『ファイナル・デッドブリッジ』:2011、アメリカ&カナダ&香港&シンガポール

製紙会社で働くサム・ロートンは、同僚たちと研修旅行に参加する。彼は営業職に就いているが、料理人としてレストランでも働いている。レストランではパリに派遣する人間を求めていたが、サムは行くかどうか迷っている。旅行に出発する直前、サムは同僚で恋人のモリー・ハーパーから別れを告げられる。旅行の顔触れは2人の他、部長のデニス・ラップマン、サムの友人ピーター・フリードキン、ピーターと交際している実習生のキャンディス・フーパー、工場作業員のロイとトラブルになったネイサン・シアーズ、モリーに軽いノリで言い寄るアイザック・パーマー、そしてオリヴィア・キャッスルといった面々だ。
ツアーの一行を乗せたバスが巨大吊り橋に差し掛かった時、サムは恐ろしい夢を見た。それは吊り橋が崩落し、キャンディス、アイザック、オリヴィア、ネイサン、デニス、ピーター、そしてサムが次々に死亡する内容だった。サムが目を覚ますと、夢に出て来たのと同じ予兆が次々に起きる。彼は「みんな降りろ。橋が落ちて全員が死ぬ」と叫び、モリーを連れてバスを降りた。信じる者はいなかったが、前述の面々は後に続いた。実際に橋は崩落するが、バスを降りた8人だけが助かった。
FBI捜査官のジム・ブロックから事情聴取を受けたサムは、予知夢を見たと説明する。しかし当然のことながらブロックは信じようとせず、サムによるテロではないかと疑った。現場検証で橋の強度に原因があったことが判明したため、サムは解放された。しかしジムはサムへの疑念を持ち続け、「また会うことになりそうだ」と告げた。死んだ社員の合同追悼式に出席した帰り、サムは検死官のウィリアム・ブラッドワースから「君たちには死が待ち受けている」と警告された。
日常生活に戻ったサムはレストランで働き、モリーと復縁しようとする。モリーはサムのパリ行きを考えて別れを告げたことを明かし、夢を追い掛けるべきだと勧めた。大学の体操選手であるキャンディスは、練習中の事故で死亡した。練習を見学していたピーターは、連絡を受けて駆け付けたサムの前で悲嘆に暮れた。アイザックは同僚の机からチケットを盗み、マッサージ店を訪れた。鍼治療中に火災が発生し、アイザックは棚から落ちた仏像に頭を潰されて死んだ。
連絡を受けてマッサージ店へ赴いたサムやモリーたちは、ブラッドワースを目撃する。「何が起きているんだ」とサムが訊くと、「同じことが繰り返されている。死を免れた者は順番に死んでいき、あらかじめ定められた結果となる。君たちは橋で死ぬべきだったんだ。用意されていた死の席には、別の誰かが座った」とブラッドワースは語った。ピーターが「俺たちにもキャンディスやアイザックと同じ運命が待ち受けている」と口にすると、サムは「モリーは違う。俺の夢で彼女は生き残った」と告げた。
オリヴィアは眼科で視力回復のレーザー手術を受けている最中、誤作動によって右目を失った。サムとモリーが病院に駆け付けるが、彼女は窓から転落死した。サムは予知夢を思い出し、次に死ぬのがネイサンだと気付く。そのネイサンはロイと口論になり、誤って死なせてしまった。現場に来たサム、モリー、ピーターは、ネイサンがロイを死なせたことで順番を免れたと理解する。そこへ姿を見せたデニスは、飛んで来たスパナに頭を撃ち抜かれて死んだ…。

監督はスティーヴン・クエイル、キャラクター創作はジェフリー・レディック、脚本はエリック・ハイセラー、製作はクレイグ・ペリー&ウォーレン・ザイド、共同製作はジョン・リッカード、製作総指揮はリチャード・ブレナー&ウォルター・ハマダ&デイヴ・ノイスタッター&エリック・ホルンバーグ&シーラ・ハナハン・テイラー、製作協力はジェイソン・コフィーマン、撮影はブライアン・ピアソン、美術はデヴィッド・R・サンドファー、編集はエリック・シアーズ、衣装はジョリー・ウッドマン、視覚効果監修はアリエル・エヴェラスコ・ショー、音楽はブライアン・タイラー。
出演はニコラス・ダゴスト、エマ・ベル、トニー・トッド、デヴィッド・ケックナー、マイルズ・フィッシャー、コートニー・B・ヴァンス、アーレン・エスカーペタ、P・J・バーン、エレン・ロー、ジャクリーン・マッキネス・ウッド、ブレント・スタイト、ロマン・ポドーラ、ジャスミン・ドリング、バークレイ・ホープ、チャスティー・バレステロス、マイク・ドプド、タニア・ハバード、フランク・トポル、ティム・フェリンガム、ブレイン・アンダーソン、ドーン・チュバイ、ライアン・ヘスプ他。


“ファイナル・デスティネーション”シリーズの第5作。
監督は『エイリアンズ・オブ・ザ・ディープ』のスティーヴン・クエイル、脚本はリメイク版『エルム街の悪夢』のエリック・ハイセラー。
サムをニコラス・ダゴスト、モリーをエマ・ベル、ブラッドワースをトニー・トッド、デニスをデヴィッド・ケックナー、ピーターをマイルズ・フィッシャー、ブロックをコートニー・B・ヴァンス、ネイサンをアーレン・エスカーペタ、アイザックをP・J・バーン、キャンディスをエレン・ロー、オリヴィアをジャクリーン・マッキネス・ウッドが演じている。
ブラッドワース役のトニー・トッドが登場するのは、シリーズ2作目以来となる。

「あらかじめ定められた死の連鎖が襲い掛かる」というアイデア一発勝負だった1作目がヒットしたもんだから、それを受けてシリーズ化されることになった。
しかし1作目の段階で、「色んな死に様」しか楽しみ方を見出すことが出来ない内容になっていた。誰が死ぬのかも、どういう順番死ぬのかも、ほぼ分かっているからだ。
そして2作目の段階で、既にマンネリズムが生じていた。
そんなマンネリズムから脱却することは出来ず(っていうか脱却する気も乏しい)、これまでの4作は、やっていることが基本的に同じだった。

もちろんシリーズ作品だから、パターンを踏襲することは必要だ。
ただ、このシリーズの場合、ホントに「ほぼ同じことの繰り返し」でしかない。「色んな死に様を順番に並べる」というだけの映画であり、物語やドラマ性に魅力を見出せるわけではないからだ。
予知夢による大規模な事故があり、主人公と数名が避難して助かる。予知夢で死んでいた人が犠牲になり、死の連鎖を知った主人公は阻止しようとするが、予知の順番に従って次々に人が死ぬ。そして最終的には、主人公も命を落とす。
このパッケージに基づいて、死に様コレクションを観賞するだけのシリーズなのだ。

「マンネリズム」と前述したが、一応は何かしらの変化を付けようという意識もゼロではない。
しかし、それは「ほんの少しの変化」であり、マンネリズムを解消できる力は持っていない。
2作目の監督&脚本家コンビが再登板した前作では、「その手順で死ぬと見せ掛けて肩透かしを食らわせる」という変化を付けるような箇所もあった。
ただし、それが映画の面白さに繋がることは無かった。意外性はゼロではなかったものの、歓迎できる意外性とは言えなかった。

この映画は、犠牲者が「死のピタゴラスイッチ」に見舞われるのがパターンとなっている。
「ビルから落ちて死ぬ」とか「ナイフが突き刺さって死ぬ」といったシンプルな形ではなく、「小さなトラブルが別のトラブルに繋がって、それが他の部分に作用して、事故に遭って死亡する」という風に、犠牲者が直接的なダメージを受ける前に幾つもの手順を経ているってことだ。そういう死のピタゴラスイッチを幾つも配置して、それを繋げることで映画としての体裁を整えているようなモノだ。
しかし前作の批評で、私は「あらかじめ定められた死の連鎖が襲いかかる」「死のピタゴラスイッチが次々に描かれる」というネタに飽きてしまったと書いた。
そういうパッケージの中で変化を加えたところで、結局は「同じことの繰り返し」「前作までの焼き直し」という印象を拭えないわけで。
だからと言って、大幅に構成を変えるとシリーズとしての意味は無くなってしまうので、これ以上の続行は難しいのではないかと考えていた。

で、このシリーズ5作目だが、やはり「歓迎できないマンネリズム」が持続しており、もう飽きてしまったパターンが使われている。
「死のピタゴラスイッチ」の部分では、変化を付けようという意識が1人目の犠牲者から見られる。
ただし、それはザックリ言ってしまうと、前作と同じ「肩透かし」という方法だ。
「平均台にネジが落ちるけど、キャンディスは気付かないまま踏まずに着地する」「コードに水が漏れているけど、キャンディスが気付かないままタオルで拭く」といった手順だ。

しかし、そういう肩透かしってのは前作と同様、映画の面白さに繋がる変化ではない。
しかも、ネジの方は後から「別の選手が踏んで飛び降り、粉に激突し、それが散らばって視界を失ったキャンディスが鉄棒から落下して死亡」という部分に繋がるけど、コードの方は全く無関係のままなのよね。「肩透かしと見せ掛けて、実はピタゴラスイッチに繋がる」という形を取るべきじゃないかと。
それと、鉄棒から落下したキャンディスの死に様は、「さすがに無理があるだろ」とツッコミを入れたくなるぞ。
しかも、残酷描写に該当するような映像ではあるんだけど、残酷描写としてはヌルいし、どことなく滑稽だし。

アイザックのケースは、「室内で火事が発生し、慌てたアイザックが施術台から落ちる。火が燃え広がるけど手前でストップし、安堵していたら仏像が棚から落ちて死亡する」という内容になっている。
この説明で分かると思うけど、ようするにピタゴラスイッチが機能していないのよ。
仏像が棚から落ちるのは、いきなり発生する現象なのよ。
もちろん前述したように、死のピタゴラスイッチに飽きていることは確かだけど、だからってピタゴラスイッチの部分を手抜きしても構わないってことじゃないでしょ。

オリヴィアのケースは右目を失う誤作動の時点ではピタゴラスイッチが発動しているものの、死に様は「ヌイグルミか外れた目玉に足を取られ、窓を突き破って地面に転落」という形だ。
つまりアイザックと同様、こちらも「死のピタゴラスイッチ」は使われていない。
あと、右目を失う誤作動に関しては、オリヴィアを放置して部屋を出て行った主治医に重大な過失があるわけで。
その場に彼がいれば事故は確実に防げたわけだから、それは「死神の仕業」というより「人為的ミス」という印象が強いぞ。

今回は「誰かを殺せば順番を回避できる」という新たなルールが持ち込まれているが、それが明らかになるのは終盤に入ってからのことだ。残っているメンバーは少ないし、残されている上映時間も少ない。しかも、それを知って他の人間を殺そうとするのはピーターだけだ。
だから、あまり有効に活用されているとは言い難い。
そもそも、ピーターがモリーを殺そうと動き始めると、「死の運命が人々を襲う」というプロットから完全に外れちゃうでしょ。
あらかじめ定められた死に対する恐怖を喚起すべきだろうに、恐怖の対象がピーターになってしまうのは本末転倒だわ。

ブロック捜査官が捜査している様子が何度か挿入されるが、このシリーズに置いて警察やFBIが何の役にも立たないことは言うまでもないだろう。
運命によって定められた死が犠牲者を襲うだけなので、そこに逮捕できる犯人など存在しないし、連続殺人を阻止する方法も無い。
彼らに出来ることなんて何も無いし、彼らの捜査によって観客の知らない事実が明らかになるわけでもない。
ハッキリ言ってしまうと、ブロックの動きは死に様ショーの幕間みたいなモノだ。

犠牲者となる面々には、それなりのキャラクター設定が用意されている。しかし、大まかに言っちゃえば「順番に死んでいく面々」でしかないので、キャラ設定の意味は、ほぼ皆無に等しい。
キャンディスが体操選手ってのは、「練習中に死ぬ」という状況を作るためだけの設定だ。アイザックの盗み癖は、「盗んだチケットで訪れたスパで死ぬ」という状況を作るためだけの設定だ。彼には「女好き」という設定も用意されているが、こちらは全く意味が無い。
「サムがモリーから別れを切り出され、ヨリを戻そうとしている」という設定も、ほとんど意味が無い。
ピーターがキャンディスの死で悲嘆に暮れるってのは、とりあえず「気持ちの荒れてしまった彼がモリーを殺そうとする」という展開には繋がっている。だから無意味とは言えないけど、そうなると前述したように「死神が人を殺していく」という内容からズレてしまう。

映画が3分の2を過ぎた辺りで、サムは「予知夢の順番に死んでいる」と気付く。でも、それは1作目の段階で既に分かっていることであって、今さら「主人公が法則に気付く」ってのを描かれても全く意味が無い。
で、今回の面々は今までに起きた同様の事件を知らず、調べようともしていないのだが、ラスト近くになって時系列が逆になっていることが判明する。
つまり、この話は1作目の直前に起きた出来事という設定なのだ。ラスト近くにサムとモリーが乗り込むのは、1作目のアレックスたちが搭乗を回避した飛行機だ。
そういう仕掛けが最後に用意されているんだけど、この映画の全てをリカバリーできるほどの力は無い。
とりあえず、ヌルいスプラッター映画が見たい人にオススメしておく(そんな人がいるかどうかは知らないけど)。

(観賞日:2016年1月9日)

 

*ポンコツ映画愛護協会