『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』:1999、アメリカ&イギリス&フランス&キューバ

1998年3月、ギタリストのライ・クーダーは、息子でドラマーのヨアキムと共にハバナを訪れた。キューバの老ミュージシャンと共に製作したアルバム『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』の録音以来、2年ぶりのキューバだ。今回、彼は新たに曲を録音する。
ライ・クーダーが初めてキューバを訪れたのは、1996年だった。彼は同じ音楽会社のニック・ゴールドに勧められ、キューバに渡って老ミュージシャンを探すことにした。ァン・デ・マルコスの協力もあって、往年の名ミュージシャンが次々に集まってきた。
『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』の発売以来、参加したキューバのミュージシャンは海外で評価され、コンサートを開くことも多くなった。1998年4月には、アムステルダムのカッレ劇場で演奏した。そして、カーネギーホールでも演奏することになった…。

監督はヴィム・ヴェンダース、製作はウルリッヒ・フェルスバーグ&ディーパック・ネイヤー、製作協力はローザ・ボッシュ、製作総指揮はニック・ゴールド&ウルリッヒ・フェルスバーグ、撮影はイェルク・ヴィトマー(キューバ)&ロビー・ミュラー&リザ・リンスラー(ニューヨーク)、編集はブライアン・ジョンソン。
出演はコンパイ・セグンド、エリアデス・オチョア、ライ・クーダー、ヨアキム・クーダー、イブライム・フェレール、オマーラ・ポルトゥオンド、ルベーン・ゴンザレス、オルランド・“カチャイート”・ロペス、アマディート・ヴァルデス、マヌエル・“グアヒーロ”・ミラバール、バルバリート・トーレス、ピオ・レイヴァ、マヌエル・“プンティジータ”・リセア、ファン・デ・マルコス・ゴンザレス他。


ライ・クーダーが97年に発表したアルバム『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』は、キューバで忘れられた存在となっていた老ミュージシャンを一堂に集め、その演奏を録音したものだ。
この映画は、そんな老ミュージシャンのインタヴュー、コンサートでの演奏、録音のために再び集まった様子などを描いたドキュメンタリー映画である。

いやあ、何ともタチの悪い作品であった。
見る前は、ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ(以下、BVSC)の面々について深く掘り下げるドキュメンタリーか、あるいは彼らの演奏をたっぷりと聞かせるミュージック・フィルムか、どちらかだと思っていたのである。
しかし、全くの勘違いだった。
この作品の構成から、映画の目的は明白だ。
これは、「祖国では忘れ去られていた名ミュージシャン達を、ライ・クーダーが発掘し、カーネギーホールでコンサートを開くまでになりました」ということを伝えるためのフィルムだ。
つまり、ライ・クーダーの自尊心を満足させるための映画なのだ。

ライ・クーダーが録音を見守る様子や、コンサートで演奏する様子などが挿入されるが、次第にうっとおしくなってくる。
とにかくライ・クーダーをアップにすることが多すぎる。
これは誰のための、誰を見せるためのドキュメンタリー映画なのかと。
ライ・クーダーに感謝の言葉を述べたり、「ライが演奏の録音を聞いてくれていたんだ」とか「アルバムにも入っている曲よ」とかライ・クーダーに絡める言葉を語ったり、そんなミュージシャン達の姿は、あまり好意的に見ることが出来ない。
ライ・クーダーに感謝しているのは確かだろうが、そんな言葉を映画に乗せなくてもいいだろうに。

序盤、ライ・クーダーはハバナに来るのだが、BVSCの面々と会って彼らと音楽との関わりについて聞き出すのかと思ったら、そうではない。ミュージシャン達のインタヴューも挿入されるのだが、ほとんど生い立ちを語るだけの短いものだ。
どうして彼らに対して「あなたにとって音楽とは何か」といった、音楽に関する言葉を語らせようとしないのか。BVSCの意味について語らせようとしないのか。生い立ちだけを短く語られても、その人の中身はほとんど見えてこないのに。

もう1つ気になるのは、1人ずつで語る様子はあるのだが、複数のミュージシャンが語り合う場面が見当たらないことだ。
BVSCの面々が一緒にいるのは、録音とコンサートの場面だけ。
しかも、インタヴューの中で他のメンバーについて語られることも、ほとんど無い。
だから、BVSCの仲間の結び付きが、まるで感じられない。

BVSCの面々は、街の中で歌い始めたり、演奏したりする。しかし、それはすぐにプツリと切断され、同じ曲をコンサートで演奏している様子に切り替わる。ここに、この映画の大きな過ちがある。ハッキリ言って、コンサートで演奏する様子よりも、キューバで何気無く演奏している様子の方が、楽しそうに見えるのだ。
街の中でオマーラが歌っている様子、体育館で子供達に囲まれながらルベーンがピアノを演奏している様子の方が、コンサートでの演奏シーンよりも遥かに魅力的なのだ。それは、キレイに整えられた演奏ではない。しかし、そこからは「音楽を楽しんでいる」という意識が、コンサートの風景よりも強く伝わってくるのだ。

BVSCを「コンサート活動を主体にしているグループ」という位置付けで捉えるならば、コンサートでの演奏をフィーチャーしてもいいだろう。
しかし、このフィルムは、そういう構成でいいのだろうか。
わざわざキューバまで行って、そこでBVSCの面々が「キューバの光景」に溶け込んで演奏しているのに、それを簡単に削ぎ落としてもいいのだろうか。
BVSCの面々は、「生活の中に音楽がある」という人々ではないのか。
コンサートのために音楽をやっている人ではないはずだ。
人々に聞かせるとか、そういう目的以前に、あるがままに音楽を楽しんでいる彼らの様子を見せるべきではないのか。この映画で見せるべきは、何気無く歌ったり演奏したりしている彼らの姿ではないのか。

BVSCは、メンバーが自発的に結成したものではなく、ライ・クーダーによって作られたグループだ。そしてキューバ音楽は、キューバという場所と密接に結び付いている音楽のはずだ。
彼らの音楽家としての生き様を示そうとするのであれば、コンサートでの「作られた演奏」よりも、キューバの風景の中での演奏を重視すべきではないのだろうか。

いや、「キューバの老音楽家、海外で演奏する」というテーマの作品ならば、コンサート中心の構成でも構わない。カーネギーホールでのコンサートをハイライトに持って来る構成でも構わない。
ただし、その場合は、他の部分で構成が間違っている。
そういう作品にするのであれば、コンサートに向けての意気込みやリハーサルの風景を挿入しながら全体を構成すべきだろう。カーネギーでのコンサートが終わった後の、彼らのリアクションも入れるべきだろう。
ただし、コンサート・フィルムとして見た場合、コンサートのシーンのカメラワークが悪すぎるという大きな問題があるのだが。

 

*ポンコツ映画愛護協会