『ブギーマン』:2005、アメリカ&ドイツ&ニュージーランド
ティムは8歳の頃、クローゼットに隠れているブギーマンを恐れていた。父親が部屋に来ると、彼は「クローゼットから出て来たんだ」と訴えた。父親は「あれは単なるお話だよ」と言い、ティムを安心させるために「じゃあ部屋を見てみよう」と告げた。父親は部屋を調べ、「ほら、いないだろ」と口にする。ティムがクローゼットを指差すので、父親は中を調べる。父親は振り向いて「何もいない」と言うが、その直後、クローゼットから黒い影が現れた。父親は黒い影に襲われてクローゼットに引きずり込まれ、そのまま姿を消した。
15年後、雑誌社の副編集長として働くティムは、今もクローゼットを怖がる日々を過ごしていた。感謝祭の期間、ティムは恋人のジェシカと共に、彼女の両親と会うことになった。その前日、帰宅したティムが留守電を訊くと、叔父のマイクから母親の見舞いに来るよう促すメッセージが入っていた。父が蒸発してから母は精神を病んでしまい、ティムはマイクの元で育てられた。次の日、ティムはジェシカの住む豪邸を訪れ、彼女の家族と会食を取った。部屋に案内されたティムは、クローゼットやベッドの下を警戒した。
その夜、母の出て来る悪夢を見たティムは、何かあったのだと考える。そんなティムの元に、母が死去したという知らせが届いた。ティムは少年時代から通っている精神病児童クリニックを訪れ、女医のマシソンと会った。マシソンは「あの家で何があったにせよ、魔物のせいじゃないわ。お父さんの蒸発を現実だと思いたくなくて、貴方がそう思い込んでいただけよ。もう15年も経つの。周囲を見て。ここには子供しかいないわ」と語る。
ティムはクリニックの一室で悲鳴を上げている少女を見つけ、急いでマシソンを呼ぶ。少女は天井の点検口を見上げ、酷く怯えた表情を浮かべていた。母の葬儀を済ませたティムは、過去を断ち切るために実家で一泊することにした。足を踏み入れたティムは、少年時代を回想しながら恐怖に包まれる。幼馴染のケイトが落馬するのを目撃した彼は、急いで助けに行く。軽く頭を打っただけで済んだケイトに、ティムは「入って氷で冷やした方がいいよ」と持ち掛けた。
ケイトが帰った後、ティムは警戒しながら廊下の突き当たりにある大きなクローゼットに入った。何もいないので安堵した直後、急に戸が締まってティムは閉じ込められ、激しい揺れに見舞われる。パニック状態に陥るティムだが、戸が開いて脱出できた。その夜、物置小屋に人の気配を感じたティムは、葬儀に来ていたフラニーという少女を見つけた。ティムが「こっちへおいで」と優しく呼び掛けると、彼女は「聞きたいことがあったの」と口にした。
ティムはフラニーから「ホント?ブギーマンがお父さんを連れ去ったって?」と問われ、「嘘だよ。ブギーマンなんていない。誰かのせいにしたかっただけだ」と語った。家に帰るというフラニーに、ティムは「怖くなったら目を閉じて5つ数えるんだ。僕はそうしてる」と告げた。するとフラニーは「6まで数えたらどうなるの?」と疑問をぶつけ、自転車で去った。ティムはフラニーが忘れたリュックを発見し、中を開ける。そこには失踪児童の捜索ビラが大量に詰め込まれていた。直後、彼は失踪児童たちに包囲される幻覚を見た。
怖くなったティムが家を出て行こうとすると、ジェシカがやって来た。ティムは「ここには居られない。早く出よう」と彼女に告げ、2人でモーテルに宿泊する。だが、入浴していたジェシカが、バスルームから姿を消してしまう。ジェシカを捜索したティムがクローゼットの扉を開けると、なぜか実家の廊下に出た。振り向くと、彼は実家のクローゼットから現れていた。困惑したティムは、実家に来ていたケイトを連れてモーテルへ戻ることにした。
ティムとケイトがモーテルに入ると、やはりバスルームにジェシカの姿は無かった。血痕が浴槽に付着しているのを目にしたティムは、「きっと殺された」と呟いた。彼は車を走らせながら、「父が蒸発してから15年間、みんなに妄想だと言われ続けた。だけど現実だった」と語る。ケイトを家まで送ったティムは、2階の窓に不気味な影を目撃する。彼はケイトに「早く逃げろ、2階に奴がいる」と訴えるが、「2階には父がいるわ。私の帰りを待ってくれているの」と言われる。「貴方、きっと心の病気なのよ。私には何も出来ない」と彼女に拒絶されたティムは、実家へ帰る途中でフラニーと遭遇する。ティムは「あいつは僕の大切な人をみんな殺すんだ。手伝ってくれ」と頼み、以前に来たことがある廃屋へ彼女と共に足を踏み入れた…。監督はスティーヴン・ケイ、原案はエリック・クリプキ、脚本はエリック・クリプキ&ジュリエット・スノードン&スタイルズ・ホワイト、製作はサム・ライミ&ロブ・タパート、共同製作はエリック・クリプキ&ダグ・レフラー、製作総指揮はジョー・ドレイク&ネイサン・カヘイン&カーステン・ロレンツ&スティーヴ・ヘイン&ゲイリー・ブライマン、製作協力はマイケル・カーク、撮影はボビー・ブコウスキー、編集はジョン・アクセルラッド、美術はロバート・ギリーズ、衣装はジェーン・ホランド、音楽はジョセフ・ロドゥカ。
出演はバリー・ワトソン、エミリー・デシャネル、スカイ・マッコール・バートシアク、ルーシー・ローレス、トーリー・マセット、アンドリュー・グローヴァー、チャールズ・メジャー、フィリップ・ゴードン、アーロン・マーフィー、ジェニファー・ラッカー、スコット・ウィルズ、マイケル・サセンテ、ルイーズ・ウォレス、ブレンダ・シモンズ、ジョジー・トゥイード、イアン・キャンベル、ロビン・マルコム、オリヴィア・テネット、エドワード・キャンベル、アンドリュー・エッゲルトン他。
サム・ライミが設立したホラー映画専門レーベル「ゴースト・ハウス・ピクチャーズ」の『THE JUON/呪怨』に続く第2回作品。
監督は『追撃者』のスティーヴン・ケイ。
ティムをバリー・ワトソン、ケイトをエミリー・デシャネル、フラニーをスカイ・マッコール・バートシアク、ティムの母親をルーシー・ローレス、ジェシカをトーリー・マセット、ブギーマンをアンドリュー・グローヴァー、ティムの父親をチャールズ・メジャーが演じている。タイトルが『ブギーマン』なので、ジョン・カーペンター監督の『ハロウィン』と何か関係があるのかと思ったのだが(『ハロウィン』のシリーズ第2作は『ブギーマン』というタイトルだった)、何の関係も無かった。
ブギーマンってのは、アメリカの民間伝承になっている怪物で、大人が子供を叱る時に「言うことを聞かないとブギーマンが来て連れ去られるよ」と脅すために使うのだ。
つまり、ザントマンみたいなモンだね。って、ザントマンはドイツの民間伝承だから、それも分からんよな。
まあ日本で言えば、ガオーさんみたいなモンだ(いや、それも『探偵!ナイトスクープ』を見てないと分からんだろ)。ともかく、アメリカ人からすると誰もが良く知っている存在なので、「ブギーマンとは何ぞや」という部分の説明は何も無い。
しかし日本人が観賞する場合、ブギーマンという存在に馴染みが無いので、そこがネックになる可能性はある。
ちなみに個人的には、そこは全く気にならなかった。
でも、そこがマイナスに作用しなかったからと言って、じゃあ面白いのかと問われたら、答えは「ノー」である。まず、「青年が主役」という段階で、かなり損をしていると感じる。
単純なことなんだけど、やっぱりホラー映画の主人公は女性の方がいい。内容や仕掛けによっては男性でも構わないのだが、この映画は「男性の方が適している」という要素を何も感じないので、素直に女性を主人公としておくべきだ。
「スクリーミング・クイーン」とは言うけど、「スクリーミング・キング」とは言わないでしょ。
怪物や怪奇現象にビビって悲鳴を上げるキャラクターは、男より女の方が、こっちも同調して怖がりやすいのよ。この映画の主人公であるティムも、そこら辺のスクリーミング・クイーンに負けじと怯えまくっている。
だけど、これが観客を怖がらせることに繋がっているのかというと、これが繋がってないんだな。
何がダメかっていうと、矛盾しているように聞こえるかもしれないけど、怖がり過ぎなのだ。
彼はトラウマがあるから些細なことでも怖がるが、こっちはトラウマなんて無いから、「まだ大したことは起きていないでしょ」と感じる。8歳のティムが体験した出来事が冒頭シーンで描かれているので、「なぜティムが異様に怯えるのか」という理由は理解できる。
ただし、理解は出来るけど、彼の恐怖に同調することは難しい。
ティムとの間で現象に対する受け止め方が大きく異なってしまい、その溝を埋めるための仕掛けも用意されていない。そのため、ティムが過剰に怖がる、先走って怖がるという状態が頻繁に起きてしまう。
そして、彼が過剰に怖がることで、こっちはむしろ気持ちが冷めてしまう。それと、あまりにもティムの視点に近寄った場面ばかりが続くために、「ティムの妄想を見せられている」という印象を受けてしまうのだが、これが得策とは思えない。
もちろん、「ブギーマンは妄想なのか、現実か」というところを曖昧にしたまま進めており、ミスリードを誘っている部分があることは確かだろう。
しかし、そのバランスが良くない。
この映画の塩梅だと、最終的に「ティムの妄想だった」というオチか、あるいは「実在する人間が事件を起こしているけど、でもブギーマンも存在する」というオチか、ともかく人間の犯罪者が登場する着地を期待してしまう。完全ネタバレだが、この映画、そういう「人間の犯罪者がいました」という結末は待ち受けておらず、「ブギーマンは実在した。全てはブギーマンの仕業だった」という真相になっている。
こっちの予想を裏切るってのは、「意外性のある展開」と表現することも可能だ。
ただ、この映画の場合、なんか脱力感が芽生えてしまうんだよね。
怪奇現象に人間が介在していたら、それはそれで「なんだ、やっぱり」と思ったかもしれないけど、「全てブギーマンの仕業」という脱力感に比べればマシじゃないかと思っちゃうのよね。最もマズいのは、途中までは「ブギーマンはティムの妄想」という方向に針を振っておいて、「実在しました」というのを種明かしのポイントに配置してしまうこと。
それだと、「じゃあブギーマンって、一体どんな怪物なのか」と期待感が高まってしまう。
その期待を裏切らない、もしくは上回るほどのモンスターが登場してくれれば何の問題も無いよ。
だけどCG製のブギーマンが、まあ冴えないんだ。動きが速すぎるし映像もガチャガチャしてるから、何だか良く分からないし。終盤になってCG製ブギーマンが登場するまでに、ブギーマンの姿形を何となくでも想像できるようなヒントを一度も与えていない。
それによって完全に未知の存在になっているというのも、マズかったんじゃないか。
それまでに、民間伝承で語られている想像図や、挿絵作家が描いたイラストでも構わないから、「ブギーマンってこんな奴」というイメージを観客に与えておけば、期待値が下がってくれて、実際に登場した時のゲンナリ感が少しは軽減されたかなと。
まあ、あくまでも「少し」だけど。あと、「それってブギーマンと関係なくね?」と思うような箇所で恐怖を煽ろうとしているのが気になる。
例えば、恐ろしい形相の母親が悪夢に出て来てティムが怯えるというシーン。それはブギーマンの仕業ではない。
実家へ帰るために車を運転していたティムが、カラスがフロントガラスに激突したので慌ててブレーキを掛けるというシーン。これまたブギーマンの仕業ではない。
彼は何度も幻覚を見るけど、それもブギーマンの仕業じゃない。
つまり、ティムが怯える大半の出来事は、「ブギーマンが引き起こした現象」ではなく、「ブギーマンを怖がるティムが体験した無関係の現象」に過ぎないのだ。そもそも、ブギーマンって「クローゼットに潜む化け物」であって、そこから外に出て来ることはあっても、そんなに行動範囲が広いわけではないんだよね。そういうキャラクターを使ってホラー映画を作るのって、かなり難しいんじゃないかと。
実際、この映画だって上手く行っていないんだよな。だからこそ、ブギーマンと無関係な部分で恐怖を煽ろうとしているんだろう。
ホラー映画としては、もちろん怖くなきゃ話にならないんだけど、だからってブギーマンと関係の無い現象ばかりで恐怖を煽ろうってのは完全に本末転倒でしょ。
そんなことをしなけりゃ怖く出来ないってことなら、最初からブギーマンなんて題材にしなきゃいいでしょ。「ブギーマンの行動範囲が狭い」という問題を解消するためなのか、モーテルとティムの実家がドアで繋がるとか、バスルームにいたジェシカが失踪するとか、そういう不可解な描写が盛り込まれている。
その辺りは、その頃にサム・ライミが気に入っていたJホラーの影響なんだろう。
ただ、Jホラーを取り込むのは別にいいとしても、「それってブギーマンの設定がおかしくなってねえか?もはや何でも有りなのか」と言いたくなってしまうぞ。(観賞日:2014年2月17日)