『ハイド・アンド・シーク/暗闇のかくれんぼ』:2005、アメリカ

ニューヨーク、元日。9歳のエミリー・キャラウェイは、公園で母アリソンと楽しそうに遊んでいた。心理学者である父デヴィッドは、 2人を微笑ましく眺めていた。夜、エミリーを寝かし付けた後、デヴィッドはアリソンに「話をしようか」と声を掛けるが、「私は貴方の 患者じゃないわ」と冷たく返された。深夜2時、デヴィッドは目を覚ました。浴室から漏れる明かりに気付き、彼は足を向けた。浴室に 入ると、アリソンが浴槽の中で手首を切って死んでいた。起きてきたエミリーが、それを無表情に見つめていた。
デヴィッドはエミリーを、教え子であるキャサリンが勤務する小児科専用病院に入れた。エミリーは、すっかり心を閉ざして感情を表に 出さなくなっていた。しばらくして彼は、エミリーと共にニューヨーク郊外へ引っ越すことを決めた。父子が人口2206人のウッドランドへ 赴くと、不動産屋のハスキンスと保安官ハファティーが出迎えた。
ウッドランドは避暑地であり、夏までは閑散としている。その環境を、デヴィッドはエミリーと暮らすのに適していると感じていた。 引っ越した早々、隣に住む主婦ローラが手作りジャムを持って訪問した。だが、エミリーは無表情で、彼女に挨拶さえしなかった。娘を 連れて外出したデヴィッドは、エリザベスという女性と出会った。彼女は姉の娘エイミーを遊ばせていた。
夜、デヴィッドはエミリーの変化に気付いた。今まで一緒に寝ていた人形アレックスが見当たらないのだ。エミリーは、「もう要らない。 他に友達が出来た。人形じゃないし女の子でもない」と告げた。デヴィッドが詳しく聞こうとすると、エミリーは「どこの誰か教えては ダメだと言われている」と説明するが、チャーリーという名前だけは教えた。今日、街に行く前に仲良くなったという。
デヴィッドはキャサリンに電話を掛け、チャーリーのことを相談した。キャサリンが「空想の友達で心の痛みを紛らわせている」と言った ため、デヴィッドは娘を静観することにした。深夜2時、デヴィッドはアリソンが登場する夢を見て、目を覚ました。浴室の明かりに 気付き、彼は足を向けた。すると浴室の壁に、「お前が死なせた」と書かれていた。デヴィッドは、それがエミリーのクレヨンで書かれた エミリーの筆跡だと気付いた。しかしエミリーは、「私じゃなくチャーリーがやった」と説明した。
エリザベスとエイミーが遊びに来た。エリザベスは夫と離婚し、姉夫婦の家で居候している。エミリーはエイミーの人形の顔を潰し、 「もう来ない方がいい。次は貴方の番かも」と冷淡に告げた。2人が去った後、ローラの夫スティーヴンがやって来た。エミリーは、庭で 彼と仲良く遊んだ。デヴィッドはスティーヴンを警戒し、適当に理由を付けてエミリーを家の中に入れた。
デヴィッドはエミリーから、その後もチャーリーと遊んでいることを聞く。だが、チャーリーは決してデヴィッドの前に姿を現さない。 ローラがデヴィッドを訪ね、「スティーヴンは危険人物ではない。最近、子供を亡くしている」と釈明した。エリザベスが訪問し、父子と 夕食を取った。エミリーは彼女に、「ママと同じようにならなきゃいいね」と告げた。
深夜2時、またもデヴィッドはアリソンの出て来る夢で目を覚ました。やはり浴室の明かりが漏れており、行くと壁に「見ろ、お前のした ことを」というメッセージがあり、浴槽に猫が沈んでいた。エミリーは「またチャーリーがやったのよ」と告げた。デヴィッドは、玄関の 外にハスキンスがいるのを見つけた。彼は「部屋の鍵を一つ渡し忘れていた」と告げ、鍵を渡して去った。
エミリーはデヴィッドに、「チャーリーはママのことを、俺なら満足させられると言っていた」と話した。デヴィッドは「チャーリー なんかいない。いるなら会わせてくれ」と求めた。するとエミリーは、父を自分の部屋に連れて行く。壁に貼ってある何枚もの絵を、 エミリーは「チャーリーとママが仲良くしている絵」と説明した。デヴィッドはキャサリンを呼び寄せ、娘と話してもらう。エミリーは、 「チャーリーとは良く、かくれんぼをする」と語った。
デヴィッドはエミリーの目を盗み、彼女の手帳を調べた。手帳には、アリソンが浴槽で血まみれになって死ぬパラパラ漫画が描かれていた。 デヴィッドはローラから、「旦那が参っている。子供が死んでから人が変わったようだ」と聞かされた。エリザベスが訪ねてくるが、 デヴィッドは出て来なかった。彼女はエミリーの部屋に行き、仲良くしようと持ち掛けた。エミリーは「もうチャーリーと遊んでいる」と 告げた。エリザベスはクローゼットを調べようとするが、そこから現れた何者かに窓から突き落とされた…。

監督はジョン・ポルソン、脚本はアリ・シュロスバーグ、製作はバリー・ジョセフソン、共同製作はダナ・ロビン&ジョン・ロジャース、 製作総指揮はジョセフ・カラッシオロJr.、撮影はダリウス・ウォルスキー、編集はジェフリー・フォード、美術はスティーヴン・ ジョーダン、衣装はオード・ブロンソン=ハワード、音楽はジョン・オットマン。
主演はロバート・デ・ニーロ、共演はダコタ・ファニング、ファムケ・ヤンセン、エリザベス・シュー、エイミー・アーヴィング、 ディラン・ベイカー、メリッサ・レオ、ロバート・ジョン・バーク、 モリー・グラント・カリンズ、デヴィッド・チャンドラー、スチュワート・サマーズ、ジェイク・ディラン・バウマー。


詩人のベン・シュロスバーグと作家のコニー・ブラックを両親に持つアリ・シュロスバーグが、初めて長編映画の脚本を執筆した作品。
監督は、俳優としても活動するオーストラリア出身のジョン・ポルソン。
デヴィッドをロバート・デ・ニーロ、エミリーをダコタ・ファニング、 キャサリンをファムケ・ヤンセン、エリザベスをエリザベス・シュー、アリソンをエイミー・アーヴィング、ハファティーをディラン・ ベイカー、ローラをメリッサ・レオ、スティーヴンをロバート・ジョン・バークが演じている。

この邦題は、どうなのかね。サブタイトルが余計だと思えるんだが。
ハイド・アンド・シークが「かくれんぼ」の意味になるから、訳すと「かくれんぼ/暗闇のかくれんぼ」という、とてもマヌケなことに なっている。
「ハイド・アンド・シーク」だけでは意味が分からない人もいると思ったのかもしれないが、だったら「暗闇のかくれんぼ」だけにすりゃ いい話だろうし。
あと日本の配給会社の「感動サスペンス」という意味不明な宣伝文句は、感動モノに弱い女性客を呼ぶ狙いだろうけど、嘘が過ぎるだろ。

ミステリーとしては、あまりにも親切すぎるというのが、本作品の重大な欠陥だ。あまりにも父娘の関係に話を絞り込みすぎたために、 「チャーリーは誰なのか」ということが簡単に特定できてしまう。
エミリーを冷淡で無感情な子供にすることでミスリードを狙っている節はあるが、他の人物を犯人だと特定するヒントが多すぎて、その ミスリードを覆い隠してしまう。
もう面倒だから完全ネタバレを書いてしまうが、チャーリーの正体はデヴィッドの別人格である。
デヴィッドがアリソンの夢を見て深夜2時に目を覚ます展開が何度も入るのは、ヒントとして親切すぎるでしょ。
「チャーリーの正体は人間ではなく、得体の知れない何か」というオカルト方向へのミスリードを図る手もあるが、そっちへ引っ張ろうと いう仕掛けは、ほとんど見られない。

「チャーリーは頭のイカれた殺人鬼」ってことを考えたら、ロバート・デ・ニーロがデヴィッド役というのは、親切すぎる配役だ。
彼が演じていることで、デヴィッドをチャーリー候補として見た場合に、「それっぽいよな」と疑わしく思えてしまう。
それよりも、普段は「いかにも優しくて家族思いの父親」を演じることが多いような、それが似合うような俳優をデヴィッド役に キャスティングした方が、ミステリーとしては適切だったのではないか。

父子を取り巻く人物が何人か登場するが、いずれも関わりが薄く、容疑者になるだけの条件を満たしていない。そもそもアリソンの死も 自殺ではなく他殺だというのが見え見えになっており、それがウッドランドでの一連の出来事と同一犯だというのも見え見えだ。
ということは、冒頭の時点で父子と無関係の人間は、容疑者たりえない。
そうなると、脇役の面々は全員が不適合なのだ。
百歩譲って、「アリソンは自殺した」という主張を受け入れて、物語を見ていくとしよう。そうであっても、やはりミスリードには欠陥が ある。
どうやら最も疑いを強く持たせようと強いている標的は、スティーヴンのようだ。だが、エミリーが「チャーリーと友達になった」と口に する時点で、まだスティーヴンとは面識が無い。
なので、そのミスリードは失敗している。
そして、デヴィッドがチャーリーだということが分かってしまうと、辻褄の合わないことが生じる。
前半、デヴィッドが書斎でエミリーに関することを記している場面と、エミリーがチャーリーとかくれんぼをしている場面が、カット バックで映し出される。
これは描写として、おかしい。デヴィッドが書斎にいるのと同時刻、別の場所にチャーリーが出現することは不可能だからだ。

後半、エミリーの部屋を訪れたエリザベスは、クローゼットから現れた何者か(カメラは誰の姿も捉えていない)によって突き落とされる。
だが、エリザベスが訪れる直前、デヴィッドが書斎で仕事をしており、ヘッドホンのせいで彼女の呼び掛けが聞こえなかったという様子が 描写されている。つまりエリザベスが訪れた時、彼は書斎にいたことになる。
しかしながら、エリザベスがエミリーの部屋に行った時、チャーリーは既にクローゼットの中にいる。
これは整合性が取れていない。仮にミスリードの意図があったとしても、完全なるルール違反だ。「書斎にいたのに、エリザベスに気付かれずにクローゼットに入る」という 芸当は、瞬間移動の能力がある超能力者でもなければ不可能だろう。

エミリーはチャーリーが父親の別人格であり、恐ろしい殺人鬼だということを分かっていたということになる。
なのに、それを誰にも言わず、普通に友達として遊んでいるというのは、どういう神経なのか。
それは無理があるだろ。
チャーリーに怯えているとしても、だったら「遊んでいる。かくれんぼしている」なんて言わないでしょ。そして、どこか怯えている態度 が出るはずでしょ。
エミリーはキャサリンにさえ何も言わず、自分が疑いを掛けられても、デヴィッドに「パパがチャーリー」と明かさない。ハファティーに 聞かれても、エリザベスが来たことを隠す。その後には、チャーリーのハファティー殺しをサポートするような行動さえ取る。
っていうか、「父親が別人格を持っている」というのを、9歳にして認識しているのも、考えてみればスゴいよな。
「ダコタ・ファニングが演じているから納得させられるだろ」って部分に甘えすぎじゃないか。

伏線なのかと思ったら、単にミスリードのためだけに用意されたようなシーンが幾つもある。
そのシーンの意味、キャラの行動に関する理由の説明といったフォローは、全く無い。
例えばローラが夫のことで「あんなことまで……。それは言えない」と誤魔化すが、何が言いたかったのかは最後まで説明が無い。
あと、浴室の壁のメッセージをデヴィッドが「エミリーの筆跡」と断定したのは、どう説明するのか。それはデヴィッドの勘違いという ことなのか。

(観賞日:2008年8月7日)


第28回スティンカーズ最悪映画賞

ノミネート:【ちっとも怖くないホラー映画】部門

 

*ポンコツ映画愛護協会