『ペイ・フォワード 可能の王国』:2000、アメリカ

事件記者クリスは、男が人質を取って立て篭もっている現場の取材にやって来た。警察に迷惑がられながらも、彼は現場に留まる。しかし犯人は車で逃走し、その途中でクリスの車を破壊する。途方にくれるクリスは、通り掛かったトールセンという男から自分のジャガーをプレゼントすると告げられる。トールセンはクリスから名刺を受け取り、車を引き渡すために連絡すると告げた。何か裏があると疑うクリスだが、トールセンは単なる善意だと言って立ち去った。
その4ヶ月前、11歳の中学1年生トレヴァー・マッキニーは、新任の社会科教師シモネットと対面した。顔に大きな火傷の跡が残るシモネットは、生徒達に対して課題を提示した。それは、「世界を変える方法を考え、それを実行しよう」というものだ。トレヴァーは帰宅途中で見掛けたホームレスのジェリーを家に招き、食事を与えて宿泊させることにした。
トレヴァーは、アル中の母アーリーンと2人で暮らしている。仕事を終えて帰宅したアーリーンは、酒を飲んで眠った。翌朝、アーリーンは見知らぬ男が家にいるのを知り、驚いて追い出した。トレヴァーが「シモネット先生の言うことを実行した」と言うので、アーリーンは学校に乗り込んだ。彼女はシモネットを非難し、「アンタなんかクビよ」と言い放つ。しかしシモネットは、「自分は障害者だから、州は雇う義務がある」と落ち着いた態度で言い返した。
クリスはトールセンに会いに行き、彼が言った「次の人へ回せ(ペイ・イット・フォワード)」という言葉の意味を尋ねた。トールセンは、喘息の娘を緊急救命室に連れて行った時の出来事を語った。なかなか診察してもらえずに困っていた時、いかにも柄の悪そうな黒人男性シドニーが順番を譲ってくれた。そしてシドニーは、その代わりに別の3人に善い行いを返せと言ったのだという。
アーリーンは車庫でジェリーを見つけるが、彼はトラックを修理していたのだった。ジェリーはアーリーンに、トレヴァーに貰った金で仕事に就くことが出来たこと、麻薬中毒だが足を洗うつもりだということを話した。そして彼は、トレヴァーから「ペイ・イット・フォワード」と言われたことを告げた。しかし彼は、なかなか麻薬から抜け出すことが出来なかった。
トレヴァーは学校で、自分が考えた「ペイ・イット・フォワード」の計画について説明した。1人が3人に善行をする。その3人が、また別の3人に善行をする。そうやっていけば、どんどん善行が広がっていくというのが彼の考えだった。他の生徒達はユートピア的すぎる計画に懐疑的な意見を述べるが、シモネットはトレヴァーの計画を誉めた。
トレヴァーはシモネットとアーリーンに、それぞれの名前で「話がある」とウソの手紙を書き、2人を会わせた。トレヴァーはアーリーンとケンカになり、家を飛び出した。シモネットも捜索を手伝い、アーリーンとトレヴァーは仲直りした。アーリーンとシモネットは、デートを重ねるようになった。アーリーンは友人ボニーに、関係を進展させたいという考えを語った。しかしシモネットは今より親密になることを恐れ、アーリーンを避けるようになった。
トレヴァーはイジメを受けている同級生アダムを助けようとするが、怖くて何も出来なかった。トレヴァーはシモネットに、父が戻ると手遅れになるので母と会ってほしいと頼んだ。トレヴァーの父リッキーはアル中で、暴力的な男だった。シモネットはマッキニー家を訪れ、アーリーンとの関係を修復しようとする。だが、そこへリッキーが戻って来たため、シモネットは退散する…。

監督はミミ・レダー、原作はキャサリン・ライアン・ハイド、脚本はレスリー・ディクソン、製作はスティーヴン・ルーサー&ピーター・エイブラムス&ロバート・L・レヴィー、製作協力はパディ・サム・カーソン、製作総指揮はメアリー・マクラグレン&ジョナサン・トレイスマン、撮影はオリヴァー・ステイプルトン、編集はデヴィッド・ローゼンブルーム、美術はレスリー・ディリー、衣装はレニー・アーリック・カルファス、音楽はトーマス・ニューマン。
出演はケヴィン・スペイシー、ヘレン・ハント、ハーレイ・ジョエル・オスメント、アンジー・ディッキンソン、ジェイ・モーア、ジェームズ・カヴィーゼル、ジョン・ボン・ジョヴィ、デヴィッド・ラムゼイ、ゲイリー・ワーンツ、キャスリーン・ウィルホイト、コリーン・フリン、マーク・ドネイト、ライザ・スナイダー、ジャネッタ・アーネット、ハンナ・ワーンツ、ティナ・リフォード、ローレン・D・バウム、ニコ・マチネイタ、ザック・デュヘイム、ショーン・パイフロム他。


非営利団体「ペイ・イット・フォワード財団」の設立者キャサリン・ライアン・ハイドの小説を基にした作品。
シモネットをケヴィン・スペイシー、アーリーンをヘレン・ハント、トレヴァーをハーレイ・ジョエル・オスメント、グレースをアンジー・ディッキンソン、クリスをジェイ・モーア、ジェリーをジェームズ・カヴィーゼル、リッキーをジョン・ボン・ジョヴィ、シドニーをデヴィッド・ラムゼイ、トールセンをゲイリー・ワーンツ、ボニーをキャスリーン・ウィルホイトが演じている。

この映画で描かれている「ペイ・イット・フォワード」運動とは、簡単に言えば善意のネズミ講だ。
それを始めるのは、人生の酸いも甘いも噛み分けた、経験豊富な大人ではない。
まだ人生の苦しさも社会の厳しさも全く知らない子供である。
ちなみに、仮にジム・カヴィーゼルが演じたヤク中ホームレスが主人公だったら、随分と違った印象の映画になっただろう。

11歳の少年を主人公に設定したのは、「子供は純粋で無垢な存在だ」という、どこかの童話作家みたいな考えに基づいてのことだろう。
その「純粋で無垢な子供」として、ハーレイ・ジョエル・オスメントが適任だったのかという引っ掛かりはあるけれど、しかし周囲の人々を運動に参加させるだけのオーラは持っていなくちゃいけないわけで、そっちの部分では適任かな。

子供は純粋だという考えは認めるとして、その純粋さが常に正しい方向に作用するとは限らない。純粋さが恐るべき欲望に対して真っ直ぐ突き進む力になる場合もあるし、純粋さが「周囲が見えず遠慮の無い行動」に繋がる場合もある。
だが、そういった現実的な問題に関しては、この作品は目をつぶっている。
それは、ファンタジーとして描いているからだろう。

ともかくトレヴァーは「ペイ・イット・フォワード」運動を開始するわけだが、彼は簡単に「善意」のレヴェルを超越する。
困っている人を助けるのは善意として理解しやすいが、彼は互いが惚れていると言ったわけでもないのに、母親と教師をくっ付けようとするのである。
結果的に2人が惹かれ合うようになったから良かったものの、そうでなければ単なる悪ふざけになるところだ。

大きく盛り上がる大団円に持って行くためには、トレヴァーの思い付いた「ペイ・イット・フォワード」運動が、彼の知らないような地域、彼の知らないような人々にまでどんどん広がっていくというサプライズな現象を描くことが大切になるはずだ。
だが劇中では、それこそネズミ講の如き広がりは、ほとんど感じられない内にラストまで来てしまう。
まあ、それ以外にもリッキーが暴力を振るうシーンを描写しないという、プラス効果が不明な省略もやっているわけだが。

性善説に基づいた話がどんどん進んでいくので、気持ち悪いなあと感じながら観賞していたのだが、それでも性善説を貫くなら、トコトンまでやったらいいんじゃないかとは思っていた。
ところが、この映画は終盤に来て、それまでのスタンスを大きく覆す。
完全ネタバレだが、アダムを助けようとしたトレヴァーが刺されて死ぬのである。
しかも、そのトレヴァーを殺す相手が大人ではなく、子供ってのがスゴい。
子供を主人公に設定したことの意味が、そこに来て良く分からなくなる。

最後に待っている唐突な展開によって(本当に何の前触れも無く、いきなりトレヴァーは殺されるのだ)、それまで延々と「皆が善意を他人に施せば世界が良くなる」というスタンスだったものが、「善意を施してもロクなことは無いぜ」という真逆の説に変わる。
それまではファンタジーだったものが、いきなり現実の厳しさを暴き出すのだ。
なるほど、それなら私みたいな捻じ曲がった人間でも納得できるね。って納得できるか、ボケ。
もし「運動の広がりには殉教者が必要だ」という考え方なら、そんな運動なんてやめちまえ。

 

*ポンコツ映画愛護協会