『パブリック・アイ』:1992、アメリカ

1940年代のニューヨーク。レオン・バーンステインは報道カメラマン。時に強引な方法を使ってもインパクトの強い写真をモノにすることから、仲間内からは奇術師フーディーニをもじってバーンジーニと呼ばれている。ギャングとの繋がりも深く、裏社会にも詳しい。
ある時、彼はナイトクラブを経営するケイ・レヴィッツという女性に招かれた。彼女の死亡した夫ルーに金を貸していたというエミリオ・ポートフィノなる人物が、共同経営者にしろと言ってきて困っているという。ポートフィノの調査を依頼されたバーンジーニは、それを引き受けることにした。
ポートフィノの住むマンションに向かったバーンジーニは、そこで彼が殺されているのを発見する。バーンジーニは警察やFBI捜査官に執拗な尋問を受け、さらにマフィアのファリネーリからもポートフィノとの関係について追及される。
調査を進めたバーンジーニは、ルーとポートフィノがガソリンを買い占めていたことを知る。それは軍に大きな打撃を与えることになる。2人は切符をファルネーリ一味に売っていたが、ルーが死んだ後にポートフィノは対立するスポレト一味にも切符を売っていた。それが原因で殺されたのだ。
バーンジーニはファルネーリ一味のサルがスポレト一味に寝返っており、物価管理局のグレイもスポレト一味に加担していることを突き止める。サルからスポレト一味がファルネーリ一味を皆殺しにする計画があることを聞き出したバーンジーニは、その瞬間を撮影しようとするのだが…。

監督&脚本はハワード・フランクリン、製作はスー・ベイデン=パウエル、製作総指揮はロバート・ゼメキス、撮影はピーター・サスチスキー、編集はエヴァン・ロットマン、美術はマーシア・ハインズ=ジョンソン、衣装はジェーン・ロビンソン、音楽はマーク・アイシャム。
主演はジョー・ペシ、共演はバーバラ・ハーシー、スタンリー・トゥッチ、ジェリー・アドラー、ジャレッド・ハリス、ゲリー・ベッカー、ドミニク・チアネーゼ、デル・クローズ、リチャード・フォロンジー、ティム・ギャンブル、ボブ・ガントン、ジョー・ガザルド、ピーター・マロニー、リチャード・リール、デヴィッド・ジャノプーロス、デヴィッド・ハル、ルイ・ランシロッティー、パトリシア・ヒーリー、ジョー・グレコ他。


実在した写真家アーサー・H・フェリグをモデルにした作品。バーンジーニをジョー・ペシ、ケイをバーバラ・ハーシー、サルをスタンリー・トゥッチ、スポレトをドミニク・チアネーゼ、ファリネーリをリチャード・フォロンジーが演じている。

フェリグは『裸の街』という写真集を残しており、映画の中でも彼の撮影した写真が使用されている。しかし、フェリグの生き方をドキュメンタリー・タッチで描くのではなく、彼をモデルにしたクライム・サスペンスとして映画を作ったわけだ。
モノクロやスローモーション映像を多用して、ハードボイルドな雰囲気を出すことには成功している。でも、雰囲気だけでは乗り切れない。

バーンジーニが写真集を出版しようとしているが、「芸術写真ではない」と言われて断られるという展開がある。他にも、「芸術写真家は功績を残すことが出来るが、報道写真家は違う」といったセリフが出て来たりする。
しかし、報道写真家の悩みが、映画のテイストと融合することはない。

「ありのままを写すのがオレの流儀だ」と偉そうに言うバーンジーニ。
だが、死体に帽子をかぶせたり、ギャングにポーズを要求したりする。
ものすごく言葉と行動が矛盾している。

一匹狼のバーンジーニが、大した見返りも求めずにケイの依頼を引き受けるという物語の滑り出しが不自然に感じられ、その後の展開にハマっていけない。
「ケイに惚れた」というのが理由のようだが、どうも行動理由としては浅い。

もっとケイに惚れたことがあからさまに描かれていれば、良かったのかもしれない。
だが、バーンジーニのキャラ設定を考えると、女に惚れて危険な行動に出るよりも、例えば写真集の出版と引き換えに動くといった理由の方が良かったのでは。

そもそも、ケイという女性がバーンジーニを虜にするほど魅力的には見えない。
そこらにいる水商売系の女にしか感じられないし、妖艶な色気も無い。
バーンジーニとケイの恋愛に関する心理描写も、あまり上手く出ているとは思えない。

どうも物語の輪郭が見えてこない。
事件の核となる部分がどのようなものなのか、どういう線を描いてどういう方向へ進もうとしているのか、そういうことが、なかなか見えてこない。
ポイントとなるべき部分の説明が、不足しているように感じられる。

サスペンスとしての緊張感は、ほとんど無い。
それは、主人公のポジションに問題があるのではないだろうか。
バーンジーニの身に危険が迫るとか、そういった展開があっても良かったのでは。
どうも事件と主人公が遠い位置にあるように感じられるのだ。

終盤、バーンジーニはスポレトがファリネーリ一味を皆殺しにする現場に向かう。
が、目的は写真撮影であり、皆殺しを防ぐ気は全く無い。
確かに、その写真を使ってスポレトを逮捕させるという意図はあるのだが、やはり事件に対して傍観者の位置にいるように思える。最後まで、事件との位置が遠い。

 

*ポンコツ映画愛護協会