『フローレス』:1999、アメリカ

ニューヨーク。元警官で独身の中年男ウォルトは、ローワーイーストサイドのアパートに1人で暮らしている。かつて強盗事件で手柄を 立てた彼は、元同僚のトミー達から今でもヒーロー扱いされている。行き付けのダンス・クラブでは娼婦のティアがアプローチしてくるが 、ウォルトは全く相手にせず、ダンサーのカレンと踊ってばかりだ。カレンとは肉体関係もあり、家賃に困っていると言われれば金も 出してやる。
ウォルトは共和党びいきの保守的な男で、アパートの斜め向かいに住むドラッグクイーンのラスティーを嫌っている。そのラスティーは友人の 娼婦アンバーに頼まれ、マフィアのボス、ミスター・ゼットの金を奪ったレイモンドを自分の部屋に匿ってやった。ラスティーがゲイ・ クラブで舞台に立っている頃、アパートの部屋には管理人レナードの密告によってゼットの手下たちが駆け付けていた。彼らはアンバーと レイモンドに金を返せと要求し、逃げようとした2人を射殺した。だが、肝心の金は見つからなかった。
銃声を聞き付けたウォルトは、ラスティーの部屋に駆け付けようとした。だが、階段で急に倒れ、病院に運ばれる。脳卒中と診断された彼は 、右半身に麻痺が残り、言葉も上手く話せなくなった。リハビリ指導員はウォルトに、歌がリハビリにいいと告げた。ウォルトはラスティー の元を訪れ、歌の指導を頼んだ。一度は断ったラスティーだが、すぐに依頼を引き受けた。しかし、すぐにウォルトが諦めようとしたため、 2人は言い争いになる。ラスティーは思い直させるため、ウォルトの部屋に押し掛けた。
再びレッスンを受け始めたウォルトは、ラスティーがソニーという恋人に暴力を振るわれ、金を渡していることを知る。一方、ウォルトは ラスティーに、妻が全てを持って他の男と駆け落ちしたことを語った。ウォルトはカレンに電話を掛け、会いたいと告げた。だが、ウォルト に金が無いと分かると、カレンは会おうとしなかった。
ラスティーは急に母が亡くなり、葬儀に出向いた。帰宅したラスティーの元に、心配したウォルトが現れた。ラスティーはウォルトに、ずっと 母が偏屈な父の犠牲者だったことを語った。それからラスティーは、性転換手術のために金を貯めていることも話した。ミスター・ゼットは 、レイモンドが持ち去った金を、アパートの住人の誰かが隠し持っていると確信していた。ゼットはレナードを母親への暴力的行為で脅し 、金を見つけ出すよう命じた。そんな中、ラスティーはウォルトに、あの金は自分が持っていると打ち明けた…。

監督&脚本はジョエル・シューマッカー、製作はジェーン・ローゼンタール&ジョエル・シューマッカー、共同製作はキャロライン・ バロン&エイミー・セイレス、製作総指揮はニール・マクリス、撮影はデクラン・クイン、編集はマーク・スティーヴンス、美術はジャン ・ロールフス、衣装はダニエル・オルランディー、音楽はブルース・ロバーツ。
出演はロバート・デ・ニーロ、フィリップ・シーモア・ホフマン、バリー・ミラー、クリス・バウアー、スキップ・サダス、ウィルソン・ ジェレマイン・ヘレディア、ナショム・ベンジャミン、スコット・アレン・クーパー、ローリー・コクラン、ダフネ・ルービン=ヴェガ、 ヴィンセント・ラレスカ、カリーナ・アロヤーヴ、ジョン・イーノス三世、ジュード・チコレッラ、ミーナ・バーン他。


ジョエル・シューマッカーが『セント・エルモス・ファイアー』以来、14年ぶりに自らの脚本を演出した作品。
ウォルトをロバート・デ・ニーロ、ラスティーをフィリップ・シーモア・ホフマン、レナードをバリー・ミラー、ティアをダフネ・ ルービン=ヴェガが演じている。

ウォルトは元警官、共和党支持で保守的。
ラスティーはドラッグ・クイーン、民主党支持でリベラル。
対比を考えれば、ウォルトは社交性に欠けており、意固地な性格ゆえ友人も少なく、周囲からは嫌われているという設定にしておくのが 分かりやすい。
そうすれば、ラスティーと友情を育む中で次第に優しさを見せるようになり、例えば1人の人物と会うと必ず仏頂面だったのが挨拶したり 感謝の言葉を述べたりするようになるとか、そういう“ラスティーの影響による変化”というものが見えやすくなるのだ。

しかしながら、ウォルトは最初から行き付けのダンス・クラブがあり、自らダンスを始めるという社交性を見せる。カレンに対する優しさ も見せている。元警官の友人たちもいる。
だから彼の意固地な部分というのは、ラスティーに対してしか発揮されていない。
ラスティーだけではなく、他の面々に対しても、偉そうに威張り散らす頑固野郎にしておいた方が、望ましいのではないか。そうして おいて、「保守的なウォルトが、最も嫌うタイプであるラスティーとの交流によって変化していく」というのが分かりやすいパターンだ。
仲間との交流があるのなら、その友情の絆で立ち直ればいいわけだし。

ウォルトが意固地な人間なのかと思ったら、逆に非常に素直な男なのだ。
まずリハビリ指導員の言うことは素直に聞くし、すぐにラスティーの部屋を訪れてレッスンを依頼する。断られた後に悪態はつくが、歌の レッスンは素直に受けている。でも、後で「ゲイに救ってもらおうとは思わない」と言ったりする。
なんか中途半端に思えるのだ。
ラスティーはウォルトを「部屋に閉じ篭もって人生に背中を向けている人」と称するが、それは脳卒中で倒れた後のことだ。
しかし、彼が脳卒中で倒れてからリハビリ開始まで、それほど描写の時間があるわけではない。
だから、そのことが見えにくいのだ。

ウォルトの毎日は孤独で、一方のラスティーは賑やかで友人も多くて陽気な雰囲気という対比を見せておき、人生に後ろ向きだった ウォルトが、前向きなラスティーと出会って変わっていくという流れにするのが、分かりやすいパターンだろう。
しかし、そこまで双方のキャラは徹底されていない。むしろ、ラスティーの方も暗くて淋しい雰囲気に包まれている。
終盤にパーティーが開かれるシーンがあるが、ああいう陽気さ、賑やかさが前半からラスティーの周囲にあれば、随分と楽になったと 思う。
たまにドラッグ・クイーンが登場するが、ラスティーの周囲に陽気さをもたらす効果は薄いし。
哀しみと孤独を抱えた2人が、傷を舐め合うような物語を描きたかったのかもしれない。つまり、ウォルトだけが変わるのではなく、両方 の変化を描こうとしたのかもしれない。
しかし、結果的には「二兎を追う者は一兎をも得ず」になっているような気がする。

「最初は反目していた2人が、次第に友情の絆を深め合っていく」という展開になるのかと思ったら、意外に早い段階で反目は消えて いる。最初に威張り散らしたりラスティーの助けを拒絶していたウォルトだが、リハビリが始まると素直なものだ。
ウォルトとラスティーの付き合いに批判的な動きがあれば、その分だけ友情の深まりを示しやすくなっていたかもしれない。
だが、ウォルトの元同僚で1人だけゲイとの付き合いを皮肉る奴がいるものの、そんなに扱いは大きくない。
そういうことも影響しているのか、2人の友情の絆が次第に深まって行く流れを、あまり感じられなかった。

後半に入り、最初にチラッと出ていたティアが再登場する。
ウォルトにとって、ラスティーよりティアの方が救いになっているように見える。
ラスティーも、ウォルトによって変化したようには見えない。
結局、ウォルトのリハビリが終わったというだけかもしれない。

ゼットの手下たちが「金を隠しているのではないか」と怪しんで複数の面々に暴力を振るうというサブストーリーがあるが、それが ウォルト&ラスティーの物語に密接に絡むのは終盤だけ。
それまでは、ただ映画に殺伐とした雰囲気を持ち込むという効果をもたらすだけだ。
しかし、そんな効果が果たして必要だったのかどうかも疑問が残る。
そもそも、ゼット一味の動きが、特に終盤に入ると邪魔に見えてくるのだ。
終盤にはアクションシーンが用意されているのだが、何となく違和感がある。
隠した金の問題は処理すべきだろうが、最後はバイオレンスを絡ませずに何とか出来なかっただろうか。

(観賞日:2004年11月2日)


第22回スティンカーズ最悪映画賞

ノミネート:【最悪の演出センス】部門[ジョエル・シューマッカー]
<*『8mm』『フローレス』の2作でのノミネート>

 

*ポンコツ映画愛護協会