『ブラウン・バニー』:2003、アメリカ&日本

レーサーのバドはバイクをバンに積み込み、サーキットを後にした。ガソリンスタンドに立ち寄った彼は、従業員のヴァイオレットと話す。ヴァイオレットはレーサーのバドに興味を抱き、「次のレースは?」と尋ねる。「金曜にカリフォルニア」とバドが答えると、彼女は「一度、行ってみたいわ」と言う。するとバドは「一緒に来ないか」と告げ、ヴァイオレットが「会ったばかりよ」と言うと「頼むよ」と真っ直ぐに見つめる。ヴァイオレットは承知し、店に貼り紙を残してバドの車に乗った。
バドはヴァイオレットの自宅へ着くと「可愛いよ」と告げてキスし、荷物を持って来るよう促した。しかしヴァイオレットが家に入ると、彼は置き去りにしてバンを発進させた。バドは故郷へ戻り、かつて隣に住んでいたデイジーの家を訪ねた。デイジーの母はバドが「前に隣に住んでいました」と言っても覚えていなかったが、彼を家に招き入れた。デイジーの家では、母と祖母が2人で暮らしていた。バドがウサギに気付いて「デイジーのですか?」と尋ねると、「そうよ。どうしたのかねえ、あの子ったら。電話の1本もくれないのよ。心配だわ」とデイジーの母は言う。
デイジーの母から「今はどこに?」と訊かれたバドは、「ロサンゼルスです。デイジーと一緒に、小さな家に住んでます」と答えた。彼は「子供は?」と問われ、「いえ」と答えてから言葉に詰まる。しばらく黙り込んでから、彼は「分からない。何があったのか」と呟いた。デイジーの母は「カリフォルニアの僕らの家に遊びに来てくれたこと、覚えてませんか」と訊かれても、バドのことを思い出さなかった。デイジーの実家を後にしたバドは、ペットショップに立ち寄った。彼は店員にウサギの寿命を尋ねて、どの種類も6年以上は生きないと聞かされた。
ダイナーで食事を取ったバドは翌朝まで車を走らせ、公園の自販機でコーラを買う。車に戻ろうとしたバドだが、ベンチにいるリリーという女性が気になって声を掛けた。彼は「大丈夫?」と言い、すぐに彼女とキスを交わして抱き合った。バドが泣き出すと、リリーは無言のまま優しく頭を撫でた。バドは立ち上がると、リリーと別れて車に戻った。モーテルで一夜を明かしたバドは、翌朝になって再び車を走らせる。ガソリンスタンドで給油した彼は、ボンネヴィル・ソルトフラッツで車を停めた。しばらくバイクを疾走させた後、バドはバンに戻ってソルトフラッツを後にした。
夜通し運転を続けたバドはラスベガスに到着し、娼婦を見つけては車を停める。娼婦から誘われると断っていたバドだが、ローズの時は思い直して車を戻した。彼はローズをランチに誘い、車に乗せた。バドはファストフードで食事を済ませると、ローズを車から降ろした。彼はサーキットに着いてバイクを降ろし、翌日の整備を済ませてホテルに移動した。チェックインを終えた彼は車に乗り、空き家となっている一軒家へ赴いた。玄関の前に立ったバドは、ドアをノックしてデイジーの名を呼んだ。隣人が「そこは空き家よ」と言うと、バドは車に戻った。デイジーとキスしたことを思い出した後、彼は再び車を降り、ドアをノックしてデイジーの名を呼んだ。バドはメモを残して、その場を後にした。
ホテルに戻った彼はフロントに電話を掛け、「もし電話があったら部屋に繋いでくれ。デイジーという女性が来たら通してくれ」と頼んだ。洗面所で顔を洗ったバドの元へ、デイジーがやって来た。彼女は「しばらくね。メモを見たわ」と言い、トイレでマリファナを吸った。寝室へ戻ったデイジーは「抱き締めていい?膝に座ってもいい?」と問い掛け、バドの膝に座って抱き締めた。バドが「悪かった」と謝罪すると、彼女は「私も」と口にした…。

脚本&監督&編集&製作&撮影はヴィンセント・ギャロ。
出演はヴィンセント・ギャロ、クロエ・セヴィニー、シェリル・ティーグス、エリザベス・ブレイク、アンナ・ヴァレスキ、メアリー・モラスキー他。


『バッファロー'66』のヴィンセント・ギャロが、脚本&監督&編集&製作&撮影&主演を務めた作品。
ギャロはコントロール・フリークの人なので、アンクレジットだが美術、衣装、装置、メイクアップなども全て自分で担当している。
デイジーをクロエ・セヴィニー、リリーをシェリル・ティーグス、ローズをエリザベス・ブレイク、ヴァイオレットをアンナ・ヴァレスキ、デイジーの母をメアリー・モラスキーが演じている。
2003年のカンヌ国際映画祭でパルム・ドールにノミネートされた。

この映画が公開された2003年頃、ヴィンセント・ギャロは日本のオシャレな人々から高い人気を得ていた。俳優よりも先にドローイングや写真など様々な方法で表現するマルチ・アーティストとして知られるようになり、2002年には原美術館で個展が開かれた。
オシャレ好きな人々からすると、ある種のアイコンのような存在だったのだ。
そんな人気に目を付けたのが、『バッファロー'66』を配給した株式会社のキネティックだ。
そこでキネティックは、この映画では製作にも参加した。表面的にはアメリカと日本の合作という形になっているが、日本企業による全面出資での製作だ。

この映画がカンヌ国際映画祭コンペティション部門で上映された時、会場には野次が飛び交い、著名な映画評論家のロジャー・イーバートは「史上最悪の映画」と酷評した。
もちろん、カンヌの観客の評価が常に正しいわけではないし、映画評論家の批評にしても同様のことが言える。しかし本作品に関しては、その反応に納得できる。
これを駄作と感じない人、それどころか傑作だと思える人は、よっぽど奇特な人か、よっぽど感覚が鋭敏で凡人には分からない面白さを汲み取れる人か、ヴィンセント・ギャロの盲目的な信奉者か、そのいずれかではないかと思う。
私は凡人どころかポンコツ野郎なので、この映画はヘドが出るような駄作としか思えない。

この映画は説明が極端に少ないため、バドがどういう人物なのかを把握するのに時間が掛かる。バドの台詞は少ないし、感情表現も乏しい。やたらとメソメソ泣くだけで、何が悲しいのかは教えてくれない。
そんな中で、彼の理解不能としか言いようのない行動が描かれるため、困惑させられる羽目になる。
何しろ、ヴァイオレットに一緒にカリフォルニアへ行くことを持ち掛けて「頼むよ」とまで言ったのに、すぐに彼女を置き去りにして去ってしまうのだ。酷い仕打ちである。女の心を弄ぶ、どうしようもないクズ野郎にしか見えない。
さらに厄介なことは、そんなクソみたいな主人公を、ヴィンセント・ギャロは「同情すべき人物」と捉えていることだ。

しばらく話が進む中で、バドの抱えている事情は明らかになってくる。
デイジーという恋人がいて、彼女への未練でメソメソしていることは見えてくる。
だけど、それが判明しても、やっぱり「バドのヴァイオレットに対する行動はクズ」という印象は全く変わらない。
それなのにヴィンセント・ギャロは「こいつって可哀想な奴でしょ。愛すべき奴でしょ」と訴えてくるので、「いや無理だわ。永遠に分かり合えない」と言いたくなるのだ。

この映画は、ホントに無駄な時間が多い。
例えばヴァイオレットを置き去りにした後、バドがデイジーの実家へ到着するまでに、「彼が車を運転している」という様子を写しているだけのシーンが4分ほど続く。
デイジーの実家を出ると、同じように「バドが運転している」というだけのシーンが4分ほど続く。
このように、バドが誰かと会って別れたり、どこかへ立ち寄ったりすると、その度に「ただ移動しているだけ」の時間が数分に渡って続く構成となっている。

場面転換に風景を写すような演出は良くあるし、だから「何も物語が動かない時間、何も変化が無い時間」を設けるのが悪いとは言わない。
しかし本作品の場合、そこがあまりにも長いのだ。
それでも、そこを「静」として、そこで繋いでいるドラマパートの「動」が強ければ、効果的な対比となる可能性があったかもしれない。
しかし移動していない時間帯も、やっぱり淡々としていて「静」なのだ。っていうかハッキリ言うと、ものすごく退屈なのだ。
退屈と退屈を繋ぐ部分が「無」なので、ものすごく中身が乏しいわけだ。

バドはリリーと出会うと、すぐにキスを交わして抱き合う。しかしリリーが何も言わずに優しくしていると、バドは彼女と別れて車に戻る。
すぐにキスして抱き合うのは不自然極まりないし、すぐにバドがリリーと別れるのは理解不能な行動だ。
しかし、無理に理解しようとしても、それは不毛な行為だ。
なぜなら、この映画の全てを本当に理解できるのはヴィンセント・ギャロだけだからだ。
ザックリ言ってしまえば、これは彼の自己満足のために作られている映画だしね。

面倒なので、そろそろオチをバラしてしまおう。「既にデイジーは死んでおり、彼女がホテルへ来てからの出来事はバドの妄想でした」というのがオチだ。
デイジーが死んだのは、「パーティーでハッパやって酩酊していたら男たちが部屋に来て輪姦した。それをバドは目撃したのに、何もせずに逃げた。男たちが去った後、デイジーは吐瀉物が喉に詰まって死んだ」という経緯だ。
そしてバドは妄想のデイジーを「俺を裏切った」と罵り、自分勝手な行動を取るのだ。
そこにはデイジーへの愛など全く無い。
ナルシシズムの塊であるヴィンセント・ギャロは、それでも「バドは愛すべき男」だと確信している。

簡単に言うと、これはヴィンセント・ギャロがバドを通じて「弱くて身勝手な俺を愛してくれ。俺は全く変われないけど、それでも好きになってくれ」と訴えている映画だ。
バドは人を愛せない男なのに、女からは愛されることを望む。しかし女が優しくすると、冷たく拒絶する。
バドは恋人を捨てたこと、救えなかったことについて、何の罪悪感も抱いていない。
ただ「恋人を失って悲しい」という気持ちを抱えているだけだし、「そんな悲しんでいる俺を愛してくれ」と訴えているだけだ。

この映画を「史上最悪の映画」と言い切っても許される理由は、終盤のシーンにある。
ヴィンセント・ギャロは、クロエ・セヴィニーにフェラチオさせているのだ。
「フェラチオしている風に撮っている」というわけではない。実際にフェラチオさせて、それをカメラで撮影しているのだ。
そもそも「バドがデイジーにフェラチオさせる」というシーン自体の必要性からして、ゼロだと言ってもいい。それなのに、「フェラチオしていると思わせるシーン」として表現するだけでなく、実際にフェラチオさせてしまうんだから、そりゃあカンヌで酷評を浴びるのも当然だろう。

アクションシーンでスタント・ダブルに頼らず役者が戦うとか、爆破シーンでCGを使わず本当に爆発させるとか、そういうことは「本物の迫力」として歓迎できる。
だけど、この映画がやってる「本物」の追求は、まるで必要のないことだ。それは例えば、人を殺すシーンで実際に人を殺すようなモノだ。
ヴィンセント・ギャロがポルノ映画を撮りたかったのなら、実際のフェラを盛り込むのもいいだろう。だが、彼は「愛の映画」を撮ろうとしているはずだから、本物のフェラチオなんて要らない。
そこのインパクトだけで、全てを台無しにするぐらいの愚行だ。
「そこまでの内容は、台無しにしても何の問題も無い中身」ってのが、不幸中の幸いではあるけれど。

(観賞日:2018年10月29日)


第27回スティンカーズ最悪映画賞(2004年)

ノミネート:【最悪の演出センス】部門[ヴィンセント・ギャロ]
ノミネート:【最悪のカップル】部門[ヴィンセント・ギャロ&クロエ・セヴィニー]

 

*ポンコツ映画愛護協会