『BUNRAKU』:2010、アメリカ

エスカレートした戦争によって、世界は破滅を迎えた。生き残った国々はようやく、飽くなき人間の破壊志向を封じ込める必要があると悟った。あらゆる火器の所持と製造が禁止され、治安維持のために警官だけは槍を持つことが許された。しかし自己破壊欲から人類が逃れられるはずもなく、新しい世界では時の経過と共に悪が根をもたげた。その象徴が、ニコラ・ザ・ウッドカッターである。
その町はニコラに支配され、彼の率いるギャングは「キラー」と呼ばれる9人の側近と「レッド・スーツ」と呼ばれる手下で構成されていた。その夜、キラー・ナンバー2の軍団は、ヴァレンタイン率いる軍団の挑戦を受けた。その対決に勝利すれば、ニコラに代わって町を支配する道が開かれる。しかしナンバー2は手下の手を借りず、たった一人でヴァレンタインの軍団を倒した。ヴァレンタインはニコラによって始末された。
ある流れ者が、その町に列車でやって来た。同じ列車には、サムライのヨシも乗っていた。バーに入った流れ者は、バーテンダーに「友達からこの店を勧められた。ポーカーの出来る店を探してる」と告げた。客の一人が「ギャンブルは御法度だ」と言うと、流れ者は彼の顔面を殴って気絶させた。別の客も殴り倒した流れ者は、他の連中を脅して金を奪い取った。バーテンダーは彼に、『ロシアン・ルーレット』という店で金曜にポーカー大会が開かれることを教えた。ただし賭け金が法外で、命を奪われる危険もあるという。
ヨシは叔父が営む料理店を訪れた。叔父の娘であるモモコは、ヨシを見て笑顔を浮かべた。ヨシは竜の紋章を探していたが、叔父は冷淡な態度を取る。「父と違って物事の解決に暴力は使わない」と言うヨシだが、叔父は「だったら尚更、ここに来るべきではなかった」と話す。そこへレッド・スーツ3名が来て挑発的な態度を取ると、ヨシは彼らを叩きのめした。叔父は腹を立て、ヨシを追い出した。モモコは彼を追い掛け、肉市場へ行ってエディーという男を訪ねるよう助言した。
流れ者は『ロシアン・ルーレット』へ行き、入り口の用心棒2人を殴り倒して中に入った。店の奥にあるドアを見つけた彼は、受付係の男に「あそこへ行きたい」と告げる。5万ドルの現金か、代わりになる物を要求された流れ者は、「俺の命」と口にする。しかし受付係は「無価値です」と冷笑した。ヨシはレッド・スーツであるエディーの事務所を訪れ、竜の紋章を探していることを告げる。エディーと手下が襲って来たので、ヨシは全員を叩きのめした。
バーを訪れたヨシがウイスキーを注文すると、バーテンダーは高額なボトルを出した。バーテンダーは趣味で食っている飛び出す絵本を見せ、その内容を説明した。ヨシが「ニコラという男のことを知りたい」と言うと、客たちが襲い掛かって来た。しかし流れ者が入って来ると、途端に客たちはおとなしくなった。流れ者が「カジノへ行ったが、金が足りない」と話すと、バーテンダーは「こちらの紳士が情報と引き換えに出してくれるかもしれないぞ。ニコラのことを知りたいそうだ」とヨシを指差した。
ヨシが「どうしてもニコラに会いたい」と言うと、流れ者は「金を貸してくれ。2日後に利子を付けて返す。その後で知りたいことを教える」と持ち掛けた。ヨシが「虫のいい話だ」と断ると、流れ者はいきなりパンチを浴びせた。2人は戦い始めるが、その実力は互角で、なかなか決着が付かない。2人が疲れ果てて同時に倒れ込むと、それを見ていたバーテンダーは「素晴らしい」と拍手を送った。
ニコラが執着している娼婦のアレクサンドラが娼館から逃げ出したので、ナンバー2は連れ戻した。流れ者はヨシから金を借りることが出来なかったので、「俺の邪魔をしたら、ただでは済まないぞ」と警告してバーを去った。バーテンダーはヨシに、ニコラがキラーと呼ばれる9人の取り巻きを連れていること、1人が死ぬか引退すれば別の人間が穴を埋めること、ランクを上げたければキラー同士が戦うこと、全員がニコラの屋敷に住んでいることを語る。さらに彼は、レッドスーツが森にある広い集落に住んでおり、訓練場も兼ねていることを説明した。バーテンダーによると、ニコラは人前に素顔をさらさず、独特の衣装で隠しているのだという。
ナンバー2はアレクサンドラをニコラの屋敷に連行した。「世界の目が俺たちにそそがれる時、お前は娼婦ではなくなる」と言うニコラに、アレクサンドラは冷淡な表情で「それが望みなら、初めて会った時、貴方に付いて行かないわ」と告げた。ニコラは「俺はもう若くない。死んだ時のことを考える。俺とお前の10年間が何も生み出さなかったらと感じたら、俺がどうするか分かってるな」と言い、彼女の首に手を回す。アレクサンドラは動じずに「殺してみなさい。赤ちゃんも今死ぬ方が幸せだわ」と述べた。
ニコラが「何が望みだ」と声を荒らげると、アレクサンドラは「自由な女として貴方を愛したい」と告げた。「いつか俺が殺されたとしても、お前は俺の女だ」と言うニコラに、彼女は「貴方は大西洋の東で最も強い男よ。何を恐れてるの」と訊く。「その昔、決闘で男を殺した。そいつが死ぬ間際、世界にはより強い者が必ずいると言い残した。その言葉が忘れられない」とニコラは語り、アレクサンドラとキスを交わした。
ナンバー2はカジノにいた警察署長に「東洋人が俺の手下を次々に痛め付けている」と告げ、対処するよう脅しを掛けた。ヨシは逮捕に来た警官隊を蹴散らそうとするが、バーテンダーが制止した。ヨシは警察署に連行された。バーテンダーは流れ者に、ヨシが拘留されたことを教える。流れ者は警察署に突入してヨシを救い出し、バーテンダーの車で料理店へ運んだ。薬を打たれたヨシが眠っている間に、流れ者は彼の金を勝手に拝借して立ち去った。
流れ者はカジノに赴き、5万ドルを支払って奥の部屋へと足を踏み入れた。労働組合長のボリスや副市長たちがテーブルに付いており、ニコラは映像を通して自宅から代役の手下に指示を出す。ニコラはレッドスーツに他の面々のカードを盗撮させ、イカサマで勝利しようとする。しかし流れ者はイカサマにも負けず、圧倒的に勝ち続けた。流れ者はニコラに直接対決を持ち掛け、「明日の真夜中、広場で」と告げる。ニコラは流れ者に襲い掛かろうとする手下たちを制し、勝負を受けた。
流れ者は料理店へ戻り、ヨシに借りた金を返した。ヨシは流れ者に、「100年前、曾祖父はこの地で戦った。激戦の中で彼は死去し、一族の家宝である竜の紋章が消えた」と話す。2週間前、その紋章を料理店に来た組織の男が付けていたという。「ヒゲの大男よ」とモモコは言い、ヨシは「心当たりは無いか」と尋ねる。すぐに流れ者は、カジノで見たニコラが首からメダルを下げていたことを思い出す。しかし彼は「全く無い」と嘘をついた。
真夜中、流れ者は広場へ行くが、ニコラは現れなかった。ナンバー2が差し向けたパンク集団が流れ者を包囲し、ナンバー4とナンバー7も姿を見せた。一方、ヨシが去った後の料理店には、ナンバー2が手下たちを連れて乗り込んで来た。ナンバー2は叔父を殺害し、ヨシを誘い出すエサとしてモモコを連れ去った。流れ者は圧倒的な数の差に苦戦を強いられるが、そこへヨシが駆け付けて加勢した…。

脚本&監督はガイ・モシェ、原案はボアズ・デヴィッドソン、製作はキース・コルダー&ジェシカ・ウー&ナヴァ・レヴィン&ラム・バーグマン、共同製作はアレックス・マクドウェル&マシューG・ザミアス&アルベルティーノ・マタロン、製作総指揮はデヴィッド・マタロン、撮影はファン・ルイス・アンシア、編集はザック・ステーンバーグ&グレン・ガーランド、美術はクリス・ファーマー、衣装はドナ・ザコウスカ、覚効果監修はオリヴァー・ホッツ、音楽はテレンス・ブランチャード。
出演はジョシュ・ハートネット、ウディー・ハレルソン、GACKT、デミ・ムーア、ロン・パールマン、ケヴィン・マクキッド、ジョルディ・モリャ、海保エミリ、菅田俊、マーク・イヴァニール、マーセル・ユーレス、アーロン・トネイ、フェルナンド・チェン、シャハール・ソレク、ヨシオ・イイヅカ、コフィ・イアドム、ガブリエル・スパヒウ、アイオン・ルプー、クリス・ブリュースター、マリア=アントアネッタ・チュードル、サミュエル・ヴァウラモ、マリウス・フロリアン、ラズヴァン・カリン他。


イスラエル出身のガイ・モシェが2006年の『Holly』に続いて手掛けた長編第2作。
同じイスラエル出身の映画プロデューサー、ボアズ・デヴィッドソンが原案を担当している。
流れ者をジョシュ・ハートネット、バーテンダーをウディー・ハレルソン、ヨシをGACKT、アレクサンドラをデミ・ムーア、ニコラをロン・パールマン、ナンバー2をケヴィン・マクキッド、ヴァレンタインをジョルディ・モリャ、モモコを海保エミリ、叔父を菅田俊が演じている。

『BUNRAKU』というのは日本の配給会社が勝手に付けたデタラメ邦題ではなく、そういう原題だ。
日本の文楽から着想を得た作品なので、そういうタイトルになったらしい。
だけど映画を見ても、何がどのように文楽からの着想なのかはサッパリ分からない。
それよりも、流れ者が主人公だったり、「ナンバーで呼ばれる殺し屋が数名いて、ランクを上げるためには殺し屋同士でも戦う」というキラーの設定があったりするので、鈴木清順監督の『東京流れ者』や『殺しの烙印』を連想させるけどね。

日本で公開された際には、「Gacktのハリウッド映画デビュー」ということが大きく取り上げられていた。
私は日本語吹き替え版で見たのだが、まず気になったのはGacktが喋り始めた時に「なんかイントネーションが変じゃねえか」ってことだった。で、しばらく聞いている内に、「たぶん関西出身という設定で、だから関西弁のイントネーションで喋っているんだろうな」と理解した。
ただ、わざわざ関西弁のキャラにしている意味がサッパリ分からん。Gacktの関西弁って、すげえ違和感が強いし。
しかも叔父と喋る時は関西弁なのに、外国人と喋っている時の吹き替えだと標準語なんだよなあ。変なの。
あと、ヨシってコミカルな立ち振る舞いもするけど、Gacktには似合わん。なんか「ハリウッド映画だから、無理して喜劇芝居をやってます」ってのがモロに見えちゃうわ。

「やりたいことは分かるけど」という映画である。
「分かるけど」の後に続く言葉は、「面白くはない」である。
まだ20分とか30分程度の短編映画なら何とかなったかもしれないが、長編映画としては厳しい。しかも124分だから、長編映画としても長い部類だし。
ちなみに「短編映画なら何とかなったかも」ってのは、「短編なら面白かったかも」という意味ではない。「短編なら耐えられたかも」ということに過ぎない。
ようするに、「最初の方は面白いから、短編なら良かったのに」ということではなく、最初の方で既に退屈な映画だという印象は受けてしまうのだ。

この映画で最初に飛び込んで来るのは、あまり見慣れない映像表現だ。
本編が始まる前のオープニング・クレジットでは、紙で作られた人物が、紙の背景の前で操られ、「こんな世界観です」というナレーション説明が入る。そのまま本編に突入し、飛び出す絵本のイメージをそのまま持って来たようなセットで物語が開始される(実際、セットは全て紙で作られているらしい)。
グリーンバックによる合成と、紙で作られた舞台装置により、「いかにも作り物ですよ」とアピールするような景色が広がる。
その後の映像表現や、登場人物たちのキザな振る舞いからしても、「スタイリッシュでクールな映画」を狙っているのは良く分かる。

最初に用意されている映像は間違いなくインパクトがあるし、キャッチーだ。
だったら、それによって「面白そうだ」というイメージを感じさせ、序盤ぐらいはそれだけで乗り切れそうな気もするんだが、実際は序盤で退屈に感じる。
その原因の1つは、ナレーションの洪水にある。ナレーションがあまりにも多すぎると、その内容が面白くなかったら、観賞する意欲を減退させることに繋がってしまう。
それと、ナレーションによって初期設定の説明をしているのだが、その世界観はボンヤリしている上に凡庸で、むしろ説明なんて無かった方が良かったんじゃないかとさえ感じる。

ひょっとすると『シン・シティ』っぽいノリを狙ったのかなあとも思うんだけど、そもそも個人的に『シン・シティ』がそれほど面白いと思わなかったんだよなあ。あれもナレーションの洪水が邪魔だったし。
この映画も、序盤だけで終わらせてくれるかと思ったら、料理店のシーンでは「そこにレッド・スーツが登場」というト書きをそのまま読んでいるようなナレーションが入ったりする。
疎ましいわあ。
過剰なナレーションは、例えば料理店でヨシが手下たちに近付く時には「命は誰にとっても大事だ。だが、その大事な命よりも誇りを大切に思う人間もいる。それが日本男児であれば、ことさら大切となる」と語り、流れ者がタクシーに乗る時は「物事は最初は肝心。最初につまずけば、お先真っ暗。我らが寡黙なさすらい人には、経験でその教訓が身に染みていた」と語り、タクシーを降りると「頭を高く、目は獲物を追え。油断は禁物、世の中はワルで一杯だ」と語る。

ヨシがエディーの事務所を訪れると、「ここまでは、まずまず。正しい道を歩んでいると思えた」とナレーションが語り、カメラが町の上空を飛びながら「東の方。森へ入る。洞窟や崖、滝の狭間を抜け、集落、豪邸、そして訓練場。レッドスーツにキラーたち、トラブルが待ち受けている」と語られ、稽古中のナンバー2が写る。流れ者とヨシが戦う中で雨が降り出すとバーテンダーが傘を開き、「良き師匠は、どんな時も無理強いしない。扉を大きく開き、雨に打たれた弟子たちが懐に飛び込むのを待つ」というナレーションが入る。
そういうの、要るかね?
『シン・シティ』と同じで、ハードボイルドな雰囲気を出したいんだろうってのは伝わって来るけど、うるさいだけだわ。
この映画を受け入れられず、つまらないと感じた原因の大半は、そのナレーションにあると言ってもいいだろう。

ヨシが「物事を解決するのに暴力は使わん。僕にとって人生とはすなわち仁の道」と語った直後、ニコラの手下3名が店にやって来る。
叔父が殴られてモモコが立ち上がろうとするとヨシが制止し、ナレーションが「武士道七原則の中で最も体得し難いのが仁だ。ヨシは仁を極めようとしていた」と語る。
だから、そこは手下たちが偉そうな態度を取っても我慢するんだろうと思っていたら、わざわざ自分から近付き、ワサビを口に塗られると、大量のワサビを食べてから、手に付いたワサビを手下の服で拭い、そいつらを退治する。
何の我慢もせず、簡単に暴力を使ってるじゃねえか。

バーテンダーはヨシに、「実際のニコラの顔を知っている者は誰もいない。人前に顔をさらしたことが無いんだ。外に出る時は独特の衣装を身にまとう。長い黒のマントに、つば広の帽子だ」と説明する。
その直後、ナンバー2がアレクサンドラを屋敷に連れて行くと、ニコラが素顔をさらして待っている。
そりゃあ自宅だから素顔ってことなんだろうけど、「ニコラの顔を知っている者は誰もいない」と説明していたのに、ナンバー2とアレクサンドラは知っているのね。
ヨシの「暴力を使わないはずが平然と使う」ってのも、ニコラの「素顔は人前にさらさないはずが平気で見せる」ってのも、ギャグにしか思えないんだけど、ギャグじゃないんだよなあ。

アメコミ的なテイストを狙っているのだと思われる物語はテキトー&スッカスカで、まあアメコミも幼稚だったりデタラメだったりすることは少なくないけど、そこも含めてアメコミ的感覚を狙っているわけでもあるまい。
そうだとしたら、それは余計な模倣だし。
テキトーな箇所を具体的に挙げると、例えばヨシはエディーの元へ行くが、そこで何の情報も得ていない。連中を倒して、それで終わりだ。
向こうが襲って来たから叩きのめすのは当然だが、その後で情報を聞き出そうとしろよ。なんで倒したら立ち去っちゃうんだよ。

あと、話やキャラクターの中身が無駄に分かりにくいんだよな。
例えばアレクサンドラは娼館から逃げ出しているので、ニコラの情婦であることを嫌がっているのかと思ったら、「自由に愛したい」と言い出す。
どうやら、ニコラのことは愛しているらしい。
「愛しているけど、自由も欲しい」という設定のようだが、無駄に複雑なキャラ設定だ。
本筋に何の影響も無いんだし、そこは普通に「ニコラの情婦」ってことでいいでしょ。

流れ者はニコラとポーカーをやりたがっているが、「なぜポーカー勝負に固執するのか」ってのは分からないまま話が進む。
ヨシは竜の紋章を欲しがっていて、どうやらニコラが持っているようだが、なぜ紋章を欲しがるのかは分からないまま話が進む。
もちろん意図的に目的を隠して、それで興味を引っ張ろうということなんだろうとは思う。ただ、それが見ている側の興味を引き付けているのか、狙い通りの効果を発揮しているのかというと、答えはノーだ。むしろ、「無駄に分かりにくい」という印象に繋がっている。
どうせ映像重視の作品で物語はスッカラカンなんだから(っていうか映像オンリー)、最初から目的を明かして、「すんなりと物語に入り込ませる」「流れ者とヨシに感情移入させる」という効果を狙った方がマシだったんじゃないか。
まあ早く目的を明かしても、その効果が得られるかどうかは分からないけどさ(分からないのかよ)。

(観賞日:2014年1月11日)

 

*ポンコツ映画愛護協会