『フランケンシュタイン』:1994、イギリス&アメリカ&日本
1794年、ロバート・ウォルトン隊長が率いる探検隊は、北極点を目指していた。氷によって行く手を阻まれていた探検隊の前に、ヴィクター・フランケンシュタインという男が姿を現した。ヴィクターは、これまでの経緯をウォルトンに話し始める。
スイスのジュネーブで暮らしていたヴィクターは、青年時代に母を亡くした。彼は1793年にドイツのインゴルシュタット大学に進学し、密かに生命操作の実験を行っているウォルドマン教授と出会った。ヴィクターはウォルドマン教授に協力を申し出る。
だが、ウォルドマン教授は天然痘の血清注射を拒んだ男に刺し殺されてしまう。ヴィクターはウォルドマン教授の残した研究資料を読み、死体の臓器を集める。そして彼は実験装置に電流を流し、ついに人造人間を生み出すことに成功した。
だが、ヴィクターが生み出した人造人間は、あまりに醜い怪物だった。ヴィクターは怪物が死んだと思い込み、ジュネーブに戻ってエリザベスと結婚することを決める。だが、怪物は死んでおらず、ヴィクターの日記を読んで彼に対する復讐心を抱く。
怪物はジュネーブに向かい、ヴィクターの幼い弟ウィリーを殺害する。さらに怪物の策略によって、ヴィクターの幼馴染みジャスティンが殺人犯として絞首刑にされる。怪物はヴィクターを呼び出し、自分のために花嫁を作り出すよう脅迫する…。監督はケネス・ブラナー、原作はメアリー・シェリー、脚本はフランク・ダラボン&ステフ・レディ、製作はフランシス・フォード・コッポラ&ジェームズ・V・ハート&ジョン・ヴェイチ、共同製作はケネス・ブラナー&デヴィッド・パーフィット、製作協力はデヴィッド・バロン&ロバート・デ・ニーロ&ジェフ・クリーマン、製作総指揮はフレッド・フックス、撮影はロジャー・プラット、編集はアンドリュー・マーカス、美術はティム・ハーヴェイ、衣装はジェームズ・アチソン、音楽はパトリック・ドイル。
出演はロバート・デ・ニーロ、ケネス・ブラナー、トム・ハルス、ヘレナ・ボナム・カーター、アイダン・クイン、イアン・ホルム、リチャード・ブライアーズ、ジョン・クリース、ロバート・ハーディ、シェリー・ルンギ、セリア・イムリー、トレヴィン・マクドウェル、ジェラード・ホラン、マーク・ハッドフィールド、ジョアンナ・ロス、サーシャ・ハナウ、ジョセフ・イングランド、アルフレッド・ベル他。
メアリー・シェリーの怪奇小説を映画化した作品。
怪物をロバート・デ・ニーロ、ヴィクターをケネス・ブラナー、ヴィクターの友人ヘンリーをトム・ハルス、エリザベスをヘレナ・ボナム・カーター、ウォルドマンをジョン・クリースが演じている。この映画は、大いなるチャレンジ・スピリットを持った作品だ。
ここには、いかにして観客の頭に染み付いている固定観念を打ち破るかという挑戦がある。
その強い心意気が、この作品を今までのフランケンシュタイン映画とは全く違ったものにしている。多くの人々がフランケンシュタインの映画と言われて思い浮かべるのは、1931年のジェームズ・ホエール監督作品でボリス・カーロフが演じた怪物の姿であろう。その映画を見たことが無い人でも、おそらく怪物の姿だけはイメージできると思う。
もはやボリス・カーロフ版の怪物は、スタンダードになっている。
サンタクロースがコカ・コーラ社の広告によって赤い服に白いヒゲのイメージを確立したように、怪物はボリス・カーロフ版によって完全にイメージが確立されている。
そんな揺るぎ無いイメージを人々に植え付けた1931年の作品に、この映画は真っ向から完全と立ち向かった。
「どれだけ1931年版とは違った映画を作り出せるか」ということを製作サイドは強く意識し、そして今作品を送り出したに違いない。最初に登場するウォルトンは単なる物語の聞き手に過ぎないのだから、冷酷なキャラクター設定や隊員を酷使する様子などを描写する必要は無いと思われるかもしれない。
だが、それは最初から固定観念とは違う展開を見せようとする心意気の現れだ。ヴィクターが大学に入る前、彼がエリザベスや幼馴染みのジャスティンと楽しそうに静電気の実験をする様子が描かれる。
研究に没頭するようになるのは大学に入ってからなので、それまでの場面ではエリザベスとの関係と母の死を描くだけでいいと思うかもしれない。
だが、無駄に思える場面も、固定観念との違いを強調するためには必要だ。怪物の悲劇を描きたいのなら、怪物が生み出されるまでの前半部分はもう少し削っても良かったと思われるかもしれない。
だが、それだと1931年版と似た内容になってしまう。
怪物登場までの長い道のりも、固定観念との違いを強調するためには必要だ。ケネス・ブラナーのクドイぐらいに舞台チックで仰々しい芝居も、妙に上半身裸になりたがることも、これでもかと言わんばかりに動きまくるカメラワークも、やたら盛り上がるラブシーンも、全ては固定観念との違いを強調するための心意気なのだ。
そして、最も意気込みの強さが色濃く出ているのは、やはり怪物の造形だろう。
この映画で登場する怪物は縫い目だらけで醜悪ではあるが、怪物というよりも醜い人間という感じだ。
というより、醜いメイクをしたロバート・デ・ニーロ以外の何者でもない。外見以上に、中身はもっと人間っぽい。
かなり言葉を話す場面は多いし、終盤には納屋で眠り込んだジャスティンの近くにウィリーのペンダントを置いて犯人に仕立て上げるという、ズル賢い部分を見せる。
怪物というより、狡猾な悪党である。
人造人間が怪物ではなく生身の人間に見えるため、おそらく本来は描きたかったであろう“望まれずに生み落とされた怪物の悲哀”というテーマが薄れる形になっている。
しかし、いかに固定観念を払拭するかということの方が、テーマよりも遥かに重要なのだ。
だから、結果的にテーマの表現が薄くなろうとも、別に構わないのだ。おそらく今作品はホラーというよりも、悲劇として作られているのだろう。
後半、田舎に逃亡した怪物が、人間に対して親切にしたのに見た目の醜さから恐れられるエピソードに時間を費やす辺りからしても、悲劇性を見せようとしていることが覗える。
終盤に入ると怪物がウィリーを殺し、策略によってジャスティンが絞首刑となるが、それも怪物による恐怖の惨劇ではなく、ヴィクターが直面する悲劇である。
ただし、終盤は怪物が完全に残虐な復讐鬼になるので、もはや“怪物の悲劇”は消え失せている。最後になって、怪物はヴィクターを「自分を生んでくれた父」として意識し、その死を悲しむ。
だが、その直前までにヴィクターの周囲の人々を殺しまくっているので、今さら悲劇の主人公を気取っても遅いと思ってしまう。
それでも、怪物がヴィクターを父として受け入れることで、1931年版との違いを最後まで強調しているのであろう。