『ハッカビーズ』:2004、アメリカ&ドイツ
環境保護団体の支部長アルバート・マルコヴスキーは森と沼地の保護を訴えて詩を読んだが、取材に来たのはローカル紙が一社だけだった 。彼は自分の活動が注目されていないことに苛立ち、何の意味も無いのかと悩んでいた。もう一つ、彼には悩みがあった。それを解決する ため、彼は哲学探偵の夫婦ベルナードとヴィヴィアンを訪ねた。応対したヴィヴィアンは、「私は契約した相手を尾行し、問題を分析して 解決に導く仕事をしている」と説明した。ベルナードは契約者が現実を正しく認識できるよう導くという。
アルバートが探偵社を知ったのは、初めて行った高級レストランだ。そこは上着着用が必要な店で、借りた上着のポケットに名刺が入って いたのだ。アルバートはヴィヴィアンに、同じアフリカ人青年と3度も会ったことを語り、「偶然には何か意味があるはずだ。解明して ほしい」と依頼した。そして、今は微妙な時期なので、職場には来ないでほしいと頼んだ。ベルナードは「違っていても全ては同じで、 繋がっている」と語り、毛布の理論を日々の生活で見出すために、寝袋の中に入って想像するよう指示した。
寝袋に入ったアルバートは、ハッカビーズの広報担当ブラッド・スタンドや彼の恋人ドーン・キャンベルが出てくる悪夢を見てパニックに なった。アルバートはブラッドに「環境保護のため、新しい店舗は再開発地域に建設してもらいたい」と申し入れていた。ブラッドは承諾 し、森と沼地の保護活動への協力も約束した。しかしブラッドを引き入れたことで、アルバートの立場は危うくなっていた。
翌日から、アルバートの行動する場所にはヴィヴィアンが付いて回った。アルバートが支部へ行くと、ミーティングがブラッドの主導に よってハッカビーズで行われることを知らされた。ブラッドに仕切られて苛立つアルバートを、支部の職員アンジェラが「アンタには リーダーの資質が無い」と酷評した。支部にまでヴィヴィアンが付いて来たので、アルバートは腹を立てた。
ベルナードが支部に現れ、顧客の一人トミー・コーンから緊急事態だという電話が入ったことをヴィヴィアンに告げた。ヴィヴィアンは トミーの元へ行くようベルナードに指示し、自分はハッカビーズ本社へ向かった。ベルナードがトミーの元へ行くと、彼の妻モリーが娘の ケイトリンを連れて家を出て行くところだった。エコロジストのトミーが持説を熱く訴えるため、モリーは愛想を尽かしたのだ。トミーは ベルナードと正反対の説を唱えるフランス人女性カテリン・ヴォーバンの著書にハマっていた。
ヴィヴィアンはハッカビーズ本社に潜入し、ブラッドが幹部社員のマーティーや環境保護団体の職員メアリー・ジェーンたちを集めて 開いたミーティングを盗み聞きした。壁にはカントリー歌手のシャナイア・トゥエインを起用したポスターが貼られており、スタジオでは モデルのドーンが水着でPRビデオを撮影していた。ブラッドは環境保護を訴えるポスターだけでなく、キャンペーン用Tシャツも作って いた。彼は「誰もくだらない詩に興味は無い。視覚に訴えれば人々の関心を集めることが出来る」と説いた。
アルバートはヴィヴィアンがブラッドに会ったことを知り、「ハッカビーズにまで行って、僕の評判はガタ落ちだ」と怒った。探偵社に ブラッドが現れたため、アルバートは「オーリンの前で僕は喚き散らし、連合グループから追い出されて、後はブラッドの思うがままだ」 と苛立ちをぶちまけた。オーリンは環境保護団体の全国委員長で、もうすぐ支部の視察に来ることになっているのだ。ブラッドが「君は僕 の彼女に惚れたから突っ掛かるのか」と言うと、アルバートはムキになって否定した。
ヴィヴィアンは「貴方の分身と仲良くなれば、問題を解決する手助けになるのでは」と言い、アルバートをトミーに会わせた。すぐに2人 は意気投合した。トミーはアルバートに、「カテリン・ヴォーバンは、繋がりは無く、全てに意味は無いと言っている。この探偵社とは 正反対だ」と告げた。トミーがブラッドにケンカを吹っ掛けて騒ぎを起こしている間に、アルバートは自分のファイルを盗み見た。彼は ベルナードとヴィヴィアンに「これからは僕のやり方でやる」と宣言し、トミーと共に探偵社を去った。
偶然の意味を解くため、アルバートはトミーと共に、アフリカ人青年スティーヴン・ニミエリを訪ねることにした。彼はスーダンの難民で 、フーテン家に引き取られて生活していた。アルバートとトミーは、フーテン家の夕食に招かれた。アルバートはビルや住宅の電気設備を 請け負うフーテン家の主人と言い合いになり、激しく興奮した。さらにトミーも持説を主張し、主人を「偽善者」と罵った。そのせいで 2人は、たちまちフーテン家を追い出されてしまった。
アルバートはミーティングに参加するが、詩を読もうとすると批判された。ブラッドが広告戦略を説明しようとすると、アルバートは腹を 立てて突っ掛かった。さらにアルバートに付いてきたトミーはエコロジーに関する持説を語り始め、ブラッドを突き飛ばした。視察に来て いたオーリンは、アルバートにクビを通達した。新しい支部長には、職員たちの支持を受けてブラッドが就任した。
支部を去ったアルバートが「もうウンザリだ、人生に何の意味があるんだ」と喚いていると、車に乗っていた女が「知りたいなら教えて あげるわよ」と告げた。彼女はカテリン・ヴォーバンだった。彼女は「貴方はみんなに裏切られた。でも裏切りは宇宙の真理よ。何の意味 も無いと告げる。トミーが車に乗り込んで来て、カテリンはアルバートの両親が住むアパートの前で停まった。アルバートは「どうして、 ここへ?このアパートには行かない」と焦るが、トミーは「彼女を信じろ」と告げた。
アルバートが両親の元へ行くと、いつの間にかカテリンが無断で上がり込んでいた。彼女はアルバートが9歳の時に書いた日記を見つけ、 猫が死んだ日の内容を母親に読ませた。そして、可愛がっていた猫が死んで悲しんだ事実をアルバートが恥ずかしいと感じているのは、 その時にロクに知りもしない客と喋っていて、ちゃんと息子の相手をしなかった母親が悪いのだと糾弾した。
ベルナードとヴィヴィアンがアルバートの前に現れ、「カテリンが引き込むのは闇の世界だ。彼女は我々の愛弟子だったが、裏切った」と 述べた。それでもアルバートが「カテリンを信じる」と言うと、ベルナードたちは「ブラッドを使って自分たちの正しさを証明する」と 宣言した。ベルナードとヴィヴィアンはブラッドの家へ行き、室内を徹底的に捜索した。ブラッドが彼らに依頼したのは、ずっと笑顔を 振り撒いているのが苦痛になったが、やめることが出来ないからだった。
アルバートはカテリンのアドバイスを受け、トミーからボールで顔面をパンチを入れてもらう。すると悩みは消え去り、心地良くなった。 しかしカテリンは「いずれ不完全な世界に戻らなければいけない。生きることは、欲望という形で人間を翻弄する残酷な喜劇に過ぎない」 と語った。彼女はアルバートを野原へ連れて行き、肉体関係を持った。一方、ドーンはベルナードとヴィヴィアンに影響され、おかしな 格好になったり、奇妙な発言を繰り返したりするようになった…。監督はデヴィッド・O・ラッセル、脚本はデヴィッド・O・ラッセル&ジェフ・バエナ、製作はデヴィッド・O・ラッセル&グレゴリー・ グッドマン&スコット・ルーディン、共同製作はダラ・L・ワイントローブ、製作総指揮はマイケル・クーン、撮影はピーター・デミング 、編集はロバート・K・ランバート、美術はK・K・バレット、衣装はマーク・ブリッジス、音楽はジョン・ブライオン。
出演はジェイソン・シュワルツマン、イザベル・ユペール、ダスティン・ホフマン、リリー・トムリン、ジュード・ロウ、マーク・ ウォールバーグ、ナオミ・ワッツ、ケヴィン・ダン、ティッピー・ヘドレン、ボブ・ガントン、 アンジェラ・グリロ、ガー・ドゥエニー、ダーリーン・ハント、デイヴィー・ヘルナンデス、リチャード・アッペル、ベンジャミン・ ヌーリック、ジェイク・マックスワーシー、パブロ・ダヴァンゾ他。
『スリー・キングス』のデヴィッド・O・ラッセル監督が監督と共同脚本を務めた作品。
アルバートをジェイソン・シュワルツマン、 カテリンをイザベル・ユペール、ベルナードをダスティン・ホフマン、ヴィヴィアンをリリー・トムリン、ブラッドをジュード・ロウ、 トミーをマーク・ウォールバーグ、ドーンをナオミ・ワッツ、マーティーをケヴィン・ダン、メアリー・ジェーンをティッピー・ヘドレン 、アルバートの父をボブ・ガントン、新人モデルのヘザーをアイラ・フィッシャーが演じている。
アンクレジットだが、フーテン家の主人役はリチャード・ジェンキンズ。カントリー歌手のシャナイア・トゥエインは、本人役で主演。
環境保護団体の職員ブレットを演じたジョン・ヒルは、これが映画デビュー。アルバートの母を演じたタリア・シャイアは、実際に ジェイソン・シュワルツマンの母親。終盤、アルバートから自転車を預けられるホテルのサービス係を演じたジェイク・ホフマンは、 ダスティン・ホフマンの息子だ。アルバートはヴィヴィアンに「ここが何をしてくれるところなのか今一つ分からなくて」と言うが、それなら、なぜ予約までして探偵社を 訪れたのか。
アルバートは「同じアフリカ人青年と3度も会った偶然の意味を解明してほしい」と語っているが、その程度のことで、なぜ 探偵が必要だと思ったのか。
彼は異様に神経質な男だという設定なのか。
そして、それで納得するしかないのか。ベルナードとヴィヴィアンが具体的に何をする探偵なのか、どうやって問題を解決しようとしているのか、それがサッパリ 分からない。
そもそも彼らの仕事は、探偵と呼ぶべきものなのか。
探偵じゃなくて、どう見ても質が低くてタチの悪いセラピストだぞ。
彼らに対して不満を抱いているなら、なぜ今までトミーは契約を終了しなかったのか。
アルバートが「今後は自分のやり方でやる」と言ったのに、なぜベルナードたちは執拗に付きまとうのか。もはやストーカーと化して いる。「人は何のために生きているのか」「我々の行動には何の意味があるのか」などといった哲学的なテーマを含有した映画というのは、実 はたくさん存在する。
しかし普通は、それをドラマや物語の中に溶け込ませ、さりげなく処理するものだ。哲学的なテーマな主張は、映画評論家や批評的に観賞 する映画ファンだけが感じ取れば良くて、「楽しかったなあ」とか「感動的だったなあ」とか、そんな風に単純な受け止め方でも構わない ようにしてあるケースが多い。
ところが本作品は、哲学的なセリフや禅問答ばかりで構成されている。「これは哲学を語る映画である」ということを声高に主張している 。
「まず哲学的なセリフや主張ありき」で、それに合わせて後から話をくっ付けたのか、ストーリーはデタラメで支離滅裂だ。どこへ 向かって進もうとしているのか、物語として何を描こうとしているのか、それがサッパリ分からない。
タイトルには「ハッカビーズ」とあるが、ハッカビーズを巡る物語にもなっていないし。ヴィヴィアンと会った時、アルバートは「何が何だか分からなくて」と言うが、それはこっちのセリフだ。
この映画が、そういう作品になっている。
的外れな行動、不条理な行動が、笑いで処理されていればともかく、ただ不可解なだけになっている。
哲学的な会話は、ただワケの分からない問答としか受け取れない。
だから難しい哲学映画と言うよりも、つまらないナンセンス映画と化している。これが芸術映画や前衛映画なら、哲学問答ばかりを全面に押し出しても、「まあ仕方が無いか」と思った(諦めた)かもしれない。
だけど、どうやら監督は、これを「陽気な喜劇」として作っているつもりらしいのだ。
おいおい、ふざけちゃいけないぞ。これのどこが喜劇なのか。
確かに陰気ではない。明るさは感じる。
ただし、ここにあるのは空虚な明るさ、空回りする軽さである。デヴィッド・O・ラッセル監督は娯楽映画を舐めているか、まるで分かっていないか、どっちかなんじゃないか。
ちなみに『スリー・キングス』で一緒に仕事をしたジョージ・クルーニーは、「彼が近くに来たら顔面を殴ってやる」と言う ほど険悪な関係になったそうだ。
確執が生じた詳しい理由は知らないが、「こんな映画を撮っちゃうような監督だから、そりゃあジョージ・クルーニーも腹を立てるわなあ 」と、そんなことを私に思わせた作品であった。(観賞日:2010年9月3日)