『プラクティカル・マジック』:1998、アメリカ
200年以上も前のこと、オーウェンズ家の先祖マリアは魔女の魅力で男達を虜にしたため、島流しにされてしまった。身篭っていた彼女は恋人の助けを待ったが、男は現れなかった。絶望したマリアは自分自身に魔法を掛け、それは「オーウェンズ家の女を愛した男には必ず災いが降りかかる」という呪いになった。
サリーとジリアン姉妹の母も、呪いから逃れることは出来なかった。彼女は夫の死に遭遇し、悲しみの中で死んでいった。まだ幼かったサリーとジリアンは、叔母のジェットとフランシスに引き取られ、2人から魔法を教わりながら成長した。
やがて成長したサリーとジリアンは、恋愛に対して正反対の考え方を持つようになっていた。サリーは叔母の家に残り、恋なんて絶対にしないと心に誓っていた。一方のジリアンは、家を出て男を渡り歩くという奔放な暮らしをするようになっていた。
ジェットとフランシスの魔法によって、サリーはマイケルという男と恋に落ちた。2人は結婚し、カイリーとアントニアという2人の娘に恵まれた。しかし、サリーの幸せは永遠には続かなかった。マイケルが交通事故によって亡くなってしまったのだ。
ある日、サリーの元にジリアンから助けを求める電話が掛かってくる。ジリアンはジミーという男と付き合っていたが、彼の暴力に苦しんでいたのだ。ジリアンは駆け付けたサリーと共に逃げ出そうとするが、ジミーに捕まってしまう。
サリーとジリアンは魔法の薬を飲ませてジミーを眠らせようとするが、分量が多すぎて死なせてしまう。2人は家の庭にジミーの死体を埋め、魔法によって彼を甦らせようとする。そんな中、ジミーの行方を追う検事局の特別捜査員ゲイリー・ハレットが2人の元を訪れる。彼はサリーとジリアンがジミーが殺害したのではないかと疑いを持つ…。監督はグリフィン・ダン、原作はアリス・ホフマン、脚本はロビン・スウィコード&アキヴァ・ゴールズマン&アダム・ブルックス、製作はデニース・ディ・ノーヴィ、共同製作はロビン・スウィコード、製作総指揮はメアリー・マクラグレン&ブルース・バーマン、撮影はアンドリュー・ダン、編集はエリザベス・クリング、美術はロビン・スタンデファー、衣装はジュディアンナ・マコフスキー、音楽はアラン・シルヴェストリ、音楽監修はダニー・ブラムソン。
出演はサンドラ・ブロック、ニコール・キッドマン、アイダン・クイン、ダイアン・ウィースト、ストッカード・チャニング、ゴラン・ヴィシュニック、クロエ・ウェブ、エヴァン・レイチェル・ウッド、アレクサンドラ・アトリップ、マーゴ・マーティンデイル、ルシンダ・ジェニー、メアリー・グロス、マーク・フュアースタイン、カプリス・ベネディッティー、アナベル・プライス、カミーラ・ベル他。
アリス・ホフマンの小説を映画化した作品。サリーをサンドラ・ブロック、ジリアンをニコール・キッドマン、ハレットをアイダン・クイン、ジェットをダイアン・ウィースト、フランシスをストッカード・チャニング、ジミーをゴラン・ヴィシュニックが演じている。
男の存在は非常に薄い。ということは、あくまでも“女”を描くことだけに集中しているのかと思ったが、それにしては女性キャラクターの女としての喜び、悲しみ、楽しみ、苦しみ、そういった感情の機微がどれほど伝わってくるかというと、これもまた薄い。
とにかく展開がメチャクチャで付いていけない。例えば、サリーはマイケルと会った次のシーンには彼と強く抱き合ってキスをして、次のシーンでは2人が結婚していて、次のシーンでは2人の娘が生まれている。あまりに展開が急激すぎる。叔母2人の魔法によって、サリーがマイケルと瞬時にして恋に落ちてしまうという展開は、別に構わない。しかし、2人の恋愛模様をスッ飛ばしてしまったら、どれほどサリーがマイケルを本気で愛していたのかがサッパリ見えてこない。
サリーとマイケルが惹かれ合って愛を深めていく様子が描写されてこそ、後で訪れるマイケルの死の悲劇性が高まるはずだ。それなのに2人の恋愛模様が省略されているから、ただ“唐突にやって来た死”というだけで、何の悲劇性も感じられない。
で、魔法による蘇生を考えるほどに大きなショックを受けたはずのサリーだが、マイケルの死を後に引き摺ることはほとんど無い。マイケルが死ぬシーンを悲劇として大々的に盛り上げたにも関わらず、すぐに全く関係が無い別のエピソードに移動する。そして少し経つと、サリーは「誰かに愛されたい」などとつぶやいている。“少女時代に描いた夢の男性像”という、すっかり忘れていた設定を後半に入って持ち出してくるのだが、その辺りではマイケルの死はすっかり忘れ去られている。ハッキリ言って、マイケルというキャラクターや彼の死というエピソードは全く要らない。
周囲の人々にサリーが魔女として敬遠されているという設定も、あまり生かされておらず、たまに思い出したように顔を出す程度。その部分の描写が薄いから、「町の人々は恐れを抱きつつも実は好奇心たっぷり」という部分があまり見えず、サリーがカミングアウトしたら人々が協力的になるという終盤の展開も唐突なだけに感じられる。色々とエピソードはあるが、まとまりが無く、バラバラの状態。何か1つの中心があって、その枝葉として色々なエピソードが散りばめられているのならともかく、どれもこれも、とりとめが無く存在するだけ。意味が無いようなエピソードも多い。
例えばサリーの娘が魔法を攻撃に使おうとして母に文句を言うシーンがあるので、サリーと娘の関係を描くエピソードが始まるのかと思ったら、始まらない。そもそも2人の娘は別にいなくても構わないような存在なので、クローズアップする必要性も無い。愛した男に災いが降りかかるとか、魔女の血を受け継いでいるという設定が、それほど上手く本筋と絡んでいない。そもそも本筋がグラグラしていて、どこにあるのか良く分からない。明らかに省略するポイントを間違えて、とりとめが無いモノになっている。
サリーとジリアンがジミーに拉致されるシーンはシリアスに描かれるが、2人が魔法の薬を飲ませようとする様子はコミカルに見せる。そうかと思えばジミーを殺して暗いムードになり、かと思ったら蘇生を試みる辺りはユーモラス。終盤にはオカルトも入ってくる。演出のタッチが一貫せずにコロコロと変わってしまい、しかも、どれも中途半端。サリーは「絶対に恋なんかしない」と言った直後に、夢に描いた男と結ばれる魔法を唱える。最初にゲイリーと出会った時は異常にオロオロしていたのに、次に彼が家を訪れた時には落ち着いた態度で余裕を見せる。コロコロと変わるのは演出のタッチだけでなく、キャラクターも同じく。サリーもジリアンも、中身がサッパリ分からない。
せっかく魔法というオイシイ要素があるのに、ファンタジックなムード作りに充分に使いこなせていない。そして、観客を納得させる展開をカットしたり、都合良く展開させたりする時だけ、魔法が使われる。大体、魔法が使えるのなら、それでジミーの暴力を抑えたり彼を追い払ったりすることも可能だったんじゃないだろうか。