエピソードだけで、ディアドラがヤバい母親であることは分かる。しかしオーガステンのナレーションでは、そんなことを微塵も感じていない様子だ。
彼が語るのは、母への強い愛情だけだ。
ディアドラが単に「風変わりな女性」というだけなら、オーガステンと彼女のベッタリの親子関係も、そんなに問題視する必要は無いだろう。しかし彼女は母親として大いに問題のある人物だ。
ただ、オーガステンは冒頭で母を捨てたことを語っているので、「幼少期は母を無邪気に愛していたが、やがて問題の本質に気付き、親離れすることを決意した」という展開に至るのは予想できる。

幼少期のオーガステンは、ディアドラのヤバさに全く気付いていない。どうやら、これをライアン・マーフィーはオフビートな喜劇として描こうとしたらしい。
しかし残念ながら、「ディアドラのヤバさとオーガステンの意識の違い」ってのが、笑いに昇華していない。
そこを笑いに繋げようとするなら、例えば幻想を持ち込む方法があるし、ミュージカル仕立てにするってのも1つの手だろう。ただ、冒頭からオーガステンに語りを担当させているのだから、そこを利用するのが最も手っ取り早い。
つまり、もっとナレーションを増やして、「実際に描かれている母の様子と、オーガステンの感覚が全く違う」ってのを強調すればいいのだ。

ただし困ったことに、1978年になってディアドラとノーマンが激しい口論になると、仲裁に入ったオーガステンは「ウチは普通じゃない」と声を荒らげる。
この段階で、彼は「我が家は異常」と気付いてしまうのだ。
「我が家は異常」ってのは、つまり「ディアドラも普通じゃない」と気付いたってことだろう。
そうなると、もう前述した「ナレーションによるギャグへの転化」も使えなくなる。そのため、ただ陰鬱な雰囲気が流れるだけになってしまう。

オーガステンは「ウチは普通じゃない」と怒鳴った後もディアドラを全面的に擁護し、彼女を慕って愛し続ける。
「異常だけど愛してる」ってのは別に構わないのだが、これをギャグにも昇華できていないし、親子愛のドラマとしても全く掘り下げることが出来ていない。
っていうか、実は「オーガステンがホントにディアドラを異常だと認識しているのか」ってのも分からなくなる。
そういうタイミングで語りに頼ってもいいだろうに、ナレーションは全く入らない。

フィンチの家を訪れた時、オーガステンは「まさか、ここが医者の家?」と驚いている。しかし、「何に対してどのように感じたのか」という具体的な感想が良く分からない。
フィンチの家は庭に色んな物が無雑作に放置してあるので、「ちょっと変な家」という印象を受けることは事実だ。だが、あまりにも曖昧模糊としているため、「フィンチの家を訪問したオーガステンの衝撃度」が充分に伝わって来るとは到底言い難い。
そこは、もっと丁寧な感想が必要になる箇所なのだ。
だからナレーションを利用すればいいものを、なぜか冒頭を過ぎるとオーガステンは全く語らなくなっちゃうのよね。

フィンチ家の人々に関しては、オーガステンは最初から「こいつらは異常」ってことをハッキリと認識している。
だったらディアドラに関しても、同じように扱った方が統一感は出る。
あえてディアドラだけ特別視したのかもしれないが、それが作品の面白さに繋がっている部分は1ミクロンも無い。
「フインチ家が異常だと感じていたオーガステンだが、実はディアドラも負けず劣らずの異常だと気付く」という展開で話を盛り上げたり喜劇を構築したりすることも出来なくは無いが、そこへの意識は感じない。

それはともかく、そこを前面に押し出して観客を引き付けようとするには、フィンチ家の人々の異常性は弱すぎる。
「聖書占いで夕食のメニューを決める」とか「ホープが猫を閉じ込めて死に至らしめる」ってのは、もちろん二択で問われたら異常の部類に入るだろう。
でも、「その程度か」と感じてしまう。
夕食が魚のフライとブドウだけとか、フィンチが家族の前で「ホープがお気に入り」と言うとか、それが原因で娘たちが喧嘩するとか、フィンチが冷静にコメントするってのは、そこまで異常とも思わない。

ハッキリ言って、この一家で最も異常性を感じさせたのは、アグネスが無表情でドッグフードを食べているシーンだ。そして、それはまだオーガステンが「この家族は異常だ」とナレーションする前の出来事なのだ。
それ以降のフィンチ家の人々の描写を見ていても、そこにはギャグに出来るほどの異常性も感じないし、オーガステンが辛い目に遭わされたと感じさせる異常性も無い。
ナタリーは大学進学について「無理よ、あの家族じゃ」と言ってフランケンシュタイン家になぞらえるけど、そこと比較できるほどの異常性なんてアピールできてないからね。
そして皮肉なことに、最も異常性を感じさせたアグネスが、フィンチ家では唯一のマトモな人物なのだ。

オーガステンはナタリーから腕を組まれた時、「僕はゲイだ」と言う。でも、そこまでに彼が同性愛者ってことを描写するシーンは1つも無かった。
直接的な描写や台詞は無くてもいいけど、匂わせる程度の手順はあった方がいいでしょ。そうじゃないと、唐突な告白で話の流れとしてギクシャクしちゃうでしょ。
まあ実際には全くギクシャクしていないけど、それは皮肉なことに「オーガステンがゲイであろうがなかろうが、どうでもいい。何の興味も湧かない」ってことだからね。
キャラクターや物語に魅力が無いから、そこに驚きを感じないだけだからね。

オーガステンは母の言動に腹を立てたり、ニールに利用されていると感じて苛立ったりする。ナタリーにテレンスのことを尋ねる時には、返答を避けようとする彼女に「じゃあ苦しんでるのは僕だけなのか」と感情を爆発させる。
でも彼が落ち込んだり悲しそうにしたりしても、これっぽっちも同情心が湧かないんだよね。
話の中身を見てみれば、彼が不幸な家庭環境にあることは事実なのよ。だけど彼の愚かしさが引っ掛かって、同情心を削いでしまうんだよね。
「まだ若くて未熟だから失敗や間違いを繰り返すのも仕方がない」って風に受け止めるべきなんだろうけど、設定年齢(1978年の時点で13歳)に対して見た目も演者の実年齢(撮影当時のジョセフ・クロスは19歳)も随分と年上なのよねえ。

あと、まとまりが無くて話が散らかってるってのも、大きな問題だ。ずっと足元が定まらず、進行方向もハッキリせず、あっちへフラフラ、こっちへフラフラって感じなのよね。
急にドラマを盛り上げようとして、そこへの流れを上手く作れていないから完全に外している箇所もあるし。シュールなカルト映画として楽しめるほど、大胆に振り切っているわけでもないし。
例えば「第1章:ホニャララ」って感じのチャプター形式にして、1つのエピソードが終わる度に区切りを付けて次へ移る構成にした方が良かったんじゃないかな。
あくまでも、「これよりはマシになる」という程度だけどね。

(観賞日:2021年10月11日)

 

*ポンコツ映画愛護協会