『15ミニッツ』:2001、アメリカ

ニューヨーク市警殺人課のエディー・フレミング刑事は、これまでに多くの事件を解決し、マスコミの報道を通して有名人になっている。ニュース番組『トップ・ストーリー』のアンカーマンを務めるロバート・ホーキンスも、エディーの人気を利用して視聴率を稼いできた。
チェコ人エミルとロシア人ウルグが、アメリカにやって来た。彼らの目的は、裏切った仲間ミロスと妻タミラから分け前を貰うことだった。だが、ミロスが金を全て使っていたため、エミルは彼らを殺害する。映画監督志望のウルグは、それをビデオで撮った。だが、エミルとウルグは、殺害現場を1人の女に見られたことに気付く。
エミル達は殺害を隠蔽するため、ミロス達の家に放火して逃亡した。消防局の放火捜査員ジョーディー・ワーソーが現場に到着した時、既にエディーが相棒レオンと共に捜査を始めていた。ジョーディーと同僚コーフィンは、放火の証拠となる発火装置を発見し、エディーに渡した。エディーは、発火装置を持ってテレビの取材を受けた。
エミルとウルグは、目撃者の女が現場に残したエスコート・サービスの名刺を手掛かりに、彼女が美容サロンで働くダフネだと知る。一方、エディーと彼への同行を申し出たジョーディーも、ダフネの居場所をエスコート・サービスのオーナーから聞いた。
エディーとジョーディーが美容サロンに到着したのは、ちょうどエミルとウルグがダフネを脅迫して立ち去った直後だった。エディー達はエミルとウルグを追い掛けるが、レオンが銃を奪われ、コーフィンは負傷し、彼らに逃げられてしまった。
ダフネに会ったエディーとジョーディーは、彼女が不法滞在者で、妹をレイプした警官を殺した過去があることを知る。ジョーディーはダフネに同情し、彼女に消防署でシャワーを浴びさせた。上司に非難されたジョーディーに対して、エディーは軽率な行動を慎むよう告げた。
エディーはリポーターをしている恋人ニコレットにプロポーズしようと心に決めて、アパートで彼女を待っていた。だが、そこにエミルとウルグが現れ、エディーを椅子に縛り付けた。エミルはエディーを殺害し、その様子をウルグがビデオに撮影した。
エミルには、殺人罪で逮捕されても刑を逃れる計画があった。精神異常を主張して精神病院に入り、その後で正常だったことを証明する。そうすれば、「同じ犯罪で再び裁かれることは無い」というダブル・ジョパディー法によって、罪を問われずに済むのだ。
エミルとウルグは、エディー殺害を撮影したテープをホーキンスに100万ドルで売った。さらに彼らはダフネの部屋に発火装置を仕掛け、ジョーディーとダフネを始末しようとする。ジョーディーとダフネは、炎に包まれた部屋から何とか脱出した。
その夜、ホーキンスの番組でエディー殺害を撮影した映像が放映された。だが、それを見ていたエミルとウルグは、言い争いを始めてしまう。ウルグはカメラとテープを持って逃走し、残ったエミルは駆け付けたジョーディーに逮捕される。エミルはホーキンスの紹介で有能な弁護士カトラーを雇い、精神異常を装って、主犯はウルグだと主張する…。

監督&脚本はジョン・ハーツフェルド、製作はニック・ウェクスラー&キース・アディス&デヴィッド・ブロッカー&ジョン・ハーツフェルド、製作協力はジェームズ・M・フレイタグ&デヴィッド・ゲインズ、製作総指揮はクレア・ラドニック・ポルスタイン、撮影はジャン・イヴ・エスコフィエ、編集はスティーヴン・コーエン、美術はメイン・バーク、衣装はエイプリル・フェリー、音楽はアンソニー・マリネッリ&J・ピーター・ロビンソン。
出演はロバート・デ・ニーロ、エドワード・バーンズ、ケルシー・グラマー、エイヴリー・ブルックス、メリーナ・カナカレデス、カレル・ローデン、オレッグ・タクタロフ、ヴェラ・ファーミガ、ジョン・ディレスタ、ジェームズ・ハンディー、ダリウス・マックレイリー、ブルース・カトラー、シャーリーズ・セロン、キム・キャトラル、デヴィッド・アラン・グリア、ウラジミール・マシュコフ他。


メディアと法律と放火と他にも色々な要素を合体させようとして、とっ散らかってしまった作品。エディーをロバート・デ・ニーロ、ジョーディーをエドワード・バーンズ、ホーキンスをケルシー・グラマー、レオンをエイヴリー・ブルックスが演じている。
他にニコレッタをメリーナ・カナカレデス、エミルをカレル・ローデン、ウルグをオレッグ・タクタロフが演じている。この映画で最も輝いているのは、ロバート・デ・ニーロでもなく、エドワード・バーンズでもなく、間違い無くオレッグ・タクタロフだ。また、エスコート・サービスのオーナー役でシャーリーズ・セロンが出演している。

エディーとジョーディーというコンビを描く軸がある。一方でエミルとウルグという悪人のコンビも存在している。この2つを1つのストーリーの中でまとめることは、そう難しくないだろう。だから、シンプルなサスペンス・アクションであれば、問題は無い。
ところが、この映画は、そういう部分が主軸ではない。そういう要素もありつつ、メディアへの批判であったり、女性とのロマンスであったり、法律の問題であったり、そういった要素も絡んでくる。で、それらの要素が、全くまとまらずにバラバラになっている。

タイトルから考えても、エディー殺害が放映されるシーンが大きな意味を持っており、歪んだメディア社会を批判する視線が注がれているはず。ところが、映画のクライマックスはメディア批判には無く、報復の意志を持ったアクションを持って来る。
メディア批判を展開しておいて、収束させる段階に入って法律問題からアクションへというのは、何がやりたいんだか良く分からない。メディア社会の歪みを描くという所から話のアイデアが始まったはずなのに、出来上がったストーリーにメディア社会の問題が乗り切れていないという、本末転倒な状態になっている。

確かにエミルとウルグは悪党だが、本来ならば攻撃の対象は彼らではなく、彼らに踊らされるテレビ局の連中に向けられるべきだろう。メディア批判という部分を考えれば、エミルとウルグが主役の方がいいんじゃないかと思うぐらいだ。そして出来ることならば、彼らが最終的にマスコミも罠にハメて嘲笑する形にしてほしい。

この映画では、犯人に利用されたマスコミが何の咎めも受けずに終わっており、それだけでも後味は良くないのだから、いっそ徹底して犯人が勝利するぐらいでも構わない。
ただし、その場合は犯人をもっと理知的にしたり、最初からメディア利用の計画を練っていたり、エドワード・バーンズを犯人役に据えたりと、大幅に内容を変える必要があるが。
挑戦的な犯人を主人公が追うという形でも構わないが、「犯罪者がメディアを利用して大儲けできるのがアメリカだ」という部分をシニカルに描写した方がいい。そうでないのなら、無理にメディアを絡ませず、シンプルなサスペンス・アクションにした方がいい。

エディーとジョーディーが事件を捜査する動きには、メディアがほとんど絡まない。それなら、要らないと思う。犯人を追い掛けるアクションとか、ジョーディーとダフネが放火から脱出するアクションなども、メディアと全く絡まないのだから、要らないだろう。例えば犯人追跡をマスコミに邪魔されるという描写でもあるのなら、話は別だが。
ジョーディーがダフネにシャワーを浴びさせて上司から批判されるとか、エディーがプロポーズのための準備をするとか、そういう場面も無駄な道草だろう。例えばジョーディーの行動がマスコミで報道されるなら、話は別だが。そういう余計なことばかり描く一方、ホーキンスを始めとするメディアの連中は、中盤で全く出て来ない。

エミルがダブル・ジョパディーで無罪を勝ち取ろうとするという部分も、全く要らないだろう。それは、メディアを利用した作戦とは言えないし。大体、犯行をビデオに撮影しただけで精神障害だと思われるというのも、安易すぎると思うぞ。
犯人がメディアを利用するという部分を、上手く描写できているとは思えない。エディーを拘束して殺害するまでの様子は、その場で見せるより、『トップ・ストーリー』で放映される映像として初めて観客に提示した方が、効果的だと思うのだが。

エミルとウルグの行動には、一貫性が無い。ウルグはバカキャラだから置いておくとして、エミルは裏切った仲間と妻を殺し、娼婦まで無駄に殺害している。いずれもカッとなっての殺人だ。しかし、目撃者のダフネは、なぜか脅迫しただけで放置する。
そこまでは行き当たりばったりだったエミルだが、急にダブル・ジョパディーを利用するという利口な面を見せたり、エディーを殺す時になって計画的になる。発火装置を仕掛けてジョーディーとダフネを殺そうとするのも、急に計画的な犯行になっている。

そもそも、メディア型凶悪犯罪だということに大きな意味があるはずなのだが、エミルとウルグは、最初からメディア利用を考えているわけではない。最初はその場凌ぎの行動を繰り返し、エディーを殺す時になって、初めてメディア利用を考えている。
しかし、そんな風に行き当たりばったりで締まりの無い作品でありながら、この映画は結果的にはメディアを批判する形となっている。
それは、殺人まで視聴率稼ぎのネタにするメディアを批判する本作品自体が、その殺人シーンを売りにしているからである。

 

*ポンコツ映画愛護協会