『パッション』:2004、アメリカ

イエスは弟子のペトロたちを伴ってゲツセマネの園へ行き、酷く怯えた様子を見せた。彼は裏切り者の存在を分かっていた。弟子のユダは大祭司のカイアファから銀貨を受け取り、イエスの居場所を教えた。イエスは頭上を見やり、「私を待ち受ける罠からお救い下さい」と祈った。「一人の人間がそれほどの苦しみに耐えられるものか。人々の魂の救済など無謀すぎる」とサタンが吹き込むが、イエスは「父よ、貴方には全てが可能です。この苦しみを遠ざけて下さい。でも私の望みより、御心のままに」と神に語り掛けた。
兵隊が森に来ると、イエスはおとなしく連行される姿勢を示した。兵隊に同行したユダが頬に口づけすると、イエスは「口づけで人の子を裏切るのか?」と問い掛けた。ペトロたちが兵隊と戦い始めると、イエスは「剣を下ろせ。剣に生きる者は剣によって死ぬ」と諭した。兵隊はイエスを連行しながら、何度も殴り付けた。マグダラのマリアは大祭司官邸へ来たローマ兵に助けを求めるが、番兵に追い払われた。ローマ兵は仲間に「騒ぎが起こりそうだ。アベナデールに知らせろ」と命じた。
イエスが官邸に連れ込まれる様子を、駆け付けた母のマリアがじっと見つめて「主よ、時が来ました」と漏らす。百人隊長のアベナデールはピラト総督の元へ行き、「騒ぎが起きています。大祭司が預言者を捕まえました」と報告した。大祭司のアンナスたちはイエスを詰問し、申し開きをするよう要求した。イエスは「私は皆に話してきた。集まった者たちに隠れることなく、多くを教えた。私のことは彼らに尋ねるがいいい」と述べた。
「傲慢な態度だ」と番兵に殴られたイエスは、「何か間違ったことを私が言ったか?そうでないなら、なぜ殴る?」と問い掛けた。悪意に満ちた裁判が開かれ、「お前は救世主か。神の子か」と問われたイエスは「そうだ」と答えた。これによって彼らの裁きは決定し、イエスはサンヘドリンの面々に殴られる。密かに裁判を傍聴していたペトロは人々に見つかり、「イエスなど知らない」と言い張った。
ペトロはマリアたちと遭遇し、「私は恥ずべき人間です」と吐露して逃走した。ユダはカイアファの元へ行き、「彼を解放してくれ。銀貨は返す。私は罪を犯した。無実の者を売った」と告げる。しかしカイアファは「無実の者を売ったかどうかはお前の問題だ」と冷たい口調で述べた。子供たちに追われて悪魔の幻影を見たユダは、錯乱状態で逃げ惑った。彼は木に縄を括り付け、首を吊って自殺した。
ピラトは妻のクラウディアから、イエスを罪に問わないよう懇願された。「聖なる御方よ。貴方に災難が降り掛かる」と口にする彼女に、「私の災難は、この辺境の地と薄汚い群衆だ」とピラトは告げた。イエスを連行して来たカイアファたちに、ピラトは「なぜお前たちの法で裁かない?」と尋ねた。カイアファは「我々の法では、いかなる罪人も死刑に処すことは許されないからです」と説明した。
ピラトが「そのような刑に処する理由は?」と訊くと、カイアファは「安息日を破り、人々を惑わし、汚れた教義を教え込んだ」と話す。「5日前、エルサレムが喜んで迎えた預言者に死を与えたいだと?狂気としか思えん」とピラトが批判的な発言をすると、アンナスは「この男が犯した最大の罪を述べます。危険な宗派の指導者で、自らをメシアと称しています。ユダヤ人の王だと」と告げる。カイアファは「弟子が皇帝に税を納めることさえ禁じてします」と付け加えた。
ピラトはイエスを邸内に連れて行き、「お前はユダヤ人の王なのか」と尋ねた。「貴方の考えで訊くのか」と質問するイエスに、「自分の考えで訊くと思うのか。大祭司どもがお前を連れて来た。死刑にしたいと言っている。何をしたのだ」とピラトは問い掛ける。改めて「お前はユダヤの王か」と訊かれたイエスは、「私の王国は地上には無い。あるなら弟子たちが私を捕まえさせない」と語った。さらにイエスは、「真理を聞く者は、私の声を聞くであろう」と口にした。
ピラトはイエスを連れてカイアファたちの元へ戻り、「この者を裁くべき理由が見つからん」と告げる。群集が騒ぎ出すので、ピラトは「この者はガリラヤ人だな。ではヘロデ王の民だ」と告げた。カイアファたちはエルサレムに滞在しているヘロデの元へ、イエスを連行した。以前からイエスに会いたがっていたヘロデは、彼が来たことを喜んだ。彼は好奇心満々で矢継ぎ早に質問するが、イエスは何も答えなかった。ヘロデは嘲笑い、「この道化を連れて行け。罪人ではなく、ただの狂人だ」と告げた。
その頃、ピラトは「真理とは何だ?聞けば分かるものなのか」と悩んでいた。クラウディアが「分かります。貴方には分からないの?」と言うので、ピラトは「分かる方法は?」と尋ねる。するとクラウディアは、「聞こうとしなければ、教えることは出来ません」と述べた。「私にとっての真理とは何か。この11年、私は辺境の地で暴動を治めて来た。あの男を有罪にしないとカイアファが暴動を起こす。有罪にすれば弟子たちが暴動を起こす。いずれも流血の事態を招く。皇帝に2度も警告された。次の暴動で流れるのは私の血だと。それこそ私の真理だ」とピラトは語った。
ヘロデが刑の宣告を拒んだため、イエスは再びピラトの元へ連行されて来た。そのことをピラトに知らせたアベナデールは、暴動が既に起きていることを告げた。ピラトは「罪に問う理由は無い」と改めてカイアファに言い、アベナデールは数を増やした兵隊によって群衆の動きを抑える。ピラトは「毎年、囚人1名を釈放する。牢獄にいるのは悪名高き人殺しのバラバだ。イエスとどちらを釈放してほしい?」と問い掛けた。するとカイアファは迷うことなく「バラバだ」と答え、群衆も賛同した。
仕方なくバラバラを釈放したピラトは、イエスの処置について群衆に問い掛ける。すると「十字架に掛けろ」とサンヘドリンの一人が叫び、群衆も賛同した。ピラトはその処置を拒否し、「鞭打ちの刑に処し、その後に釈放する」と宣言した。群衆が不満そうな様子を示す中、ピラトはアベナデールにイエスへの処罰を命じた。ローマ兵による鞭打ちを受け、イエスの背中は肉が裂け、赤黒く腫れ上がり、血だらけになった。それを見ていたマリアは涙を流し、「いつ、どこで、この苦しみから逃れられるのです?」と漏らした。
処刑場に駆け付けたアベナデールはイエスが死にそうになっているのを目撃し、「処罰しろと言っただけだ」とローマ兵たちを制止した。ローマ兵たちはイエスに茨の冠を被らせて葦の棒を持たせ、「ユダヤの王、万歳」と嘲笑した。痛々しい姿でピラトの元へ戻されたイエスを見ても、まだ群衆は納得しなかった。カイアファが「十字架に掛けろ」と叫ぶと、群衆は賛意を示す。暴動寸前の雰囲気を察したピラトは、「お前たちが磔を望んだ。この者の血に私の責任は無い」と告げ、イエスの身柄をカイアファたちに引き渡した。
イエスは十字架を背負わされ、死刑囚のディスマス、ゲスマスと共に刑場のあるゴルゴダの丘まで歩くことになった。その間も群衆は、激しい罵声を彼に浴びせ、石を投げ付けた。一人のローマ兵がイエスを押し倒すと、その仲間たちが鞭で殴り付けた。彼らは再び十字架を背負わせ、イエスを歩かせながら暴力を加えた。血を吐いて倒れ込んだイエスを見たマリアは駆け寄り、「私がここにいるわ」と告げた。イエスは「母よ、全てが新しくなるのです」と言い、立ち上がって歩き始めた…。

監督はメル・ギブソン、脚本はベネディクト・フィッツジェラルド&メル・ギブソン、製作はメル・ギブソン&ブルース・デイヴィー&スティーヴン・マケヴィーティー、製作総指揮はエンツォ・システィー、撮影はキャレブ・デシャネル、編集はジョン・ライト、美術はフランチェスコ・フリジェリ、衣装はマウリシオ・ミレノッティー、特殊メイクアップ&視覚効果デザインはキース・ヴァンダーラーン、音楽はジョン・デブニー。
出演はジム・カヴィーゼル、モニカ・ベルッチ、クラウディア・ジェリーニ、マヤ・モルゲンステルン、セルジオ・ルビーニ、トニ・ベルトレッリ、ロベルト・ヴィスコンティー、フランチェスコ・カブラス、ジョヴァンニ・カパルボ、ロザリンダ・チェレンターノ、エミリオ・デ・マルチ、フランチェスコ・デ・ヴィート、レロ・ジュリーヴォ、アベル・ジャフリー、フリスト・ジフコフ、ルカ・リオネッロ、ジャレット・メルツ、マット・パトレージ、ファビオ・サルトル、マッティア・スブラージア、フリスト・ナーモフ・ショポフ、ロベルト・ヴィスコンティー他。


敬虔なキリスト教徒であるメル・ギブソンが私財を投じ、監督&共同脚本&製作を務めて作り上げた映画。
ナザレのイエスが処刑される日の出来事を描いている。
「最後の晩餐」はフラッシュバックでチラッと触れるだけだが、ゲツセマネでイエスが祈るシーンから始まり、捕まり、裁判に掛けられ、十字架を背負って歩かされるヴィア・ドロローサがあり、磔刑に処せられるまでの様子が描かれる。
イエスをジム・カヴィーゼル、マグダラのマリアをモニカ・ベルッチ、クラウディアをクラウディア・ジェリーニ、聖母マリアをマヤ・モルゲンステルン、死刑囚のディスマスをセルジオ・ルビーニ、アンナスをトニ・ベルトレッリ、サタンをロザリンダ・チェレンターノ、ペトロをフランチェスコ・デ・ヴィート、ユダをルカ・リオネッロ、アベナデールをファビオ・サルトル、カイアファをマッティア・スブラージア、ピラトをフリスト・ナーモフ・ショポフが演じている。

クリスチャンの中でも、メル・ギブソンはガチガチに超保守的な伝統主義のカトリック教徒である。
福音書では「イエスの死はユダヤ人に責任がある」という解釈になってしまうのだが、カトリック教会が1965年に開かれた第2バチカン公会議の第4会期において、「イエスの処刑の責任はユダヤ人全体にあるわけではない」と発表された。
しかしメル・ギブソンの信奉している伝統主義では、その発表を認めていない。
ってことは、まだ反ユダヤ主義が残っている流派ということだ。

アメリカ映画だが、劇中で使われる台詞は英語ではなく、アラム語とラテン語のみ。
どの国で上映される際にも、吹き替え版は製作されていない(それがメル・ギブソンの意向だった)。
イエスの時代にシリア・パレスチナ地方で使われていたのがアラム語とラテン語なので、その言語を使うのは、「新約聖書の記述を忠実に再現する」という意味では、理屈としては間違っちゃいない。
しかし、一方で聖書に記述の無い内容が幾つも盛り込まれているので、「じゃあアラム語とラテン語にこだわる必要も無いんじゃねえか」と思ったりする。

メル・ギブソンは「これはキリスト教徒のためだけの映画ではない。『ガンジー』は世界的にヒットした」と主張している。
しかし、明らかにキリスト教徒のための映画である。
何しろ、この映画、キリスト教や聖書に関する詳しい知識が無いと、劇中で描かれていることが何を意味しているのか、登場する人々の相関関係はどうなっているのか、何から何まで分からないことだらけだ。
そういうことを全て丁寧に説明しているのならともかく、分かりやすく噛み砕く作業をやらずして「これはキリスト教徒のためだけの映画ではない」と主張するのは、無理のある詭弁でしかない。

とは言え、世界中にキリスト教徒は大量にいるわけで、メル・ギブソンの狙い通りに本作品は大ヒットした。
だが、全てのキリスト教徒が共感したり感動したりできる内容なのかというと、それは違うんじゃないかと思う。
キリスト教徒でもなければ聖書について熱心に学んだわけでもないボンクラ野郎の私が言っても説得力は皆無だろうが、これを「つまらない」と感じたり、ちっとも面白いと思えなかったりするキリスト教徒も、結構な数がいるんじゃないかという気がする。
と言うのも、この映画、決して聖書の内容を忠実に描いているわけではないからだ。

ここに描かれているのは、メル・ギブソンの個人的な考え(っていうか彼が参考にしたアンネ・カテリーネ・エメリッヒという修道女による著書の内容)が強く盛り込まれた「イエスの受難」である(その中には反ユダヤ主義の描写も含まれている)。
「キリスト教」と一言で言っても、様々な流派や考え方があるわけで。
メル・ギブソンのカトリック原理主義的な主張に違和感を抱く人もいるんじゃないかと、そのように感じたのだ。

そういう意味では、これは「イエス・キリストの受難を描いた映画」ではなくて、「メル・ギブソンの信仰を訴えるプロパガンダ映画」と言える。
ザックリと言うなら、幸福の科学が作っている一連のアニメ映画と、やってることは大して変わらないんじゃないか。
で、そういう見方をした場合、ツッコミ所満載でバカ映画としての楽しみ方がある幸福の科学出版のアニメ映画の方が、クソ真面目で退屈な本作品よりは、まだ見る価値があるんじゃなかろうかと。

この映画を見終わった時、私の脳内で最初に浮かんできた言葉は、「で、だから?」というものだった。
イエス・キリストが拷問を受けて、必死に耐えて、でも処刑されてしまう。それだけの話である。
イエスの生涯を描いた伝記映画を作るとすれば、ラストの数十分程度で収めるような内容を、2時間強の上映時間を使って描いている。
過去の出来事がフラッシュバックとして何度か挿入されるが、基本的には拷問やリンチを描く映画だ。
「拷問を受けたイエスが殺されました」ということだけを描かれても、「で、だから?」である。

もしもメル・ギブソンの中に「イエスは人々を救済するため、虐げられ、暴力を受け、処刑された偉大な存在である。だから崇めよう」ということを伝えたい気持ちがあったのとしても、それは陳腐なメッセージでしかない。
キリスト教徒であれば、イエスが偉大であることは今さら言われなくても分かっているし、信仰心も持っている。
ひょっとするとメル・ギブソンは、世界のキリスト教徒に対して「お前らは最近、気持ちが緩んでいる。もっと信仰心を強く持て」とアジりたかったのかもしれないけど。

一方、キリスト教徒でない人からすると、この説明不足が甚だしい映画を見ても何のことやら理解不能で、そんなメッセージなど全く心に響かないだろう。
あれだけイエスが徹底的に拷問され、苦しむ姿を見せ付けられたら、そりゃあ「可哀想だなあ」ってことで同情心を抱く人も少なくないかもしれない。
しかしイエスを悲劇の主人公にすることで同情心を誘い、観客を誘い込もうということばかりを考えていたとすれば、それはとても幼稚であり、とても志が低いと言わざるを得ない。

この映画を見て私が何よりも感じたのは、「ああ、無宗教で本当に良かった」ということだ。キリスト教の信奉者が信仰を突き詰めると、こんな風にヤバい所へ行き着いてしまう恐れもあるってことだ。
それはカトリックに限らず、他の宗教だって、ガチガチの原理主義者というのは、同じようにヤバい人になる恐れがあるものだと思われる。
メル・ギブソンの場合は映画という場所があったが、そういう手段を持たない狂信者は、もっと凶暴な方法を取る可能性だってある。
どんな宗教であれ、のめり込みすぎるってのは良くない。
こんな映画を撮るぐらいヤバい人になってしまうぐらいなら、私は無宗教で結構だ。

(観賞日:2013年10月23日)

 

*ポンコツ映画愛護協会