『ブレックファースト・オブ・チャンピオンズ』:1999、アメリカ
ニューヨーク州コホーズに住むキルゴア・トラウトの元に、ミッドランド・シティーの財団の総帥エリオット・ローズウォーターから、偉大な小説家だと賞賛するファンレターが届く。だが、キルゴアは無名作家で、掲載してくれるのはポルノ雑誌ぐらいだ。
自動車販売会社の社長ドウェイン・フーヴァーは商売で成功を収め、大勢の人々に名前と顔を知られる人気者だ。だが、妻セリアは精神を病んでおり、ラウンジのピアノ弾きをしている息子バニーは同性愛者で、ドウェインは自殺を何度も試みる。
キルゴアの元に、ミッドランド・シティーで開催されるアート・フェスティバルの委員長フレッド・T・バリーから招待状が届いた。開会式に招きたいというのだ。彼はアート・フェスティバルに参加することを決めるが、招待状に同封されていた金を盗まれてしまう。仕方なく、彼はヒッチハイクをしたり歩いたりして、ミッドランド・シティーへと向かう。
イライラしているドウェインは、不倫相手の従業員フランシーンにも怒鳴り散らす。販売部長ハリーは、女装癖をドウェインに知られたのではないかと怯えて、妻のグレイスに相談する。シェパーズタウンの成人矯正施設に入っているウェイン・フーブラーは、名前が似ているドウェインの会社で働くことが天命だと信じている。
ドウェインがハワイアン週間のCM撮影をしていると、施設を出たウェインがやって来た。つきまとうウェインを疎ましく思ったドウェインは、彼の相手をハリーに任せる。自殺をハリーに邪魔されたドウェインは、フランシーンを誘い出してモーテルでセックスする。
ドウェインは環境保護局のドゥレンワーストから、筆頭株主を務める不動産会社が、開発地域に汚染廃棄物を捨てたという告発があったことを知らされる。やがてラウンジでキルゴアと出会ったドウェインは、彼の小説を読んでメッセージを探す…。監督&脚本はアラン・ルドルフ、原作はカート・ヴォネガットJr.、製作はデヴィッド・ブロッカー&デヴィッド・ウィリス、撮影はエリオット・デイヴィス、編集はスージー・エルミジャー、美術はニーナ・ラッシオ、衣装はルディ・ディロン、音楽はマーク・アイシャム、歌はマーティン・デニー。
主演はブルース・ウィリス、共演はアルバート・フィニー、ニック・ノルティー、バーバラ・ハーシー、グレン・ヘドリー、ルーカス・ハース、オマー・エップス、ヴィッキー・ルイス、バック・ヘンリー、ケン・キャンベル、ジェイク・ジョハンセン、ウィル・パットン、チップ・ジーエン、オーウェン・ウィルソン、アリソン・イーストウッド、ショウニー・スミス、マイケル・ジェイ・ホワイト他。
カート・ヴォネガットJr.の小説『チャンピオンたちの朝食』を映画化した作品。
ドウェインをブルース・ウィリス、キルゴアをアルバート・フィニー、ハリーをニック・ノルティー、セリアをバーバラ・ハーシー、フランシーンをグレン・ヘドリー、バニーをルーカス・ハース、ウェインをオマー・エップス、グレイスをヴィッキー・ルイスが演じている。そもそもアラン・ルドルフという監督に対する個人的な期待値が低いのだが、その期待を裏切らない、ある意味では予想以上の作品であった。
つまり、予想していたよりも悪いということだ。
ただ、そもそも映画化すること自体が間違いだったのではないかとも思う。コメディーだと思うが、ボケたらボケっぱなし。しかも全体が狂っていて、デタラメをデタラメに見せるための土台が無いので、どこがどう笑いになっているのか全く分からない。
小説ならば、地の文章でクールダウンしたり、登場人物を客観的に見たりすることも可能だろうが、映画では、そうはいかない(少なくとも、この映画では)。
笑えないわけだから、「キチガイさん達が、ワケの分からないセリフを喋ったり、ワケの分からない行動を取ったりする様子を延々と見せられている」というだけになっている。ただラリってグチャグチャになっているだけで、破天荒な面白さは感じない。ナレーションに頼りすぎる映画というのは、大抵の場合、ロクなモノにならないが、この映画に関しては、ナレーションを付けた方が良かったかもしれない。そしてナレーションによって、一歩引いた所から説明したり、皮肉ったりした方が良かったかもしれない。
原作をじっくりと読み込んだわけではなく、大雑把な形でしか認知していない私でさえも、映画化するのは無茶なのではないかと思ってしまう。忠実に映画化しようとしても無理だから、原作ファンに怒られようとも、ストーリーを無視してエッセンスだけを抜き取ってしまうとか、何か思い切った冒険が必要だったのでは無いだろうか。
表面的な進行だけを追って、それをシナリオにしただけでは、何の意味も無いデタラメな話というだけで終わってしまう。いっそのこと、物語は解体してしまってもいいと思う。
どうせ話はメチャクチャなのだから、物語を成立させることより、1つ1つの皮肉、ニヒリズムを表現することの方が大切ではないかと思ったりもするのだ。