『バトルランナー』:1987、アメリカ
2017年。アメリカ合衆国は警察国家と化し、あらゆる娯楽は国家の統制下に置かれた。マスコミも政府によって管理されることになった。テレビ局ICSでは法務省の認可を受けた殺人ゲームショー「ランニング・マン」を放送しており、この番組に民衆は熱狂している。
警察官のベン・リチャーズは、暴動を起こした市民の制圧に向かった。しかし武器を持たない市民の抹殺指令を拒否し、逮捕されてしまう。労働留置所に送られたリチャーズは囚人仲間のラフリンやワイスと共に脱獄を計画し、留置所から逃げることに成功する。
レジスタンス活動に力を入れるラフリンとワイスに別れを告げたリチャーズは、自分が市民の大量虐殺犯に仕立て上げられていることを知る。彼はCISのテーマ曲を作っているミュージシャンのアンバー・メンデスを人質にしてハワイへの逃亡を図るが、発見されて捕まってしまう。
リチャーズを捕まえさせたのは、「ランニング・マン」の司会者であるデイモン・キリアンだった。彼は視聴率上昇のためにタフな参加者を探しており、そして目を付けたのがリチャーズだったのだ。キリアンはリチャーズを、“ランナー”として強制的に番組に参加させることにした。
「ランニング・マン」は、“ランナー”が“ストーカー”と呼ばれる戦士の追跡を受けながら、4つのブロックを3時間以内に抜けるというゲームだ。リチャーズは同じように捕まったラフリンやワイス、そして放送局の陰謀を知って捕まったアンバー達と共に、生き延びることができるのか…。監督はポール・マイケル・グレイザー、原作はリチャード・バックマン、脚本はスティーヴン・E・デ・スーザ、製作はティム・ジンネマン&ジョージ・リンダー、製作総指揮はキース・バリッシュ&ロブ・コーエン、撮影はトーマス・デル・ルース、編集はマーク・ロイ・ワーナー&エドワード・A・ウォーズチルカ&ジョン・ライト、美術はジャック・T・コリス、衣装はロバート・ブラックマン、特殊効果監修はR・ブルース・スタインハイマー、特殊視覚効果監修はゲイリー・グティエレス、振付はポーラ・アブドゥル、音楽はハロルド・フォルターメイヤー。
主演はアーノルド・シュワルツェネッガー、共演はマリア・コンチータ・アロンゾ、リチャード・ドーソン、ヤフェット・コットー、ジム・ブラウン、ジェシー・ヴェンチュラ、アーランド・ヴァン・リドス、マーヴィン・J・マッキンタイヤー、バーナード・ガス・レスウィッシュ、プロフェッサー・トール・タナカ、ミック・フリートウッド、ドウィージル・ザッパ、カレン・リー・ホプキンス、スヴェン・ソーセン、エディ・バンカー、ブライアン・ケスナー他。
スティーヴン・キングがリチャード・バックマン名義で書いた小説を映画化した作品。
原作がスティーヴン・キング(内容は原作とかなり違っているが)で、脚本はスティーヴン・E・デ・スーザで、主役がアーノルド・シュワルツェネッガー。
この時点で作品の質が知れようというものだ。
これはスーパー・バカ・アクション映画である。テレビ局の持つ暴力性とか政府の言論統制、ねつ造の恐ろしさを描いているのかもしれないが、そんなことはどうだっていいのだ。
というか、もしもそんなメッセージがあったとしても、バカな連中がバカな殺人ショーに熱狂している姿によって、完全に消え失せてしまう。出てくる奴らはみんなバカ。
リチャーズは、いかにもギャーギャー騒ぎそうな女アンバーを人質にする。
で、やっぱり騒がれて捕まってしまう。
アンバーは能無しの上に、ヒロインとしての魅力さえ持っていない。
それはキャラ設定よりも、演じる役者の問題ではあるが。「ランニング・マン」が始まると、まずペラペラの電子ロックに合わせて、レオタード姿の姉ちゃん達が頭パッパラパーな状態でダンスを踊る。
ただそれだけで、なぜか観客は熱狂して立ち上がり、リズムを刻んだりする。
情けないことに、このマヌケなダンスシーンがムダに長いんだ。「ランニング・マン」のストーカーは、まず殺人スティックを使う巨漢サブゼロ。
アイスホッケーのキーパーのようなスタイルで襲ってくる。
続いては、電動ノコギリとチェーンを振り回すバズソーが登場。
彼はバイクに乗って襲ってくる。お次は、電飾だらけの鎧を着けたローマ兵士モドキみたいなダイナモ。
こいつはオペラを歌い、装甲車でやって来る。
最後は火炎放射器を使うファイヤーボール。
しかし、リチャーズは圧倒的に強いので(というか敵が圧倒的に弱いので)、大したピンチも迎えずに、敵を次々と倒して行く。リチャーズにはラフリンやワイスのような、政府の謀略を暴こうとする正義感は無い。
最初は「ただ逃げる」とことだけを考えていたリチャーズだが、ストーカーと戦う彼の様子は、明らかに殺人ゲームを楽しんでいる。
とても「謀略に巻き込まれた不幸な主人公」には見えない。キリアンを退治してハッピーエンドというのは、かなりムチャな話だ。
だって彼は単なる司会者に過ぎないのよ。
番組にはプロデューサーがいるし、テレビ局には局長がいる。
そういう連中を倒さない限り、同じような殺人番組が続く可能性は高いでしょうに。それに、例え「ランニング・マン」が無くなったとしても、警察国家と化した政府がマスコミを管理しているという状況は変わらないでしょ。
つまり、リチャーズの行動ってのは、テレビ番組の司会者を1人始末しただけという、かなりチープなものなのよね。
ま、映画自体がチープなんだけどさ。