『ヘラクレス』:2014、アメリカ

彼の父は全能の神であるゼウス、母は人間の女性であるアルクメーネーであった。ゼウスの妻であるヘラはヘラクレスと名付けられた男児を憎み、抹殺しようと目論んだ。彼女は二匹の毒蛇を差し向けるが、生後間もないヘラクレスは簡単に握り潰して始末した。やがて成長したヘラクレスは、神々から12の試練を与えられた。イオラオスは海賊に捕まった時、伯父であるヘラクレスが12の試練で恐ろしい怪物を次々に退治したのだと語った。
時間稼ぎだと確信した海賊がイオラオスを始末しようとした時、ヘラクレスがアムピアラオス、アウトリュコス、テュデウス、アタランテという仲間たちを引き連れて駆け付けた。傭兵として雇われている彼らは海賊と戦い、圧倒的な強さを見せ付けて勝利した。多額の金貨を手に入れたヘラクレスたちは、酒場で休息を取る。そこへトラキアの王女であるユージニアが現れ、内乱が勃発した国を救ってほしいとヘラクレスに依頼する。コテュス王が莫大な報酬を与えることを彼女が約束したので、ヘラクレスは仕事を引き受けた。
ヘラクレスの一行はユージニアに案内され、トラキアへ到着した。イオラオスがヘラクレスの偉業を広めていることもあり、ユージニアの息子であるアリウスたちは興奮した様子で歓迎する。コテュス王の待つ広間へ向かう途中、ヘラクレスは昔のことを思い出す。かつて彼はエウリュステウス王に仕え、怪物のヒュドラを退治して頭部を持ち帰った。エウリュステウス王は彼を信頼し、人々は英雄として崇拝した。しかし幸せな日々が続く中、ヘラクレスは妻のメガラーと子供たちを失っていた。
コテュスは反乱軍を率いるレーソスについて、「普通の人間では殺せない」と言う。レーソスは妖術師で、ケンタウロスの部隊を率いているのだとコテュスは説明する。ヘラクレスはコテュスやユージニアの話を聞き、国民の平和を願う善良な人々だと感じた。そこで彼は反乱軍と戦うため、農民を鍛えることにした。ヘラクレスは農民を集め、敵を殺すのではなく生き残るための方法を教え始める。コテュスは反乱軍がベッシの村へ向かっていることを知り、すぐに自軍を差し向けようと考える。ヘラクレスは訓練期間が必要だと反対するが、コテュスはベッシを守る必要性を重視して軍の派遣を決定した。
ヘラクレスはコテュスやシタクレス将軍らと共に、農民軍を率いてベッシへ赴いた。村に入った一行は、死体を装った村人たちに襲われる。困惑するヘラクレスに、コテュスは「彼らはレーソスの妖術で操られているのだ」と説明した。ヘラクレスたちは勝利を収めたものの、多くの犠牲を出してしまう。彼は改めて農民を鍛える必要性をコテュスに訴え、了承を得た。妻子を殺した時の悪夢を見たヘラクレスに、アムピアラオスは「運命から逃れることは出来ない」と告げ、やり残した偉業を成し遂げる必要があると説いた。
ヘラクレスが妻子を殺してエウリュステウス王に追放されたという噂を聞き付けたユージニアは、アウトリュコスたちに真相を尋ねた。するとアウトリュコスたちは「誰も本当のことは知らない」と答え、ヘラクレスへの忠誠心を示した。ヘラクレスはトラキア軍を鍛え上げ、反乱軍がいる山へ向かう。すると丘の上から、ケンタウロスのような姿をしたレーソスの軍勢が現れる。しかし近付いて来ると、馬に乗った人間の兵士であることが判明した。レーソスの傍らには、トラキア軍を裏切ったフィニアスの姿があった。ヘラクレスは軍勢を率いて反乱軍と戦い、レーソスを一撃で倒して勝利した。
捕縛されたレーソスはヘラクレスを睨み付け、「お前は暴君を手伝った。私は村を燃やしてしない。誰が犯人なのかは自分の胸に聞いてみろ」と言い放つ。ユージニアは見せしめに吊るされたレーソスに憐れみの視線を向け、水を運ぼうとするがコテュスに制止された。その様子を見ていたヘラクレスはユージニアが1人になるのを待ち、彼女を問い詰める。するとユージニアは、コテュスに従わなければ息子が処刑されること、コテュスがトラキア王だった夫を毒殺して実権を握ったことを明かす。彼女はレーソスが国を救うために反旗を翻したと知りながら、息子に王位を継承させる目的でコテュスに協力していたのだ…。

監督はブレット・ラトナー、原作はスティーヴ・ムーア、脚本はライアン・J・コンダル&エヴァン・スピリオトポウロス、製作はボー・フリン&バリー・レヴィン&ブレット・ラトナー、製作総指揮はロス・ファンガー&ジェシー・バーガー&ピーター・バーグ&サラ・オーブリー、製作協力はヒラム・ガルシア、撮影はダンテ・スピノッティー、美術はジャン=ヴァンサン・ピュゾ、編集はマーク・ヘルフリッチ&ジュリア・ウォン、衣装はジェイニー・ティーマイム、視覚効果監修はジョン・ブルーノ、第二班監督はアレクサンダー・ウィット、音楽はフェルナンド・ヴェラスケス。
出演はドウェイン・ジョンソン、イアン・マクシェーン、ルーファス・シーウェル、ジョン・ハート、アクセル・ヘニー、イングリッド・ボルゾ・ベルダル、リース・リッチー、トビアス・ザンテルマン、ジョセフ・ファインズ、ピーター・ミュラン、レベッカ・ファーガソン、アイザック・アンドリュース、ジョー・アンダーソン、スティーヴン・ピーコック、ニック・モス、ロバート・ホワイトロック、イリーナ・シェイク、クリス・フェアバンク、イアン・ワイト他。


ギリシャ神話をモチーフにしたスティーヴ・ムーアによるコミックの映画化。
監督は『ラッシュアワー3』『ペントハウス』のブレット・ラトナー。
脚本は、これが初の長編映画となるライアン・J・コンダルと、『ジャングル・ブック2』『ティンカー・ベルと月の石』のエヴァン・スピリオトポウロス。
ヘラクレスをドウェイン・ジョンソン、アムピアラオスをイアン・マクシェーン、アウトリュコスをルーファス・シーウェル、コテュスをジョン・ハート、テュデウスをアクセル・ヘニー、アタランテをイングリッド・ボルゾ・ベルダル、イオラオスをリース・リッチー、レーソスをトビアス・ザンテルマン、エウリュステウスをジョセフ・ファインズ、シタクレスをピーター・ミュラン、ユージニアをレベッカ・ファーガソン、アリウスをアイザック・アンドリュースが演じている。

この映画に登場するヘラクレスは神様の子ではなく普通の人間で、ただの傭兵に過ぎない。
神の子だとか、12の偉業を成し遂げたってのは、全て彼を偉大な英雄に見せ掛けるための嘘だという設定だ。
ようするに本作品は、「ヘラクレス」という有名なキャラクターを借りて、オリジナルのファンタジー・アクション物をやりたかっただけだ。
そりゃあ無名のキャラクターを主人公にするよりは、ヘラクレスにしておいた方が観客の食い付きはいいわな。

ギリシア神話にあるヘラクレスの物語は、今まで何度も映像化されている。
だから「同じことをやるんじゃなくて、一味も二味も違う作品にしよう」という考え方は、それだけで全面的に否定するようなことではないかもしれない。
ただし、「ヘラクレスが神の力を持たない人間」「有名な12の試練を全く描かない」「有名な物語のアレンジ版ではなく、完全に別物の物語」といった中身は、全面的に否定したくなる。
「多くの観客が期待するヘラクレスの物語って、ホントにそういうことでいいのかね」と思ってしまうのだ。

この映画の主人公は傭兵で、少数の仲間を引き連れて仕事をしている。甥が「彼は凄い人物なんだぜ」と吹聴していることもあり、その伝説は広く知られている。
ある国に反乱軍の鎮圧を要請された主人公は、農民を鍛えて戦う。悪い王に騙されたと知った主人公は、懐柔を拒絶して牢獄に入れられる。
脱獄した彼は軍を率いて戦い、王の軍勢と戦って勝利を収める。
ザックリと説明するならば、そういう話だ。
さて、この物語で、果たして主人公がヘラクレスである必要性を貴方は感じ取ることが出来るだろうか。

この映画を見ていると、前半の内に「これって主人公がヘラクレスである意味、ほとんど無くねえか?」という疑問が浮かぶ。
そして、その疑問は最後まで解消されない。
いや、ある意味では解消されるのだ。
と言うのも、最後まで見た時に「やっぱり主人公がヘラクレスである意味は皆無に等しいな」という風に、確信へと変わるからだ。
ただし、それは「ヘラクレスの有名な物語」から完全に逸脱していることだけが理由ではない。

なぜかハリウッドでは同じ時期に2本のヘラクレス映画が企画され、同年にレニー・ハーリン監督の『ザ・ヘラクレス』も公開された。
そして『ザ・ヘラクレス』の方も、ギリシア神話を無視した内容になっていた(あちらは原作付きではなくオリジナル脚本)。
そちらの批評にも書いたことだが、これが例えば「ヘラクレスが現代の地球に来て人間と交流する」という内容であれば、ギリシア神話に登場するようなエピソードを全く扱わないのは一向に構わない。
しかし、ギリシア神話の世界観を使っているにも関わらず、広く知られているエピソードを使わないってことになると、「コレジャナイ感」が強いだけの映画になってしまうのだ。

そして『ザ・ヘラクレス』と同様、こちらも「オリジナル・ストーリーとして面白ければともかく、てんでダメ」という仕上がりになっている。
何しろ、回想シーンのチラ見せ以外に、異形の怪物は全く登場しない。神や妖術師が不思議な力を披露することも無い。そこに「神話」としての味付けは、何一つとして存在しない。
たぶん、あえて「神話」を遠ざける内容にしているんだろうとは思うのよ。
だけど、それによって「ヘラクレスの名前を借りただけの凡庸なアクション映画」になっているんだから、どうしようもないわけで。

色々と雑な部分も多くて、例えば「ヘラクレスはベッシの村人を助けに行ったのに、彼らが襲ってきたら容赦なく全滅させる」ってのは、どういうことなのかと。
コテュスが「レーソスの妖術で操られている」と説明しているけど、だったら本来は悪人じゃないはずなんだから、妖術から解放する方法を考えたらどうなのかと。
相手が襲って来るから考える時間なんて無いとしても、せめて「悪人じゃない面々を殺すことへの罪悪感や苦悩」ってのを見せたらどうなのかと。
なんで全滅させた後、平気でいられるのか。

反乱軍と戦ってレーソスを捕まえた後、彼がの言葉を受けて、ようやく「なんか違ったかも」と考える。
ヘラクレスはコテュスに騙され、悪人である彼の手助けをしてしまったわけだが、「もっと早い段階で気付けよ。せめて疑いぐらいは抱けよ」と思ってしまう。
ヘラクレスだけじゃなくて、仲間たちも誰一人として騙されていることに全く気付かないのよね。
もちろん映画としては「狡猾なコテュスが巧みに利用した」と見せたいんだろうけど、こっちからすると「ヘラクレスと仲間たちがアホすぎる」という印象を受けるのよ。

終盤に入るとエウリュステウス王が現れ、ヘラクレスに「お前の妻子を殺したのは私の猛犬だよ。国民に崇拝されるお前が脅威だったから薬漬けで幻覚を見せ、追放した」と教える。
回想シーンだけの出番だと思っていたキャラが登場し、「ヘラクレスが妻子を殺したってのは誤り」ってのを知らせる役目を担うわけだ。
でも、「わざわざヘラクレスの前に姿を見せて、そんなことを言う必要がどこにあるんだよ」と言いたくなる。
すんげえバカで陳腐な行動にしか見えんぞ。

そんなバカのエウリュステウスだが、妻子を殺したと明かした以上、「ヘラクレスの妻子殺しが無罪だと証明する」という役目だけで退場させることは出来ない。
当然のことながら、「ヘラクレスの復讐」に繋げなきゃいけない。
しかし問題は、「そこまでの物語はヘラクレスの復讐劇に全く繋がっていない」ってことだ。
そこまでの流れだけを見れば、「ヘラクレスは自分を欺いたコテュスを倒すために戦う」ってのがクライマックスにふさわしい。

そこで本作品は、「コテュスとエウリュステウスが密かに手を組んでいて、一緒にギリシアの支配を狙っていた」という設定を用意する。
ヘラクレスが倒すべき2人を仲間にすることで、そこまでの流れを回収するためのクライマックスと「妻子の復讐」を一緒に片付けようとしているわけだ。
でも、あまりにも無理があり過ぎて全く乗れないわ。
前者はともかく復讐劇に関しては、そこを盛り上げるための作業が少なすぎるでしょ。欲張ったせいで、得られるモノが著しく減っているぞ。

ヘラクレスの仲間には、「預言者」「語り手」「野獣のような戦士」「紅一点」といった特徴が設定されている。しかし、彼らの個性が活用されることは、ほとんど無い。
たまに預言者が「これは大事な言葉ですよ」という感じで台詞を喋ったりするが、意味のある使われ方をしているのは、それぐらいだろう。
「ドウェイン・ジョンソンのスター映画」と捉えれば、主人公だけを目立たせればいいのだから、それでも構わないってことだろう。
なので、ヘラクレスの仲間たちは、ほぼ「ヘラクレスは神の子じゃなくて単なる傭兵に過ぎない。仲間がいなきゃ無理」という設定を使うためだけの駒になっている。

っていうかさ、この映画のヘラクレスって「12の偉業を成し遂げたってのは真っ赤な嘘で、半神半人としての能力を持たない普通の人間」として描かれているんだけど、そんな風には全く見えないのよ。
だってさ、圧倒的な怪力と戦闘能力を発揮しているわけで。
それだけでも充分に超人と言えるんじゃないのかと。
で、そこに「たまにゼウスを始めとする神々が助けてくれる」という要素でも加えれば、今までに多くの作品で描かれたヘラクレスと大して変わらんことになるでしょ。

こんな出来栄えになっちゃうのなら、単純に「ヘラクレスが12の偉業を成し遂げる物語」として作った方が遥かに面白くなったんじゃないかと思うのよね。
「ドウェイン・ジョンソンがヘラクレスを演じて様々な怪物と戦う」というだけでも、ワクワクできる男子は大勢いるはずで。
最新のVFXを使って怪物を表現し、ドウェイン・ジョンソンがムキムキの肉体を誇示しながら派手に暴れまくる姿を描けば、かなり楽しめるファンタジー・アクション映画に仕上がったんじゃないかと。

(観賞日:2016年12月8日)

 

*ポンコツ映画愛護協会