『ペット・セメタリー』:2019、アメリカ&カナダ

ボストンで医師をしていたルイス・クリードは妻のレイチェル、娘のエリー、息子のゲイジ、飼い猫のチャーチと共に、メイン州ラドロウへ引っ越した。新居は森の中にあり、広大な敷地も付いていた。ゲイジを抱いて車を出たレイチェルは、近くの車道を猛スピードで通過するトラックの轟音に驚いた。エリーもゲイジも新居を気に入り、すぐに馴染んだ。レイチェルに「この暮らしが本当に必要だったの?」と問われたルイスは、「もっと長い時間を子供たちと過ごしたかった」と答えた。
翌日からルイスは、地元の病院で働き始める。ゴミを捨てに外へ出たレイチェルとエリーは物音を聞き、様子を見に行った。すると動物の仮面を被った子供たちが太鼓を鳴らしながら行進しており、レイチェルは「何かの葬列みたいだけど」と言う。子供たちが運ぶリヤカーには、犬の死骸が乗せられていた。気になったエリーは、片付けをしている母の目を盗んで葬列を捜しに赴いた。すると森の奥には墓地があり、綴りを間違えて「ペット・セマタリー」と書かれた札が立てられていた。
エリーが墓地の向こうにある丘へ行こうとすると、近所に住む老人のジャド・クランドールが「そこから下りろ」と注意する。エリーは蜂に刺されるが、すぐにジャドが手当てした。「ここは何?」とエリーが尋ねると、彼は「ペットの墓地だ。昔から町の人たちは、ここを使ってる」と教える。「仮面の子供たちがいた」とエリーが言うと、ジャドは「まだ大勢の人が古い儀式をやってるんだ」と説明した。彼が愛犬だったビファーの墓もあることを話していると、レイチェルがやって来た。ジャドは彼女に、「この森は、そこまで安全じゃない。すぐに迷うから、うろつかない方がいい」と忠告した。
夜、ルイスはエリーから「なぜペットは人間よりも早く死ぬの?」と訊かれ、代謝のスピードが違うことを説明した。レイチェルはルイスに、エリーがペットの墓地を見つけたことを伝えた。ルイスは「まだ死を心配する必要は無い」と言うと、エリーは「ゲイジも?」と問い掛ける。レイチェルが「まだ子供だもの」と告げると、彼女は「でもママのお姉さんは死んだ時、子供だったんでしょ?」と口にした。
レイチェルは寝室で姉であるゼルダの写真を眺め、子供時代を思い出す。ゼルダは重い病気を患い、レイチェルが面倒を見ていた。ルイスから「ゼルダのことをエリーに伝えるべきだ」と促されたレイチェルは、「まだ子供よ」と反対する。ルイスは「隠せばいいってもんじゃない。天国で死者が見守ってるとか、そういうのは本質から逃げてるだけだと思う」と語り、「人が死んだ後は何も無いと思ってるの?」と問われて「無いよ」と即答した。
次の日、スケボーで遊んでいる時に車ではねられた大学生のヴィクター・パスコウが、病院に担ぎ込まれた。ヴィクターは頭の右半分が割れており、ルイスは急いで処置をするが助からなかった。しかしヴィクターは死んだ直後に体を起こし、「ルイス、境界は超えるためにあるんじゃない」と警告した。ルイスは驚くが、看護師に呼ばれて我に返るとヴィクターは遺体のままだった。翌日、エリーはクッキーを持ってジャドの家を訪ね、玄関のドアが開いていたので中に入った。開いている引き出しの拳銃を彼女が見ていると、ジャドが現れた。写真の女性についてエリーが「奥さん?」と訊くと、彼は「そうだ。ノーマと言うんだ病気で亡くなった」と答えた。
クリード一家はジャドを夕食に招待し、エリーはチャーチを紹介した。レイチェルが「ペットの墓地もウチの敷地?」と尋ねると、ジャドは「そうだ」と告げた。境界線についてルイスが訊くと、彼は「遠すぎて行く気も失せるよ」と述べた。その夜、寝付けないルイスは、「来るんだ、ドクター」というヴィクターの声を耳にした。彼は声に導かれて森を進み、ペットの墓地に辿り着いた。ヴィクターの声は、「ここは死者が安らかに眠っている場所だ。足を踏み入れてはいけない」と告げた。ルイスが丘へ行こうとすると、ヴィクターは「待て、あの土地は腐ってる」と叫んだ。ベッドで目覚めたルイスは夢だったと感じるが、足が土で汚れているのに気付いた。
エリーはハロウィンの仮装に着替え、迎えに来た子供たちと合流する。ジャドが来ているのに気付いたルイスは、歩み寄って声を掛けた。ジャドは「見せたい物がある」と呼び出し、トラックにひかれたチャーチの亡骸を見せた。エリーたちと出掛ける約束をしているルイスが困り果てると、ジャドは「チャーチは後にしよう。今夜、片付けよう」と告げた。ルイスはレイチェルにチャーチの死を知らせ、「子供たちには真実を伝えよう」と言う。レイチェルが反対すると、彼は「ゼルダのことを思い出してるんだろ」と指摘した。
レイチェルはルイスに、「ここに来てから、忘れることが出来ないの。私は嫌われてた。背骨が曲がってなかったから」と語る。ゼルダはレイチェルを嫌悪し、「今にアンタもこうなる。二度と起き上がれなくなる」と呪いの言葉を吐いた。両親が出掛けて2人きりになった日、レイチェルは食事を運ぶために故障の多い荷物用エレベーターを使った。ゼルダはエレベーターに巻き込まれて転落し、命を落とした。レイチェルは自分のせいで姉が死んだと感じ、罪の意識に苦しんでいた。
ルイスは「君のせいじゃないよ」とレイチェルを慰め、「チャーチは逃げた」とエリーに言うことにした。彼はジャドとチャーチの埋葬に向かうが、迷いを隠せなかった。それを見たジャドは「エリーは可愛がっていたんだろうなあ」と漏らし、付いて来るよう指示して丘へ向かう。ルイスが後を追うと、ジャドは不気味な沼を歩いていく。そこを抜けると階段があり、ジャドは先へ進んで「猫を埋めよう」とルイスに指示した。ルイスは不気味さを感じながらも、チャーチを埋めた。
翌朝、ルイスとレイチェルはエリーに、チャーチは逃げたと嘘をつく。するとエリーは、昨晩の内にチャーチが戻って来たと言う。彼女は「そこにいる」とクローゼットを指差し、ルイスが開けると実際にチャーチがいた。しかしチャーチは凶暴化しており、悪臭が漂っていた。ルイスはジャドの元へ行き、「どういうことだ?」と尋ねた。ジャドはルイスに、「この世には人間よりも古い場所がある。あの場所で何が起きているかは分からない。昨夜のことは、エリーのためだった」と語った。
ルイスは家に戻り、チャーチを埋めた場所についてネットで調べた。そこは「神の沼」という先住民の土地だが、詳細は分からなかった。エリーはチャーチに腕を引っ掻かれ、ルイスが手当てした。ルイスは威嚇するチャーチを追い掛け、ヴィクターに「破滅するぞ」と警告される幻覚を見た。レイチェルは荷物用エレベーターの音を聞き、ゼルダが転落死する幻覚に悲鳴を上げた。次の日、エリーの描いた絵を見ていたルイスは、頭から血を流す男の絵に目を留めた。「これは?」と彼が訊くと、エリーは「知らない。ゲイジが描いたの」と答える。ルイスがゲイジの部屋へ行くと、チャーチがベビーベッドに入っていた。彼が慌ててゲイジをベッドから抱き上げると、チャーチは歯を剥き出して唸った。
ルイスはジャドの家へ行き、詳しい説明を求めた。ジャドは「ビファーが死んだ時、11歳だった。感染症になり、父が安楽死させた。あの場所を教えてくれたのは知り合いの爺さんだ」と語り、北アメリカの先住民に伝わるウェンディゴという精霊について教える。先住民は神の沼と呼ばれる場所の力に気付き、警告の印を残して逃げた。ジャドが「あそこには何かがいる。魂が蘇る場所だ」と語ると、ルイスは「アンタの犬はどうなった?」と尋ねる。ジャドは「戻って来たが、母親を襲ったので父親が安楽死させた」と答え、「エリーの猫は、そうならないと思ってた。チャーチは気性の荒い猫じゃなかったから。だが間違いだった」と弁明した。
帰宅したルイスはチャーチに注射を打って安楽死させようとするが、覚悟が決められなかった。彼は車で立ち入り禁止区域の前まで行き、チャーチを捨てて去った。エリーは9歳の誕生日を迎え、ルイスは彼女の友人たちやジャドを招いてパーティーを開いた。しかしエリーは自分のせいでチャーチが逃げたと思い込み、すっかり塞ぎ込んでいた。ルイスは娘を元気付けるため、猫の人形をプレゼントした。ルイスは鬼になり、子供たちとかくれんぼを始めた。
エリーは車道にいるチャーチを見つけ、喜んで近付いた。その時、向こうから猛スピードのタンクローリーが走って来た。ゲイジが車道に飛び出すのを見たルイスは、急いで助けに行く。脇見運転をしていていた運転手は慌ててブレーキを掛け、ハンドルを切った。その勢いでタンクが外れ、直撃を受けたエリーは死亡した。葬儀を済ませたルイスは、レイチェルとゲイジをボストンの実家へ行かせる。ルイスはジャドと会い、「病院の仕事が片付いたら僕も行く」と言う。ジャドは彼がエリーを蘇らせるつもりだと察知し、「あの場所を見せるべきじゃなかった。蘇っても以前とは違う」と告げる。
ルイスはジャドの考えが分かっており、酒に薬を混入して眠らせた。ルイスはエリーの遺体を掘り返し、神の沼へ向かった。ヴィクターが現れて「やめろ。そっとしておいてやれ」と警告するが、ルイスは耳を貸さなかった。ヴィクターはレイチェルの前に現れ、「家に戻れ」と告げた。ルイスはエリーの遺体を神の沼に埋め、家に戻った。すると室内には血の足跡が付いており、ルイスがそれを辿って地下室に入ると蘇ったエリーが姿を見せた…。

監督はケヴィン・コルシュ&デニス・ウィドマイヤー、原作はスティーヴン・キング、映画原案はマット・グリーンバーグ、脚本はジェフ・ブーラー、製作はロレンツォ・ディ・ボナヴェンチュラ&マーク・ヴァーラディアン&スティーヴン・シュナイダー、製作総指揮はマーク・モラン、撮影はローリー・ローズ、美術はトッド・チェルニアフスキー、編集はセーラ・ブロシャー、衣装はシモネッタ・マリアーノ、音楽はクリストファー・ヤング。
出演はジェイソン・クラーク、エイミー・サイメッツ、ジェテ・ローレンス、ジョン・リスゴー、ヒューゴ・ラヴォイエ、ルーカス・ラヴォイエ、オブッサ・アフマド、アリッサ・レヴィン、マリア・ヘレラ、フランク・ショーピオン、リンダ・E・スミス、ソニア・マリア・キリーラ、ナオミ・ジーン、スージー・スティングル、ケリー・リー、ニーナ・ローレン、アリソン・オドネル、ラファエル・ラポルテ、サイモン・ペレティア=ギルバート他。


スティーヴン・キングの小説『ペット・セマタリー』を基にした1989年の同名映画のリメイク。
監督は『セーラ 少女のめざめ』のケヴィン・コルシュ&デニス・ウィドマイヤー。
脚本は『1408号室』『セブンス・サン 魔使いの弟子』のジェフ・ブーラー。
ルイスをジェイソン・クラーク、をエイミー・サイメッツ、エリーをジェテ・ローレンス、ジャドをジョン・リスゴー、ゲイジをヒューゴ・ラヴォイエ&ルーカス・ラヴォイエ、ヴィクターをオブッサ・アフマド、ゼルダをアリッサ・レヴィンが演じている。

大まかな筋書きは、1989年版をなぞっている。
何から何まで変えちゃったら原作からも大幅に逸脱するし、もはやリメイクとは言えなくなるだろう。だから、ある程度は1989年版を踏襲して当然だ。
ただ、1989年版は決して「完璧な傑作」なんかじゃなかったので、不満点は色々とあった。なので、そういう部分は積極的に改変すべきなのに、そういうのも引き継いでいる。
まあ引き継いでいるってことは欠点と思っていないんだろうけど、いやハッキリとした欠点だからね。

具体的に挙げていくと、まずはヴィクターというキャラの必要性。
こいつは死後に幽霊となってルイスの前に現れ、意味ありげなことを口にする。でも、そのまま終盤まで「謎を知る重要人物」「ルイスを導こうとするキーパーソン」として動くわけじゃなくて、途中で消えてしまうのよね。
そんな中途半端な扱いで終わるぐらいなら、もう最初から出さなくてもいいんじゃないかと。こいつを出す意味って、ようは「怪奇現象で観客を怖がらせるため」でしかないのよね。
この映画って、チャーチを蘇らせるまでは何も怖いことは起きないのよ。それだと観客を退屈させちゃうから、ヴィクターを使って恐怖を醸し出そうってことなのよね。

そんなヴィクターは死んだ直後、ルイスに「境界は超えるためにあるんじゃない」と警告する。
だけど、その時点でルイスはペットの墓地については知っているものの、そこへ入ろうとは思っちゃいない。丘の向こうについても、もちろんだ。場所と知って知っているだけで、何の好奇心も抱いていない。
なので、むしろ「境界は超えるためにあるんじゃない」と言うのは、そこを意識させることに繋がるだけだ。
本気で警告したいのなら、ルイスが境界線なんて知らない段階では何も言わない方が賢明でしょ。

ヴィクターはルイスを夜中に墓地へ誘い出し、「ここは死者が安らかに眠っている場所だ。足を踏み入れてはいけない」と警告する。
でも、これも前述した台詞と同じようなことだよ。テメエで墓地へ連れ出しておいて「足を踏み入れてはいけない」って、どの口が言うのかと。そう思っているなら、連れ出しちゃダメだろ。言葉と行動が合致していないのよ。
そんな風にヴィクターを動かしたいのなら、ルイスを「墓地や境界線が気になっている男」にしておかないと筋が通らないのよ。
っていうか、仮にルイスが興味を持っていたとしても、それを警告するのがヴィクターである理由はサッパリ分からないんだけどね。こいつは神の沼と何の関係も無いんだし。

ゼルダの存在も、ヴィクターに似ている部分がある。
レイチェルは「自分がゼルダを殺した」という罪悪感に苦しんでいるが、これって別に無くてもいい設定なんじゃないかと。
回想シーンで恐怖を煽る効果を狙っていることは感じ取れるけど、ドラマ的には上手く活用できていないのよね。ゼルダの悪霊が現在の物語に絡んで来るならともかく、そうじゃないわけで。
っていうか、もしも絡んで来たら、それはそれで「話がバラバラになっている」という印象になった可能性が高いけどね。神の沼とは無関係なキャラだから。

ジャドの言動に引っ掛かるのも、1989年版から引き継がれた問題点だ。
彼は神の沼が危険な場所だと分かっているのに、チャーチを埋めて蘇らせる。「エリーが可哀想だった。チャーチはビファーのようにならないと思っていた」と釈明するけど、そもそもルイスが、「出来ることからチャーチを蘇らせたい」と漏らしたわけでもないからね。
神の沼がどういう場所か分かっているんだから、ルイスに説明しろよ。そして「もし望むならチャーチを生き返らせることは出来るけど、どうする?」と承諾を取れよ。
リスクを教えず、何も説明せずに復活させるんだから、ただの無責任な奴じゃねえか。

オリジナル版との大きな違いは、事故死する子供をゲイジからエリーに変更していることだ。しかも、わざわざ「道路に飛び出したゲイジがトラックにひかれて死ぬ」と思わせておいて、「ゲイジじゃなくてエリーでした」という展開にしてある。
「だから何だよ」と言いたくなる無意味な趣向だが、それよりも「ゲイジからエリーへの変更」という部分のマイナスは大きい。
エリーって自分が死者だと認識した上で、邪魔なジャドを始末したり、仲間を増やすためにレイチェルを殺したりするんだよね。
なので、「無邪気で無自覚な幼い怪物」という怖さは無くなってんのよね。

ルイスがエリーの遺体を掘り起こして神の沼に埋めるまでの経緯を、かなり丁寧に描いている。
その間にヴィクターの幽霊を登場させたり、レイチェルが怪奇現象に怯えたりする様子は描いているけど、「そこを厚くしても意味が無いでしょ」と言いたくなる。
こっちは「遺体を埋めたら蘇る」ってのを、既に知っているわけで。なので、「遺体を掘り起こしたら、さっさと埋めて次の展開に移ればいいでしょ」と言いたくなる。
力を入れて描くべきポイントがズレているんじないかと。

ハッキリ言って、この映画がマトモに怖くなるのって、実はエリーが蘇ってからなのよね。
それは映画開始から1時間10分ぐらい経った辺りなので、オリジナル版と同じく、今回も始動が遅いなあと感じる。
で、そこからはシンプルに「怪物が次々に人を殺す」という恐怖映画になる。
しかも怪物をゲイジからエリーに変更して力押しの方向性が強くなっているので、良くも悪くも分かりやすくB級の匂いが強くなっている。

ルイスはチャーチの凶暴化を見たにも関わらず、全く迷わずにエリーを蘇らせる。もちろん「娘が事故死したショックの大きさ」ってことではあるんだけど、「バカじゃん」と言いたくなる。
チャーチの件で、「まるで別人になる」ってことは分かっていたはずでしょうに。
せめて苦悩や葛藤があれば、分からんでもないのよ。でもルイスはエリーの葬儀を終えた後、すぐに行動しているからね。
あと、ルイスはレイチェルにもエリーの復活を教えていないわけで。レイチェルにどう説明するのか、何も考えてないのよね。それも「アホだな」と。
後先を全く考えていないのよね。

終盤のルイスが何の同情も出来ないボンクラに成り下がっているので、「死ねばいいのに」としか思えないのよ。
ホントだったら、怪物と化したエリーに恐怖すべきなんだけど、それよりも「さっさとルイスを殺してくれよ」と言いたくなっちゃうのよ。
そしてエリーにジャドやレイチェルが殺されても、「全てルイスのせいじゃねえか」と彼を非難する気持ちだけが強くなるのよ。
まあ最終的にルイスはエリーに殺されて復活したレイチェルに殺されるけど、それはそれで結末としては安易で安っぽいよね。

(観賞日:2021年3月13日)

 

*ポンコツ映画愛護協会