『パルプ・フィクション』:1994、アメリカ

強盗カップルのパンプキンと恋人のハニー・バニーは、レストランで標的にすべき場所について会話を交わす。パンプキンは様々な場所で警備が厳しくなっていることを話し、この店を狙おうと持ち掛けた。パンプキンの説明を受けたバニーは賛成し、2人は拳銃を抜いて「強盗だ!」「騒いだら殺す!」と怒鳴った。ヴィンセントとジュールスはマフィアのボスであるマーセルス・ウォレスに命じられ、組織の金を横取りしたブレットの部屋を乗り込んだ。ブレットの部屋には、彼の友人であるマーヴィンとロジャーもいた。ジュールスはブレットを脅し、金を取り戻した。それからロジャーとブレットを射殺した。
ボクサーのブッチはマーセルスから八百長試合を持ち掛けられ、5ラウンドで負けることを承諾した。ヴィンセントは出張するマーセルスに頼まれ、彼の妻であるミアの相手をすることになった。ヴィンセントは事前に、ミアにマッサージをした男が嫉妬したマーセルスから酷い目に遭わされたことをジュールスから聞かされていた。ミアはヴィンセントを引き連れて“ジャック・ラビット・スリム”というバーに入り、ツイスト・コンテストに誘った。
ミアを自宅まで送り届けたヴィンセントは、誘惑に負けずに立ち去ろうとする。しかしミアがオーバードーズで意識を失ったので、売人のランスに連絡を入れて助けを求めた。嫌がるランスと妻のジュディーが住む家に駆け込んだヴィンセントは、アドレナリンの注射を心臓に突き刺すよう促される。思い切ってミアに注射を打つと、彼女は息を吹き返した。ヴィンセントはミアを自宅まで送り届け、今回の一件は内緒にしようと誓い合った。
ブッチは八百長試合でマーセルスを裏切って勝利し、相手選手を死なせてしまった。彼は今回の試合に大金を賭けており、弟に電話を掛けて確認を取った。エズメラルダという女が運転するタクシーでモーテルへ赴いた彼は、恋人のファビアンと落ち合った。ファビアンは逃走のための荷物を運び込んでいたが、ブッチは大切にしている金時計が無いことに気付く。それは曾祖父から受け継がれてきた時計であり、捕虜収容所で亡くなった父が戦友のクーンツ大尉に託してブッチの元へ届けられた形見だった。
アパートへ金時計を取りに戻ったブッチは、金時計を見つけた。ハンドマシンガンに気付いて手に取った直後、トイレからヴィンセントが出て来た。ブッチはヴィンセントを射殺し、車で立ち去った。マーセルスを目撃した彼は、車でひき殺そうとする。しかし失敗に終わり、マーセルスの発砲を脚に受けたブッチは逃げ出した。質店に逃げ込んだブッチはマーセルスと揉み合いになり、彼の銃を奪って形勢を逆転させる。しかし店主のメイナードに銃を向けられ、おとなしくするよう脅された。
ブッチとマーセルスはメイナードに捕まり、暴行を受けて椅子に拘束された。そこへ共同経営者であるゼッドが現れ、見張り役の覆面男を呼び出した。ゼッドはメイナードと共にマーセルスを奥の部屋に連れ込み、彼を強姦する。ブッチは拘束を解いて覆面男を殴り倒し、その場から逃走しようとする。しかし思い直して店に戻り、日本刀を手に取った。彼は奥の部屋に乗り込んでメイナードを殺害し、マーセルスがゼッドに銃弾を浴びせた。マーセルスは「お前との問題はチャラだ。このことは秘密にして街を出て行け」とブッチに告げた。ブッチはファビアンの元へ戻り、彼女をバイクに乗せて街を出た。
ヴィンセントとジュールスがブレットとロジャーを始末した時、その直後に予想外の出来事が発生していた。トイレに潜んでいた第4の男が飛び出し、銃を乱射したのだ。しかし6発の銃弾は、ヴィンセントとジュールスにかすりもしなかった。男を始末したジュールスは「神のおかげだ。奇跡が起きた」と言い、足を洗うと言い出した。2人はマーヴィンを車に乗せるが、ヴィンセントが誤って射殺してしまう。困ったジュールスは知人のジミーに頼り、彼の家で何とか問題を解決しようとする。ジュールスはマーセルスに電話を掛けて、事情を説明した。すると掃除人のザ・ウルフがヴィンセントたちの元へ派遣され、事後処理に取り掛かった…。

脚本&監督はクエンティン・タランティーノ、原案はクエンティン・タランティーノ&ロジャー・エイヴァリー、製作はローレンス・ベンダー、製作総指揮はダニー・デヴィート&マイケル・シャンバーグ&ステイシー・シェア、共同製作総指揮はボブ・ワインスタイン&ハーヴェイ・ワインスタイン&リチャード・N・グラッドスタイン、撮影はアンジェイ・セクラ、編集はサリー・メンケ、美術はデヴィッド・ワスコ、衣装はベッツィー・ハイマン、音楽監修はカリン・ラットマン。
出演はジョン・トラヴォルタ、サミュエル・L・ジャクソン、ブルース・ウィリス、ユマ・サーマン、ハーヴェイ・カイテル、ティム・ロス、アマンダ・プラマー、マリア・デ・メディロス、ヴィング・レイムス、エリック・ストルツ、ロザンナ・アークエット、クリストファー・ウォーケン、ポール・カルデロン、ブロナー・ギャラガー、ピーター・グリーン、スティーヴン・ヒバート、アンジェラ・ジョーンズ、フィル・ラマール、ロバート・ラス、ジュリア・スウィーニー、クエンティン・タランティーノ、フランク・ホエーリー、デュエイン・ウィテカー他。


『レザボアドッグス』で監督デビューしたクエンティン・タランティーノが次に撮った作品。
カンヌ国際映画祭のパルム・ドールやアカデミー賞脚本賞など、数々の映画賞を獲得している。
ヴィンセントをジョン・トラヴォルタ、ジュールスをサミュエル・L・ジャクソン、ブッチをブルース・ウィリス、ミアをユマ・サーマン、ザ・ウルフをハーヴェイ・カイテル、パンプキンをティム・ロス、バニーをアマンダ・プラマー、ファビアンをマリア・デ・メディロス、マーセルスをヴィング・レイムス、ランスをエリック・ストルツ、ジョディーをロザンナ・アークエット、クーンツをクリストファー・ウォーケンが演じている。

『パルプ・フィクション』というのは日本語に訳せば、「三文小説」とか「くだらない話」ってこととなる。
1894年に誕生し、1950年代まで主にアメリカで発売されていた安い雑誌のことを「パルプ・マガジン」と総称していた(使われていた紙が質の悪いパルプだった)。
そして、そこに掲載されていた小説が「パルプ・フィクション」と呼ばれていたのだ。
ただし、低俗雑誌とされているパルプ・マガジンだが、ダシール・ハメットやエルモア・レナード、ロバート・A・ハインラインやアイザック・アシモフ、エドガー・ライス・バローズやフィリップ・K・ディックなど、著名な作家も数多く執筆していた。

それはともかく、『パルプ・フィクション』というのは、とりあえず前述したような意味になるわけだが、そのタイトル通り、この映画は最初から最後まで、くだらない話が続く。
登場人物による会話の内容は、その大半が無駄話だ。
チープな話がダラダラと繰り広げられ、取り立てて強烈な展開があるわけでもなく、取り立てて意外性のあるオチが待ち受けているわけでもなく、ダラダラした雰囲気のままで終幕を迎える。

そんな風に説明すると、「ってことは、クソみたいな映画なんだな。どうしようもない駄作なんだな」と思うかもしれない。
ところがどっこい、これが困ったことに、面白いのである。
チープなのも、ダラダラしているのも、無駄話のオンパレードなのも、決してマイナスに作用していない。むしろ、その雰囲気が心地良いし、無駄話も退屈せずに聞いていられる。
この映画では「無駄」こそが魅力だ。無駄話のテンポや喋り方や内容が絶妙で、飽きさせないように出来ている。

タランティーノは「かつて人気者だったが落ち目になった俳優」とか「過去にB級映画で活躍していたが今はパッとしない俳優」を起用して、輝かせることが得意な人だ(っていうか好きなんだろう)。
後に『ジャッキー・ブラウン』ではパム・グリアやロバート・フォスター、『キル・ビル』ではデヴィッド・キャラダインや千葉真一を使っていたが、この映画ではジョン・トラヴォルタを復活させている。
長く低迷していた(『ベイビー・トーク』はヒットしたけど)彼が第一線に返り咲いたのは、間違いなく本作品のおかげだ。

この映画で何よりも素晴らしいのは、そんなトラヴォルタが演じるヴィンセントを始めとして、「キャラクターがみんな魅力的」ってことではないだろうか。
強盗事情を詳しく語るパンプキン、最初は懐疑的だったが納得すると荒っぽい口調で店内の人間に向かって凄むハニー・バニー、デタラメな聖書の一節を暗唱するジュールス、ツイストを踊るヴィンセントとミア、日本刀を振り回すブッチ、淡々と殺人事件の後片付けをする職人のザ・ウルフ。
何より、カッコ付けてるのがダサいんだけど、そのダサいところがカッコ良く見えるという、とても稀な映画なのである。

この映画は時系列をシャッフルして構成されている。
映画で描かれる順番に、出来事が発生しているわけではない。
無粋かもしれないが、大まかに時系列順を説明すると、「ヴィンセントとジュールスが会話を交わしながら裏切り者の始末に行く」→「仕事を終えた2人がザ・ウルフの強力で事後処理を済ませる」→「レストランへ出掛けた彼らがカップル強盗と遭遇する」→「ブッチが八百長を持ち掛けられる」→「ミアがヴィンセントと遊んだ後でオーバードーズになり、ランスの治療を受ける」→「ブッチが試合をしてファビアンと会い、金時計を取りに戻ってヴィンセントを殺害する」→「ブッチがマーセルスを殺そうとして失敗し、ファビアンと共に捕まる」→「脱出したブッチが復讐を遂行し、町を脱出する」という流れである。

そのように時系列順に並べ替えて構成してみると、実は取り立ててどうということはない凡庸なストーリーである。
繰り返しになるが、まさに『パルプ・フィクション』というタイトルの示す通り、くだらない話なのである。
しかし、時系列をシャッフルすることで、もっと深みがあって面白い話のように見せ掛けているのだ(作品のジャンルは全く異なるが、日本では『呪怨』が同じ手法を使っていた)。
そのように書くと、それが悪いことのように思うかもしれないが、それはそれで1つのやり方だ。それに、時系列をシャッフルしたところで、ホントにダメな映画はそのことを隠し切れないから、やっぱり「ダメな映画」という印象になってしまうのだ。

それと、当時のアメリカにおいて、ここまで時系列をグチャグチャにしたり、善悪の色分けがハッキリしていなかったりして、全てが混然とした映画というのは、目新しかったんじゃないかとも思う。
似たようなテイストを感じさせる映画って、今では色々と思い付くかもしれないけど、それはクエンティン・タランティーノが『パルプ・フィクション』によって作り出した潮流と言っていいだろう(ちなみに『レザボアドッグス』の影響を受けた作品も多く作られている)。
「物語の構成をグチャグチャに解体して自由に遊びまくった映画なら、ジャン=リュック・ゴダール監督がやっていたんじゃないの」と言われたら、それはその通りかもしれない(私はゴダールにそこまで詳しいわけじゃないから、何とも言えないんが)。
だけど、たぶんゴダールを見ている人って、この作品の主な観客層と合致しないような気がするんだよね。
あと、ゴダールに娯楽映画としての面白さを感じ取ることが出来る人って、多数派だとは思えないし。

ある程度の冗長さは映画の魅力に繋がっていると言えるし、退屈はしないけど、さすがに154分という上映時間は長すぎるかな。
2時間以内、出来れば90分以内にまとめてほしかったところだ。
ただし、ひょっとすると2時間を遥かに超えた上映時間であることが、カンヌ国際映画祭の審査員がパルム・ドールに推した一つの要因になっているんじゃないかという気がしないでもないんだけどね。
っていうか、面白い映画ではあるけど、パルム・ドールは違うんじゃねえかと思うぞ。

(観賞日:2014年2月20日)

 

*ポンコツ映画愛護協会