『ハンキー・パンキー』:1982、アメリカ

1981年の春、メイン州バンヴィル。1人の男が首を吊って自殺した。彼は、壁に謎めいた絵を残していた。同年夏、ニューヨーク。国家安全保障局のコールダー局長は、ジャネット・ダンという女性と面会する。だが、コールダーは毒物によって倒れてしまう。
ランサムという男の手下達に追われたジャネットは、現場から逃走する。彼女はタクシーに乗り込むが、そこには先客としてマイケル・ジョーダンというシカゴから来た建築家がいた。マイケルは、ジャネットの持っていた封筒をポストに投函してやった。
ジャネットと別れた後、マイケルはランサム一味に捕まって薬を注射され、封筒の宛先を自白させられる。一味に殺されそうになったマイケルだが、隙を見て逃亡する。マイケルはジャネットの宿泊しているホテルに行って事情を尋ねるが、追い返される。
マイケルは、ジャネットがテレンス・マーティンという男に連絡しようとしているのを知る。ジャネットはランサムに襲われ、射殺される。銃声を聞いて現場に戻ったマイケルは、他の宿泊客からジャネットの殺人犯と間違えられ、警察に追われる身となる。
マイケルがアパートに逃げ帰ると、そこにはケイト・ヘルマンという女がいた。マイケルは行き掛かり上、ケイトと共に逃げることになった。マイケルは記者だと称するケイトと共に、封筒の宛先であるケンブリッジへ行く。郵便配達人の隙を見て封筒を入手したマイケルは、その中にコンピュータのフィルムが入っているのを発見した。
マイケルはテレンス・マーティンと接触しようとするが、ランサムが彼を殺してしまう。やがてケイトはマイケルに、自分の兄を殺した犯人を探していることを明かした。彼女の兄は薬を飲まされ、発狂して首を吊ったのだ。ケイトの兄が残した絵を見たマイケルは、それがグランド・キャニオンを示していることに気付いた。
マイケルはケイトの紹介でウォルフ博士に会い、コンピュータ・フィルムを調べてもらう。だが、ウォルフ博士の行動に不審を抱いたマイケルは、密かにフィルムを取り返し、ケイトと共にグランド・キャニオンへ向かう。一方、ウォルフはコールダーに連絡を入れた。実は、マイケルの入手したフィルムは、軍の最高機密だったのだ…。

監督はシドニー・ポワチエ、脚本&製作協力はヘンリー・ローゼンバウム&デヴィッド・テイラー、製作はマーティン・ランソホフ、製作総指揮はメルヴィル・タッカー、撮影はアーサー・オーニッツ、編集はハリー・ケラー、美術はベン・エドワーズ、衣装はバーナード・ジョンソン、音楽はトム・スコット。
出演はジーン・ワイルダー、ギルダ・ラドナー、キャスリーン・クインラン、リチャード・ウィドマーク、ロバート・プロスキー、ジョセフ・ソマー、ジョニー・セッカ、ジェイ・O・サンダース、サム・グレイ、ラリー・ブリッグマン、パット・コーリー、ジョニー・ブラウン、ビル・ボイテル、ナット・ハビブ、ジェームズ・トルカン、ジェームズ・グリーン、ジェイ・ガーナー、スティーヴン・D・ニューマン他。


俳優でもあるシドニー・ポワチエがメガホンを執った作品。
マイケルをジーン・ワイルダー、ケイトをギルダ・ラドナー、ジャネットをキャスリーン・クインラン、ランサムをリチャード・ウィドマーク、コールダーをロバート・プロスキーが演じている。

とにかく登場キャラクターには理解不能な行動が多い。
例えば前述したコールダーが倒れるシーン。
ランサムが毒を塗ったオリーブを食べさせているのだが、そこまでするなら殺すべきでしょ。
で、こりゃ死んだと思ったら、なぜか生きているんだな、これが。

ランサム一味はマイケルを薬で自白させた後、駅から線路に突き落とし、自殺に見せ掛けて殺そうとする。で、そういう計画をマイケルの前でベラベラと喋り、しかも薬の効果が切れた後で駅へ連れて行こうとする。しかも、大勢の客がいる中でだ。当然、マイケルは抵抗して逃げ出してしまう。
完全にアホ丸出しだぞ、ランサム一味。

終盤、ランサム一味はケイトを監禁するのだが、手足を縛ったりするわけでもない。しかも、彼女を監禁した部屋には車があるわ、ガスバーナーがあるわ、油がたっぷりだわと、逃走用の足も武器も一杯。
やっぱり、完全にアホ丸出しだぞ、ランサム一味。

この映画、ジーン・ワイルダーとギルダ・ラドナーの共演作だから、話としてはサスペンスでも、たぶんコメディー・タッチになるだろうと予想するのが普通だ。タイトル(ハンキー・パンキーとは「インチキ」の意味)からして、かなりコメディーっぽい雰囲気がある。
しかしながら、実際には、ほぼシリアスなサスペンス。
コメディー要素は非常に薄い。

まず滑り出しは、完全にサスペンス。男が首を吊り、コールダーが毒で倒れ、ジャネットが必死で逃げる。で、ジーン・ワイルダーが登場すると、急にコメディーにチェンジしようとする。もちろんジーン・ワイルダーだからコミカルになって当然なのだが、その急激な切り替えが上手くいっているとは思えない。その後、すぐにサスペンスに戻るし。
その後はシリアスモードが続き、ギルダ・ラドナーが登場して再びコメディーっぽくやろうとするが、話のシリアスさに負ける。ジーン・ワイルダーが喜劇俳優としての持ち味を出そうとしても、シリアスなサスペンスの色に打ち消される。何しろ、シナリオに笑いの要素はほとんど無いし、演出にもコミカルにしようという意識が欠如しているのだから。

コメディーらしさがシナリオの中に全く無いわけではない。例えば、マイケルがマジック用の衣装に着替えるシーンや、セスナの操縦をするハメになるシーンなどはコメディー的だ。ただし、そこだけが、見事に取って付けたような感じになっている。
コメディーっぽさは薄いくせに、ロマンスのテイストは強引に持ち込もうとする。何の脈絡も無く、そういうムードのシーンを持って来る。必死に逃亡している途中なのに、ノンビリとマイケルがピアノを弾き、なぜか彼とケイトの間にロマンスが発生する。そこまでの流れでロマンスが発生する要素はゼロに思えるのだが、どういう思考回路なのか。

マイケルとケイトは、妙なところで緊張感を失った行動を取る。軍の施設から逃げ出した後、なぜかノンビリと寝ているマイケル。そんでケイトを連れ去られる。コミカルというコトとは全く違うレヴェル、違う意味で、ユルユルになってしまっている。
で、普通のサスペンスとして面白いのかと言われると、それも違うのだが、最大の問題はそういうことではないだろう。普通のサスペンス、ヒッチコックもどきのサスペンスをやりたいのなら、ジーン・ワイルダーとギルダ・ラドナーを使う意味は無いってことだよ。
まあ、ギルダ・ラドナーがサスペンスのヒロインってのは冗談みたいな話だけどさ。

 

*ポンコツ映画愛護協会