『HACHI 約束の犬』:2009、アメリカ&イギリス

ある小学校の教室では、尊敬する人物についての発表会が行われていた。順番が来て立ち上がった11歳のロニーは、黒板に「Hachiko」と 書いた。それは彼の祖父が飼っていた犬の名前だ。ロニーは、祖父パーカーと飼い犬ハチの物語について語り始めた。一匹の仔犬が、日本 の寺からアメリカ東海岸へと送られた。運ばれる途中で、箱に付いていたプレートが敗れた。ベッドリッジ駅に到着したところで、職員の カートから箱が落ちた。仔犬が壊れた箱から外に出たところへ、通り掛かったのが大学教授のパーカーだった。
パーカーは仔犬を抱き上げ、駅長のカールに「飼い主が引き取りに来るまで預かって欲しい」と告げた。しかしカールは「困りますよ。 明日の朝になったら保健所に連れて行かないと」と言われ、パーカーは家へ連れ帰ることにした。帰宅したパーカーは、仔犬を自分の部屋 に隠した。前に飼っていたルークが死んで以来、二度と犬を飼わないことを妻ケイトと約束していたからだ。しかしハチが部屋から出て きたため、パーカーはケイトに「明日の朝には飼い主を捜すから」と弁明した。
翌朝、娘のケイトは仔犬を気に入って「飼おうよ」と言うが、ケイトは許さなかった。パーカーは保健所へ仔犬を連れて行き、預かって もらおうとする。しかし「引き取り手が現われるまで、預かることが出来る期限は2週間」と言われ、諦めた。パーカーは駅前の本屋へ 行き、店主メアリー・アンに頼んで「迷子の仔犬を預かっています」というチラシを貼らせてもらった。パーカーは仔犬を預からないかと 持ち掛けるが、メアリー・アンは猫を飼っていたので無理だった。
パーカーは数ヶ所にチラシを貼らせてもらいながら、仔犬を預かってくれる人を探すが、見つからなかった。彼は仔犬を大学へ連れて 行こうとするが、カールに「列車に犬は連れ込めませんよ」と注意された。パーカーはカバンに仔犬を隠し、こっそりと列車に乗せた。彼 は日系人の同僚ケンにプレートの切れ端を見せ、書いてある文字を読んでもらうが、わずかに「山梨」という文字が判別できただけだった 。ケンはパーカーに、仔犬が秋田犬であり、特別な種類だと教えた。
首輪には「八」という漢字が書いてあり、ケンから説明を受けたパーカーは、仔犬を「ハチ」と呼ぶようになった。パーカーはハチを 飼いたいと思うようになったが、ケイトは家に入れることさえ拒んだ。パーカーはハチを物置に入れるが、嵐の夜、心配になって自分の 部屋へこっそりと連れ込んだ。ケイトはそれを発見するが、「今夜だけだ」とパーカーが頼むと、何も言わなかった。
翌日、ケイトがアンディーに促されて庭を見ると、パーカーはハチと楽しそうに遊んでいた。そこへチラシを見た人から電話が入り、 飼い主が見つからないのであれば引き取りたいと言ってきた。連絡先を尋ねようとしたケイトは、ふと庭に目をやった。パーカーとハチの 様子を目にしたケイトは、電話の相手に「申し訳ありません。たった今、飼い主が見つかりました」と告げた。こうしてハチは、パーカー の家で飼われることになった。
やがて時が過ぎ、ハチは大きく成長した。ある日、いつものようにパーカーが出勤するため駅へ向かうと、ハチは勝手に付いて来てしまう 。パーカーは家へ帰るよう促すが、ハチはすぐに駅へ戻ってきた。パーカーは家へハチを連れ帰り、改めて駅へ向かった。夕方、パーカー が戻る頃になると、ハチは塀を飛び越えて駅へ向かった。パーカーが駅に着くと、ハチは駅の外で待っていた。パーカーはケンに、ボール を投げてもハチが取って来ないことを告げた。するとケンは、「秋田犬は人を喜ばせることに興味が無い」と告げた。
後日、またハチが駅へ付いて来ようとしたので、パーカーは連れて行くことにした。駅に到着したパーカーが真っ直ぐ家へ帰るよう指示 すると、ハチは素直に従った。そして夕方になると、再び駅に来てパーカーの到着を待ち受けた。こうしてハチは、パーカーの出勤に同行 し、夕方には駅で帰りを待つのが日課となった。やがてアンディーは恋人マイケルと結婚し、そして妊娠した。
ある日、パーカーが出掛けようとすると、なぜかハチは付いて行こうとしない。パーカーが一人で駅へ向かうと、ハチはボールをくわえて 追い掛けてきた。パーカーがボールを投げると、ハチは拾ってきた。それは初めてのことだった。パーカーが駅舎に入ろうとすると、ハチ は何か言いたそうに吠えた。ハチに別れを告げて大学に到着し、授業をしていたパーカーは、急に倒れてしまった。
夕方、いつものようにハチは駅でパーカーの帰りを待った。だが、いつまで待ってもパーカーは戻らなかった。パーカーは息を引き取って いたのである。夜遅くになって、マイケルがハチを迎えに来た。パーカーの葬儀を済ませたケイトは、家を売って別の街へ引っ越すことに した。ハチはアンディーとマイケル夫婦が引き取ることになった。夫婦の間には、息子ロニーが誕生していた。
ハチはアンディーの家を抜け出してベッドリッジへ戻り、駅でパーカーの帰りを待った。アンディーとマイケルが車で現れ、ハチに首輪を 付けて連れ戻した。だが、外に出たそうなハチを見たアンディーは、「貴方と一緒にいたいけど、行きたいなら、もう仕方が無いわ」と 言い、柵を開けた。ハチはベッドリッジに戻り、夕方になると駅に現れてパーカーを待つようになった…。

監督はラッセ・ハルストレム、原案は新藤兼人、脚本はスティーヴン・P・リンゼイ、製作はヴィッキー・シゲクニ・ウォン&ビル・ ジョンソン&リチャード・ギア、共同製作はディーン・シュナイダー、製作総指揮はジム・セイベル&ポール・メイソン&ジェフ・ アッバリー&ジュリア・ブラックマン、共同製作総指揮はトム・ルース、撮影はロン・フォーチュネイト、編集はクリスティーナ・ ボーデン、美術はチャド・デットウィラー、衣装はデボラ・ニューホール、音楽はジャン・A・P・カズマレック、音楽監修はリズ・ ギャラチャー。
出演はリチャード・ギア、ジョーン・アレン、ジェイソン・アレクサンダー、サラ・ローマー、ケイリー=ヒロユキ・タガワ、エリック・ アヴァリ、ロビー・コリアー・サブレット、ダヴェニア・マクファデン、 ケヴィン・デコステ、ロバート・デグナン、トーラ・ハルストロム、ドナ・ソルベロ、フランク・アーロンソン、トロイ・ドハーティー、 イアン・シャーマン、ティモシー・クロウ、デネス・ライランド、ブレイク・フリードマン、ベイツ・ワイルダー他。


神山征二郎が監督した1987年の日本映画『ハチ公物語』(原作&脚本は新藤兼人)をアメリカでリメイクした作品。
パーカーをリチャード ・ギア、ケイトをジョーン・アレン、カールをジェイソン・アレクサンダー、アンディーをサラ・ローマー、ケンをケイリー=ヒロユキ・ タガワが演じている。
監督は『サイダーハウス・ルール』『シッピング・ニュース』のラッセ・ハルストレム。

冒頭、日本の寺からハチがアメリカへ送られていくシーンで、もう苦笑してしまう。
なぜ日本の寺で飼われていた秋田犬が、わざわざアメリカへ送られたのか。
最後まで本当に飼うはずだった飼い主が現れないので、どんな人物なのか、どういう経緯で日本の犬がアメリカへ送られることになった のか、その説明は何も無い。
そして、ただ「無理があるなあ」という感想だけが残される。

そもそも、「日本から秋田犬がアメリカへ送られた」という設定の必要性を、まるで感じない。
どうしても秋田犬を使いたくて、だから日本から送られたことにしたのだろうか。
しかし、どうしても秋田犬でなければいけないという必要性も感じないのよね。
シェパードであろうが、コリーであろうが、ボクサーであろうが、犬の種類はそんなに大きな意味を持っていないと思うんだが。

「名前がハチだから、日本の犬じゃないとマズい」というわけでもない。
日本人の同僚に貰ったとか、日本と関連のある出来事を受けて名前を付けたとか、そんなのは、どうにでもなることだ。
っていうか、名前がハチでなきゃいけないわけでもない。
それは、こだわりを持つ部分が違うと思う。
『ハチ公物語』や日本に対するリスペクトが強すぎて、それがマイナスに作用したのだろうか。

そもそも私は、『ハチ公物語』は出来映えのよろしくない映画だと思っている(っていうか、基本的に動物映画ってのは出来映えが悪く なるジャンルだと思っているのだが)。
そんな『ハチ公物語』を大幅に改変することなく、かなり忠実にリメイクしているのだから、それが面白くなろうはずがない。
おまけに、手を加えた部分が、ことごとく改悪になっているという始末だ。

パーカーがハチと楽しそうにしている様子を見て、ケイトは家で飼うことを受け入れる。
だが、それまでの彼女の態度は、「前に飼っていたルークが死んで、それを引きずっているから新しい犬を飼うことを敬遠する」と いうのではなく、単純に「犬が大嫌いだから反対している」という風にしか見えない。
だから、彼女がハチを飼うことを受け入れる展開にも、違和感が否めない。

パーカーが大学で死ぬ日の朝、ハチは駅へ付いて行こうとせず、ボールをくわえて追い掛け、投げられたボールを初めて拾う。そして、 駅舎へ入ろうとするパーカーに、何か言いたそうに吠える。
それは「不吉な予感がした」もしくは「パーカーの死を予知した」という表現なのだろうが、大いに違和感を覚える。
それよりも、大学でパーカーが倒れた時、ハチが普段と違う行動を取り、「飼い主の死を感じた」という演出にする方がいいような気が するが。
その辺りは、日本人とアメリカ人の感性の違いもあるのかなあ。

本来なら、パーカーが死んだ後からが物語の佳境なんだけど、彼が死んでしまうと、そこから一気に話がつまらなくなる。
パーカーっていうよりも、リチャード・ギアの存在感が作り出していた雰囲気が消えるのが痛い。
それと、ハチの視点が何度も挿入されており、そこでは映像がモノクロになるのだが、これが何の効果も発揮していない。
むしろ、不必要に寂しげな雰囲気を醸し出したり、不安を煽ったりするだけで、ハッキリ言って邪魔だ。

パーカーと家族&マイケルとの関係描写は、ハチが全く関わらないところで描かれる。
ハチがいなくても、その関係描写は成立するものになっている。
それもあってか、家族の印象は薄い。
そして存在感をアピールする時は、マイナスの印象ばかりだ。
ケイトがハチを娘夫婦に任せるのは、パーカーが死んだショックが大きいってことなんだろうけど、ハチを手放すことに対して何の感情も 示していないんだよね。
だから、とても冷たく見えてしまう。

アンディーが柵を開けてハチを逃がすのも、犬の世話を放棄しているように感じられる。
「ハチが駅でパーカーを待つことが彼にとっての幸せなんだ」と製作サイドは表現したいのかもしれんが、賛同しかねる。
『ハチ公物語』だと、ハチは植木屋の菊さんが引き取り、その家から駅に通っている。菊さんが急死して妻のお吉が家を出たため、仕方 なく野良犬になっている。
つまり、「野良犬にすることがハチにとって幸せだ」という風な、珍妙な描写はやっていない。

しかも、アンディーはハチを放した後、一度もベッドリッジ駅へ様子を見に来ていない。
やっぱり、見捨てたとしか思えない。
それとケイトは10年後に街へ戻り、初めてハチがパーカーを待ち続けている事実を知るが、それまでアンディーから何も聞いていないのか よ。
10年間、この親子は連絡を取り合っていなかったのか。あるいはケイトがアンディーの家を訪れて、ハチが見当たらないことを気にする ようなことは無かったのか。

ハチが死んだパーカーを待つようになってから1年が経過した頃、地元新聞のテディー・バーンズが噂を聞き付けて取材に来る。
だが、彼か取材して記事になるという展開は、何の意味も無いものになっている。
記事になったことで物語に新たな展開が訪れるのか、ハチを取り巻く状況に何か変化が訪れるのかというと、特に何も無いのだ。
せいぜいケンが会いに来る程度だし、それは大した意味の無い出来事だ。
だったら、記事になる展開なんて要らないだろう。

一つだけ、『ハチ公物語』よりも優れている箇所がある。
それは、ハチを預かっている間(飼うことが決定するまでの間)、パーカーが彼と触れ合う様子が、丁寧に描かれていることだ。
それによって、パーカーに情が沸き、飼いたくなってくるという心情が良く伝わるし、ハチがパーカーに懐いて駅への送り迎えをする ようになる展開も、自然に受け入れられる。
序盤での飼い主とハチの触れ合いの描写は、『ハチ公物語』よりも本作品の方が上手く描かれている。

(観賞日:2010年8月17日)

 

*ポンコツ映画愛護協会