『フットルース』:1984、アメリカ

アメリカ中西部の小さな田舎町ボーモント。シカゴに住んでいた高校生レンは、母と共に引っ越してきた。町の教会では、ムーア牧師がロック・ミュージックの俗悪さについて訴えている。彼はロックが若者を堕落させる音楽だと考え、忌み嫌っていた。
町の高校に通い始めたレンは、すぐに同級生ウィラードと親しくなる。レンはウィラードから、町では数年前からダンスが禁止されていることを聞かされる。ボーモントは、カート・ヴォネガットの小説が有害な図書とされるほど保守的な町だった。
レンはボスを気取っている同級生チャックに目を付けられるが、トラクターのチキンレースで勝利を収める。チャックと付き合っていたムーア牧師の娘エリエルは、レンに興味を抱く。エリエルからアプローチされたレンは、やがて彼女と付き合うようになる。
ムーア牧師はレンを札付きのワルだと決め付け、エリエルに2度と会わないように告げる。レンは町の閉鎖的な雰囲気を変えようと、ダンス・パーティーを企画する。だが、町の人々の嫌がらせを受けるようになり、母は仕事をクビにされてしまう。レンは仲間の応援を受け、町の集会でダンス禁止令の撤廃を求める動議を提案する…。

監督はハーバート・ロス、脚本はディーン・ピッチフォード、製作はルイス・J・ラックミル&クレイグ・ゼイダン、製作総指揮はダニエル・メルニック、撮影はリック・ウェイト、編集はポール・ハーシュ、美術はロン・ホッブス、衣装はグロリア・グレシャム、振付はリン・テイラー=コーベット、音楽監修はベッキー・シャーゴ、スコア・アダプテーションはマイルズ・グッドマン。
主演はケヴィン・ベーコン、共演はロリ・シンガー、ダイアン・ウィースト、ジョン・リスゴー、フランシス・リー・マッケイン、クリストファー・ペン、エリザベス・ゴーシー、サラ・ジェシカ・パーカー、ジム・ヤングス、ダグラス・ダークソン、リン・マータ、アーサー・ローゼンバーグ、ティモシー・スコット、ジョン・ラフリン、アラン・ハウフレクト他。


いわゆるサントラ映画の1つ。シナリオを書いたディーン・ピッチフォードの本業は作詞家で、これが初脚本。レンをケヴィン・ベーコン、エリエルをロリ・シンガー、エリエルの母をダイアン・ウィースト、ムーア牧師をジョン・リスゴー、レンの母をフランシス・リー・マッケイン、ウィラードをクリス・ペン(クリストファー・ペン名義)が演じている。

基本的に、ストーリーにもキャラクターにも何の意味も無いと考えても構わない。
まずサントラがあって、それをサントラとして成立させるためには映画が必要であり、映画を成立させるためにはストーリーやキャラクターが必要になる、というだけのことだ。
音楽を流すために、映像は存在している。どういう状況で、どういう場所で曲を流せばいいかという考えに基づいて、各シーンは形成されている。ケニー・ロギンスの『フットルース』やボニー・タイラーの『ヒーロー』、ムーヴィング・ピクチャーズの『ネヴァー』など、流れてくる音楽を聞かせるためだけに、映像は存在しているのだ。

ストーリーには何の意味も無いと前述したが、簡単に言えば、都会の人間が田舎者に遊びの素晴らしさ(実際に素晴らしいかどうかは問題ではない)を教える話だ。都会は進歩的で素晴らしく、田舎は保守的なのでダメだという、非常に分かりやすい図式である。
若者がマドンナもポリスも知らず、音楽を車で聞いていただけで警官に脅されるという、恐ろしく現実離れしたような舞台設定だ。ひょっとすると、そういう町が1980年代には実在したのかもしれないが、リアルだとは感じない。
だが、例えば『ストリート・オブ・ファイヤー』のように、ファンタジーの世界として描かれているわけではない。
どうやら、マジである。

序盤、エリエルが2つの車にまたがるようにして乗り、向こうから走ってきたトラックにぶつかりそうになるというシーンがある。この女、走ってくる列車の前に立ち塞がるというシーンもあるが、どうやら死にたいらしい。
で、どちらのシーンでも、「いっそ、そのまま死んでくれ」と思ってしまう。
そんな好感度の低いヒロイン、そうはいないだろう。
若者達は、当たり前のように酒を飲み、当たり前のようにタバコを吸う。それだけでキャラとして全否定するほど私は堅物ではないが、彼らは自由を勝ち取るためにダンスを象徴として立ち上がるというより、ただ遊び歩いているだけの甘ちゃんにしか見えない。
なので、彼らの行動には全く共感できない。

むしろ、息子の事故死で凝り固まった考えになってしまったムーア牧師に共感を抱き、彼と妻をメインにした物語にした方が良かったのではないかとさえ思ってしまう。
しかし、そんなマトモな映画のような考え方をしても、マトモな映画ではないので無意味だ。

 

*ポンコツ映画愛護協会