『ベン・ハー』:2016、アメリカ
紀元33年、エルサレム。ローマ帝国は領土を拡大し、恐怖政治が人民を支配していた。そんな中、ジュダ・ベン・ハーは戦車競技に出場し、メッサラに戦いを挑んだ。8年前、ユダヤ王族の息子であるジュダとローマ人のメッサラは、義兄弟の関係にあった。ジュダの父は他界し、メッサラが分断の地で統一の見本となることを願っていた。ジュダとメッサラは馬に乗り、競争することにした。しかしジュダが落馬して大怪我を負ったため、メッサラは急いで彼の邸宅へ運んだ。手当てを受けたジュダが無事だったので、彼は安堵した。
ジュダの妹であるティルザはメッサラと両思いだったが、母のナオミは交際に反対していた。ジュダは賛成していたが、メッサラは彼に「お前の家は豪族だ。俺は養子の哀れな孤児だ。あの祖父の名前が付いて回る。汚名は返上する」と語り、ゲルマニア討伐の兵を募集しているローマへ行くことを決めた。ジュダは思い留まるよう説くが、メッサラは「富と名誉を得たら戻る」と言う。ジュダはティルザに別れの挨拶をするよう促すが、メッサラはそのまま旅立った。
3年後、ジュダはメッサラに何度も手紙を送っていたが、返事は無いままだった。ジュダは奴隷エスターに恋していたが、彼女の父であるシモニデスが結婚相手を決めてしまった。ジュダは母がエスターとの結婚を望まないだろうと考え、本心を隠して彼女を送り出す。しかし、すぐに後を追って求婚し、エスターとの結婚生活を始めた。夫婦で街へ出掛けた時、ジュダはローマに反抗しているゼロテ派の処罰を通告する役人の姿を目にした。「ゼロテ派のせいで俺たちの自由も無くなる」と彼が口にすると、近くにいた大工のイエスが「自由は他の場所にある」と述べた。
イエスはジュダに、「敵を愛せ。愛を分かち合うため、神は我らを創った。憎悪や恐れは偽りだ」と語る。エスターは賛同するが、ジュダは「なぜ神は世の中を正さない?」と納得しなかった。夜、彼は不審な男たちが屋敷へ逃げて来るのを目撃し、後を追った。それは墓地でローマ兵と戦ったデロテ派のヤコブたちで、ディスマスという少年が怪我を負っていた。ティルザはジュダに内緒で、デロテ派に協力していた。ジュダはディスマスに応急手当てを施すが、ティルザの行動には苦言を呈した。ヤコブが「同胞を奴隷にされても平気なのか」と憤りを示すと、ジュダは「殺しても解決しない」と話す。彼はディスマスを引き取ると決め、ヤコブたちに「俺の家族と屋敷に近付くな」と鋭く言い放った。
翌日、ジュダはローマ兵たちに連行されるが、待っていたのは出世したメッサラだった。ジュダと再会を喜び合ったメッサラは、ペルシャの戦いでポンティウス・ピラト総督から隊長に任命されたこと、勝利を重ねたこと、マルクス司令官とは激しく対立していることを語った。メッサラは無意味な殺人を避けたいと考えていたが、マルクスは健康な男を皆殺しにしろと命じるような人物だった。彼はメッサラの祖父がジュリアス・シーザーを裏切ったことについて、侮辱的な言葉を浴びせた。
メッサラはジュダに、ポンティウスが数ヶ月後に街を行進したがっていることを話す。「なぜだ?」とジュダが訊くと、彼は「デロテ派だ。穏便な取引では駄目だった」と答える。「だから武力で?」という質問に、メッサラは「命令だからな」と告げる。「彼らの望みは領土の返還だ」というジュダの言葉に、彼は「奴らの土地か?金持ちの物だ。お前も奴らの標的だ」と話す。メッサラが「俺たちの共通の敵だ王子のお前なら、みんな話を聞く」と言うと、ジュダは協力を快諾した。メッサラは自分の剣を彼に渡し、「持っているだけで、使わずにいてほしい」と述べた。
メッサラは兵隊がデロテ派に襲撃されたという報告を受け、墓地へ赴いた。ローマ兵が競技場を建築する石を調達していたと聞き、彼は「聖なる場所だぞ」と批判的に告げる。マルクスが「総督に報告する」と口にすると、メッサラは「支配しようとすれば惨事が起きる」と意見する。マルクスは「無能な上に反ローマか」と鋭く告げ、その場を後にした。ジュダは回復したディスマスに、「お前らの党は面倒だ。聖戦のように言うが、現実は違う」と話す。ディスマスは「ローマが自由を返さないなら奪う」と言い、父がローマ兵に惨殺されて母が凌辱されたことを語った。
ジュダと家族は、メッサラと副官のドルーサスを屋敷に招いた。メッサラはティルザと再会し、「戦で倒れた時、最後に君の顔を見たいと思った」と話す。ジュダはメッサラから「話したか?」と問われ、「ラビと有力者は平和を望んでる」と語る。反ローマの名前を教えるようメッサラが言うと、ジュダは「名前は言えない」と断った。「罪人を知っていて言わないつもりか。肝に銘じろ、死か服従かだ。もう時間が無い」とメッサラは説得するが、ジュダは「俺の考えは変わらない」と告げた。
ポンティウスが兵隊を率いて街に到着すると、マルクスは「メッサラが安全を約束しました」と報告する。ジュダと家族が屋上から行進を見学していると、ディスマスがポンティウスに向かって矢を放った。矢は狙いを外れたが、ポンティウスは犯人を捕まえるよう部下たちに命じた。ジュダはディスマスを怒鳴り付けるが、兵隊が来る前に逃がした。ジュダは家族や使用人と共に拘束され、「メッサラ、助けてくれ」と叫んだ。
ジュダはマルクスが許さないと確信し、「俺がやった。家族は関係ない」とナオミやティルザの解放を求めた。しかしマルクスは許さず、メッサラに「安全を約束したはずだ。お前が命令しろ」と迫った。メッサラは仕方なく、全員の連行を命じた。ドルーサスは部下たちに、「女は磔、男はガレー船だ」と指示する。ジュダはドルーサスの剣を奪って人質に取るが、メッサラが「家族は救えない」と告げる。彼は剣を奪ってジュダを殴り付け、「お前は俺より反逆者を選んだ。全てお前が招いたことだ」と語った。
ジュダがティルス港へ連行される途中、エスターは水を飲んでもらおうと駆け寄るが兵士に阻止された。そこへイエスが現れ、ジュダに水を飲ませた。ジュダは港に到着し、囚人としてガレー船に乗せられた。5年後、ジュダは他の囚人たちと共に、ガレー船を漕ぐ重労働を続けていた。彼は監督官の命令に従順に従い、家族に会うことを諦めていた。少しでも力か落ちたと思われれば処分されるため、ジュダは生き延びることだけを考えて日々を過ごしていた。
イオニア湾の戦いでガレー船は沈没し、ジュダは1人だけ生き残って漂流する。メッサラは部下から、ガレー船が沈没して全員が死亡したという知らせを受けた。ジュダは浜辺に漂着して意識を失い、目を覚ますとアラブの一団に拾われていた。族長のイルデリムはジュダに、「お前は脱獄囚だ。ローマに引き渡す。エルサレムに発つ前に軍の要塞で放つ」と告げる。ジュダは戦車競走で使う馬の1頭が病気だと知り、「俺なら治せる。活性炭を飲めば治る。その代わり、一緒に連れて行ってくれ。家族の消息を知りたい」と語る。イルデリムは彼に「命を救った借りを返せ」と言い、その取引を承諾した。
イエスは業病人が市民から石を投げられている現場を目撃し、助けに入った。彼は人々に、「憎悪を取り除けば、愛こそが私たちの真の姿だと分かる」と語り掛けた。その様子をメッサラが眺めていると、ポンティウスは「あれは毒だ。あの男は恵みを施し、愛をもって平安をもたらす。ゼロテの党全員より危険だ」と言う。ジュダは馬のアリヤを回復させ、4頭の並びを変更しようとする。しかし騎手を務めるカディームが無視して練習を開始し、ジュダの危惧した通りにアリヤが暴走した。カディームは戦車から落下して大怪我を負い、ジュダはアリヤを制止した。
ジュダはイルデリムに、「アリヤは内側に。走り込んでいないから、付いて行けない」と提言した。イルデリムは彼に、ポンティウスが巨大競技場で戦車競走を実施すること、ローマの騎手はメッサラが務めることを話した。エスターが仲間のアヴィゲイルと慈善活動をしていると、ジュダがエルサレムに帰還した。ジュダと再会したエスターは、イエスの言葉を広めていることを語った。ジュダが母と妹のことを尋ねると、エスターは2人が処刑されたが埋められた場所は分からないことを教えた。
ジュダが「知っている奴がいる。メッサラだ」と言うと、エスターは「駐屯軍の最高司令官よ。近づけないわ」と告げる。しかしジュダは忠告に耳を貸さず、「町外れで野営してる。連絡を待て」と述べた。彼は使者を通じてメッサラに剣を届け、生家へ呼び出した。ジュダが「母と妹をどこへ葬った?」と詰め寄ると、メッサラは「お前が殺させたんだ」と反論した。ジユダが殴り付けると、マルクスが兵隊を率いて駆け付けた。ジュダは「卑怯者」とメッサラを罵り、裏口から逃走した。
ジュダはエスターと密会し、「貴方は信仰の力で戻って来られた」と言う彼女に「違う。憎悪の力で生きてる」と語る。メッサラのことを忘れるようエスターは説得するが、ジュダは「俺には憎悪しかない」と言い放った。マルクスはポンティウスに、メッサラがハー家の屋敷で襲われたことを報告した。ポンティウスは「ローマへの攻撃と同じことだ。見せしめが必要だ」と言い、ユダヤの20人を捕まえて処刑するよう命じた。
マルクスは兵隊を率いてユダヤ人を次々に捕まえ、エスターの眼前でアヴィゲイルも連行された。エスターはジュダの元へ行き、メッサラを襲ったせいで大勢が殺されたことを非難する。ジュダは「ユダヤ人が処刑されたのは俺のせいじゃない」と罪の意識を見せず、復讐心を捨てるようエスターが頼んでも受け入れなかった。エスターはジュダの頑固な態度に幻滅し、「貴方には付いて行けない」と立ち去った。イルデリムはジュダに、「お前のいる世界を見ろ。刃向かっても無駄だ。しかし競技場は違う。ローマの法など無い。民衆を熱狂させれば、お前に喝采を送る」と語り掛けた。
ジュダはイルデリムに軽蔑に眼差しを向け、「金にしか興味の無い奴は惨めだ」と鋭く告げる。イルデリムは「奴隷船の5年で苦しみを知ったつもりか」と言い、自由を求めた息子が反逆者の烙印を押されたこと、通りを引きずり回されてから喉を切られて死んだことを語る。彼は「ローマ人は全滅しない。しかしメッサラはローマ人の誇りだ。泥を塗ってやれ」と語り、戦車競走に出るよう持ち掛けた。ジュダが「俺は罪人だ。競技など許されない」と言うと、彼は「相手はローマだ。地獄の沙汰も金次第だ」と告げた。
イルデリムはポンティウスとメッサラの元へ行き、金貨3千枚の提供を約束した。彼は6対1の賭け率で、メッサラと自分の騎手の対決を持ち掛けた。そして自分の騎手が勝利すれば、一切の申し立てを取り下げるよう交渉する。メッサラは難色を示すが、メッサラの挑発的な言葉を受けて勝負を承知した。ポンティウスもメッサラの勝利を確信しており、イルデリムとの取引を受けた。メッサラが騎手の名前を尋ねると、イルデリムは「知っているはずだ」と告げて立ち去った…。監督はティムール・ベクマンベトフ、原作はルー・ウォーレス、脚本はキース・クラーク&ジョン・リドリー、製作はショーン・ダニエル&ジョニ・レヴィン&ダンカン・ヘンダーソン、製作総指揮はマーク・バーネット&ローマ・ダウニー&キース・クラーク&ジョン・リドリー&ジェイソン・F・ブラウン&エンツォ・システィ、共同製作はR・J・ミノ、撮影はオリヴァー・ウッド、美術はナオミ・ショーハン、編集はドディー・ドーン、衣装はヴァルヴァーラ・アヴジューシコ、視覚効果監修はジム・ライジール、音楽はマルコ・ベルトラミ。
出演はジャック・ヒューストン、トビー・ケベル、ロドリゴ・サントロ、モーガン・フリーマン、ナザニン・ボニアディー、アイェレット・ゾラー、ピルー・アスベック、ソフィア・ブラック=デリア、マーワン・ケンザリ、モイセス・アリアス、ジェームズ・コスモ、デヴィッド・ウォームズリー、ハルク・ビルギナー、ヤセン・アチュア、フランチェスコ・シアナ、ガブリエル・ファネーゼ、デニース・タントゥッチ、ジャレス・メルツ、イオアン・ガン、ダトー・バフタゼ、ヨルゴス・カラミホス、クリストファー・ジョーンズ、クレイグ・ペリッツ、シモーヌ・スピナッツェ、アラン・カッペリ他。
ルー・ウォーレスの同名小説を基にした作品。
1907年には短編映画が製作され(無許可だったため訴訟となった)、1926年にはラモン・ナヴァロの主演、1959年にはチャールトン・ヘストンの主演で長編映画が作られている。
今回の監督は『ウォンテッド』『リンカーン/秘密の書』のティムール・ベクマンベトフ。
脚本は『ウェイバック -脱出6500km-』のキース・クラークと『それでも夜は明ける』のジョン・リドリーによる共同。
ジュダをジャック・ヒューストン、メッサラをトビー・ケベル、イエスをロドリゴ・サントロ、イルデリムをモーガン・フリーマン、エスターをナザニン・ボニアディー、ナオミをアイェレット・ゾラー、ポンティウスをピルー・アスベック、ティルザをソフィア・ブラック=デリアが演じている。冒頭、戦車競技がスタートする様子から入り、イルデリムもチラッと姿を見せている。まるで映画の予告編のようにも感じられる映像から、8年前の回想劇へ移る。
つまり時系列をシャッフルしているわけだが、あまりにも冒頭シーンが短すぎるので状況がサッパリ分からず、掴みとしての効果は何も感じない。
そこから入ったのは、「ジュダとメッサラの関係に重点を置く」という意識の表れではあるんだろう。
ただ、そうだとしても、回想に入るまでの時間をもう少し長く取らないと、意味が無いよ。冒頭シーンではナレーションが入っているのだが、これはジュダの語りかと思ったら第三者の設定だった。
そのナレーションは回想劇に入った後も、「ジュダとメッサラは義兄弟で云々」ってことを説明する。
ただ、「統一の見本となることを願っていた」ってトコで終わりなので、ほとんど意味は無い。
当時の状況を説明するためには、ナレーションに頼った方がいいかもしれない。でも、タイトルが入った後、回想劇の部分に関しては、会話劇で表現した方がスムーズだろう。回想劇に入ってジュダの家族が登場するのだが、人間関係が良く分からない。メッサラが母と呼んでいるのは実母かと思ったら、ジュダの母なのだ。
ジュダがメッサラを「義兄弟」と呼んでいたので、メッサラがナオミを母と呼ぶのは間違いじゃないけど、無駄に分かりにくい。
エスターやシモニデスについても、あまりキャラ紹介が上手くいっているとは言えない。孤児だったメッサラがジュダの義兄弟になった経緯も、全く分からない。メッサラが「祖父の汚名を返上する」と言っているが、この時点では何のことだか全く分からない。
序盤でのキャラ紹介や情報提供には、大いに難があると言わざるを得ない。メッサラが旅立って3年後になると、ジュダが手紙の文面を読むという形でのナレーションが入る。
その中でジュダがエスターの結婚を認めたこと、追い掛けて求婚したことが一気に語られ、補足のための映像が描かれる。
ものすごく短いダイジェスト状態になっているわけだが、マトモにドラマを描く気が無いのなら経緯なんて説明しなくてもいいわ。
どうせ結婚を決めた時のナオミの反応も描かないし、以降の様子を見ると全く反対していなかったみたいだし。序盤から「祖父の汚名が自分の代にも引き継がれている」「孤児なのでジュダやティルザとは身分の違いがある」というメッサラの苦悩が描かれており、何不自由なく暮らしているボンボンのジュダよりも遥かにキャラとしての厚みや魅力を感じさせる。
3年後になるとジュダのターンがしばらく続くが、メッサラが再登場すると、また彼の苦悩が描かれる。汚名を返上して名声を得るために兵士として戦いを繰り返したメッサラだが、ローマの恐怖政治や冷徹非道なマルクスの方針には反対している。
つまり、いわゆる悪人ではない。
彼のターンが来ると、ジュダよりも主役にふさわしいんじゃないかと感じてしまう。
ジュダとメッサラの関係を軸にした映画にしようとした結果、キャラ描写のバランスを失敗し、ジュダがメッサラに食われている。今回のメッサラって、ホントに「いい奴」なのよね。
ジュダが反ローマの名を言わなくても、何とか説得して考えを変えようとする。それは出世したいからとか、反ローマの連中を皆殺しにしたいからではなく、「そうしないとジュダの立場がマズい」と心配してのことだ。
そしてジュダがポンティウス殺害未遂の犯人として拘束された時も、何とか彼と家族を救おうとしている。しかし、どうにもならない状況なので、仕方なくマルクスの要求に応じるのだ。
決してジュダを憎んでいるわけでもなく、出世のために見捨てるわけでもない。そもそも、メッサラが命令を下さなくても、どっちにしろジュダと家族の連行は決定事項なのだ。だから、それを理由にジュダがメッサラを恨むのは、明らかに御門違いと言ってもいい。
彼が憎むべきは、メッサラよりもディスマスだろう。ディスマスのせいで、ジュダと家族は無実の罪を被る羽目になったんだから。
怪我を手当てして匿ってやったのに、恩を仇で返すんだから、どうしようもないクソ野郎だぞ。「まだ若くて未熟な奴だから」ってのは、何の言い訳にもならないぐらい憎むべき相手だわ。
ここは1959年版だと「瓦が総督の近くに落下した事故なのに殺人未遂だと誤解される」という形だったので、捉え方が大きく違っている。ジュダがティルス港へ連行される途中、エスターが水の入った茶碗を持って近付こうとすると兵士に阻止される。
しかしイエスが現れてエスターから茶碗を受け取ると、兵士は彼がジュダに近付くのを止めようとしない。それどころか、イエスがジュダと話し、倒れている彼を立たせるまで黙認している。
なぜ兵士がエスターは荒っぽく制止したのにイエスは許すのか、その理由がサッパリ分からない。
そこは「だってイエスだから」ってことでは突破できないぞ。イエスに特別なオーラがあるような演出になっているわけでもないし。ハー家の屋敷でジュダとメッサラが密会した時、兵隊が包囲する。これを受けてジュダはメッサラを「卑怯者」と罵るが、メッサラが兵隊を用意していたわけではないはずだ。その証拠に、彼は剣を受け取った後、誰にも言わず単独で屋敷へ来ていた。
ハッキリと描かれているわけではないが、その兵隊はマルクスが勝手に用意したのだろうと思われる。しかし、その場でメッサラがマルクスに抗議することも無いし、後から言及するわけでもない。
なので状況が分かりにくいし、メッサラの心情も伝わらない。
そこはメッサラが兵隊を呼んだかどうかで大きく意味が変わって来るんだから、ちゃんと説明した方がいいでしょ。ジュダは殺人未遂で捕まるまで、何の苦悩も葛藤も抱えていない。
捕まってガレー船の漕ぎ手になると、生き延びることだけを考えるようになる。
船が沈没して解放されると、今度はメッサラへの憎しみを募らせるようになる。
分かりやすいっちゃあ分かりやすいけど、キャラとしての厚みや深みはメッサラに完敗している。
一方、5年が経過しても、メッサラは悪に染まったりしていない。ユダヤ人の処刑には反対しないけど、それは立場を考えれば仕方が無いだろう。ホントはジュダに感情移入し、彼を応援したて気持ちが高まらなきゃマズいはずだ。だけど、どれだけ話が進んでも、っていうか話が進むほどに、彼が浅はかな愚か者にしか見えなくなっていく。
ただし、決して家族を殺されて復讐心に燃えることが愚かしいと言いたいわけではない。
映画としては、イエスの教えやエスターの言葉を使って「復讐心や憎悪を捨てるべき」と説いているし、そういう着地に向けて進めている。でも、復讐心を抱くこと自体を否定しようとは思わない。
問題は、その相手だ。前述したように、メッサラはジュダと家族を何とか助けようとしている。しかし打つ手が無くなったので、仕方なく全員の連行を命じたに過ぎない。彼は上の命令に従っただけであって、ジュダが彼だけに憎悪と復讐心を向けるのは御門違いなのだ。
彼がローマに対して怒りや憎しみの気持ちを向けるのであれば、メッサラに命令を要求したマルクスや、そのボスであるポンティウスが標的となるべきなのだ。
あと、ディスマスのことは、完全に忘れ去っているのね。
母と妹を殺された憎悪を激しく燃えたぎらせているのなら、その原因を作った奴に対する怒りもあってしかるべきじゃないかと思うんだけどね。原作や1959年版と同じく、当然のことながら本作品も「イエスのおかげでジュダは悔い改め、復讐心から解放される」という内容になっている。
しかし、それまで復讐心で頭が一杯になっていたジュダが、イエスの処刑を見た途端に悔い改めるってのは、御都合主義以外の何物でもない。そこまでは何の迷いも揺らぎも無かったわけで。
だから、ある意味では神のおかげなんだよな。
ただし、それはカトリックの神じゃなくて、デウス・エクス・マキナという神のおかげだけどね。それと、もうジュダは戦車競走でメッサラに勝利して復讐を果たし、気持ちがスッキリしちゃってるのよね。
その後で「イエスのおかげで復讐心から解き放たれました」ってのを描かれても、「そりゃあ既に復讐は果たしているからね」と言いたくなる。
今回はメッサラを死に至らしめず、大怪我を負わせただけに留めているけど、どっちにしろ同じことだ。
あと、そんなメッサラの元へジュダが赴いて「争いや憎しみは終わりにしたい」と持ち掛けるけど、一方的で身勝手だと思うだけだぞ。(観賞日:2019年8月14日)