『NINE』:2009、アメリカ

1965年、ローマの映画スタジオ「チネチッタ」。薄暗い無人のスタジオに入った映画監督のグイド・コンティーニは新作映画『イタリア』の脚本が書けずに悩んでいた。ほぼ完成したセットを眺めながらグイドが妄想ふけっていると、プロデューサーのダンテがやって来た。銀行が差し向けた監査役のファウストが同行しており、グイドに挨拶する。ダンテは「話は全て俺を通せ」と要求した。ファウストはグイドに、「慣例ですので、撮影に入る前に、脚本と予算表を出してくれませんと」と言う。
オフィスに向かうグイドは、スタッフのジャコネッリから「今の状態で10日後にクランク・インなんて無理ですよ」と泣きつかれた。ファウストの要求を無視してオフィスに入ったグイドは、衣装デザイナーのリリーに「コーヒーをくれ」と疲れた様子で告げた。一行も脚本が書けていないグイドは、「何も話すことが無いのに記者会見なんて出来ない」と泣き言を漏らす。リリーは「大丈夫よ、貴方は嘘の天才だわ。煙に巻けばいい」と話す。
ママと話す妄想を見ながら車を走らせたグイドは、記者会見の場に到着した。集まった大勢のマスコミに対し、ダンテは新作のタイトルが『イタリア』であること、主演女優が世界的女優のクラウディア・ジェンセンであることを発表した。記者たちから様々な質問が飛び、映画の内容について話すよう求められるグイドだが、ことごとくジョークでかわしていく。そんな中、ある男性リポーターは前の2作がコケたことを指摘した上で、「構想が決まっていないので、何も話せないんじゃないですか」と尋ねた。それには答えずに女性記者のステファニーと軽く言葉を交わした後、グイドは隙を見て会見場から逃げ出してしまった。
アンツィオにあるベラヴィスタ・スパ・ホテルに偽名でチェックインしたグイドは、フロントクラークのデ・ロッシに医者を呼ぶよう頼んだ。グイドは女優である妻のルイザに電話を掛け、「具合が悪いんだ。息が出来ない」と話す。「来て欲しい?」と訊かれた彼は、「もちろんだ。だから電話したんじゃないか」と答える。しかし場所を尋ねられたグイドは「どこだろう?どこかの温泉だ」と誤魔化し、「いいよ、2日もすれば帰る」と告げた。
グイドは愛人のカルラと連絡を取り、アンツィオに呼び寄せた。グイドが駅へ迎えに行くと、カルラは多くの荷物を持って嬉しそうに現れ、ベラヴィスタに宿泊することへの喜びを饒舌に語る。するとグイドは「ホテルで正体がバレたんだ。だから君と静かに過ごすためにペンションを取った」と話し、町の安い宿に連れて行った。カルラとセックスしてホテルに戻ったグイドは脚本を書こうとするが、やはり何も思い浮かばなかった。
ホテルに枢機卿が来たのを知ったグイドは、同行したマリオ神父に「アドバイスが欲しいんです。枢機卿に会わせて下さい」と頼む。承諾を取り付けた直後、ダンテが現れた。彼はカルラのいるペンションまで突き止めていた。グイドが弱った表情を浮かべていると、ダンテは「ローマが嫌なら仕方がない。こっちへ持って来た」と言う。彼はスタジオの設備とスタッフを丸ごとホテルへ移動させていた。グイドはクラウディアのマネージャーからの電話で脚本が届いていないことについて問われ、スタッフに責任を押し付けた。
アイデアが枯渇して悩んでいるグイドに、リリーは「もっと楽しい映画を考えてみたらどう?音楽とダンスを散りばめて人生の喜びを表現するのよ」と提案した。グイドはスパと枢機卿で会い、「答えを求めているのに、苦痛と絶望感しか無い」と吐露する。しかし枢機卿はアドバイスをくれず、「君はなぜ性行為を描くのか。君の想像力は道徳に欠けている。イタリア女性に教えなさい、良き妻になれと」と批判した。風呂に体を沈めたグイドは、少年時代に浜辺で娼婦のサラギーナと出会った時のことを思い出した。何もしていないのに、サラギーナと会ったというだけでグイドは神父によって連行され、神学校の校長から罰を与えられた。
ペンションで息苦しくなったグイドは、仕事へ行こうとする。カルラが同行を求めると、グイドは「ダメだ」と強く拒絶した。ホテルに戻ったグイドは、レストランで映画の内容についてスタッフと話し合う。そこにルイザがやって来たので、グイドは笑顔で迎えた。ダンテはルイザに、自分が推している新人女優のドナテッラを紹介した。マリオ神父が来たので、グイドはルイザに紹介した。マリオはルイザを「まさにカトリックの良妻でいらっしゃる。献身的で、犠牲をいとわない」と褒めた。
レストランにカルラが入って来たのを目にしたルイザは、「失礼、急に疲れが出て」とスタッフたちに嘘をつき、席を外した。グイドが追い掛けると、ルイザは「自分の馬鹿さに呆れて吐き気がするわ」と語気を荒らげた。訳の分からないグイドが「どうしたんだ?」と問い掛けると、彼女は「貴方は口を開けば嘘ばかり」と泣きそうな表情で非難し、その場を去った。レストランに戻ったグイドは、カルラから声を掛けられた。「ホテルを見たかったのよ、困らせに来たわけじゃないわ」とカルラが釈明すると、グイドは「でも結果的には、困らせることになった」と不愉快そうに告げた。
グイドはタクシーを呼び、外で待つようカルラに指示した。「一緒に待ってくれる?」と目を潤ませて言うカルラに、グイドは「俺は打ち合わせの最中だ」と激しい苛立ちを示した。カルラはタクシーを待たず、悲しみを堪えながら歩いてホテルを後にした。グイドは部屋に戻り、ルイザに「彼女は安いペンションに宿泊しているらしい。俺が呼んだのなら、このホテルに泊まっているはずだろ。彼女とは終わったんだ」と言い訳する。しかしルイザは全く信用せず、冷淡に突き放す態度を取った。
グイドがバーに行くと、ステファニーが話し掛けて来た。彼女から前作を絶賛されたグイドは、いい気分になった。彼はステファニーと肉体関係を持とうとするが、「ダメだ」と思い直して自分の部屋に戻った。グイドはベッドのルイザに「愛してる」と話し掛け、夫婦関係を修復しようとする。そこにペンションの女主人から電話が入り、カルラが睡眠薬を大量に摂取したと知らされたグイドは車で駆け付ける。幸いにもカルラは、医者の処置を受けて無事だった。医者は「卑しむべき人種だ、映画人というのは。モラルに捉われない特権があると勘違いしている」と見下した態度で告げた。カルラはルイジに、「貴方に愛されたい、それだけを考えてた」と訴えた…。

監督はロブ・マーシャル、原作戯曲はアーサー・コピット、脚本はマイケル・トルキン&アンソニー・ミンゲラ、製作はマーク・プラット&ハーヴェイ・ワインスタイン&ジョン・デルーカ&ロブ・マーシャル、共同製作はカトレア&ポール・エドワーズ、製作協力はジョディー・ハーウィッツ&マイケル・ジマー、製作総指揮はライアン・カヴァナー&タッカー・トゥーリー&ボブ・ワインスタイン&ケリー・カーマイケル&マイケル・ドライヤー、共同製作総指揮はアーサー・コピット&モーリー・イェストン、撮影はディオン・ビーブ、編集はクレア・シンプソン&ワイアット・スミス、美術はジョン・マイヤー、衣装はコリーン・アトウッド、振付はジョン・デルーカ&ロブ・マーシャル、作詞&作曲はモーリー・イェストン、歌曲はモーリー・イェストン、伴奏音楽はアンドレア・グエラ。
出演はダニエル・デイ=ルイス、ソフィア・ローレン、マリオン・コティヤール、ペネロペ・クルス、ニコール・キッドマン、ジュディー・デンチ、ケイト・ハドソン、ファーギー、リッキー・トニャッツィー、ジュゼッペ・チェデルナ、マルチナ・ステラ、ロベルト・ノービレ、アンドレア・ディ・ステファーノ、ロベルト・シトラン、レモ・レモッティー、ジュゼッペ。スピタレッリ、ヴァレリオ・マスタンドレア、エンツォ・シレンティー、フランチェスカ・ファンティー、ミシェル・アルハイケ、モニカ・スキャッティーニ、ヴァンサン・リオッタ、アレシア・ピオヴァン他。


フェデリコ・フェリーニ監督の映画『81/2』を基にしたブロードウェイ・ミュージカルを映画化した作品。
監督は『シカゴ』『SAYURI』のロブ・マーシャル。
グイドをダニエル・デイ=ルイス、ママをソフィア・ローレン、ルイザをマリオン・コティヤール、カルラをペネロペ・クルス、クラウディアをニコール・キッドマン、リリーをジュディー・デンチ、ステファニーをケイト・ハドソン、サラギーナをヒップホップグループ“ブラック・アイド・ピーズ”のファーギーが演じている。

この映画には、5人のオスカー俳優とアカデミー賞ノミネート女優(撮影当時)が顔を揃えている。
ダニエル・デイ=ルイスは『マイ・レフトフット』と『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』で主演男優賞、ソフィア・ローレンは『ふたりの女』で主演女優賞、マリオン・コティヤールは『エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜』で主演女優賞、ニコール・キッドマンは『めぐりあう時間たち』で主演女優賞、ジュディー・デンチは『恋におちたシェイクスピア』で助演女優賞を獲得している。
ペネロペ・クルスは『ボルベール <帰郷>』で主演女優賞候補、ケイト・ハドソンは『あの頃ペニー・レインと』で助演女優賞候補になっている(ペネロペ・クルスは本作品の撮影後に『それでも恋するバルセロナ』で助演女優賞を獲得している)。
ロブ・マーシャルが撮った『シカゴ』は作品賞を始めとする6部門を受賞しているし、「オスカーだらけの豪華作品」なのである。
しかし、この映画は、賞を獲得したメンツを多く揃えたからといって、必ずしも面白い映画が出来上がるわけではないということを証明している。

『81/2』の主人公を演じたのがマルチェロ・マストロヤンニであることを考えると、ダニエル・デイ=ルイスはミスキャストに感じる。
グイドは女にだらしなくてテキトーな男であり、そんな男が人生の混沌について考えるというのが『81/2』だった。しかし、ダニエル・デイ=ルイスは「演技に対して真剣に打ち込む真面目な男」というパーソナル・イメージが強く、だらしない男という印象とは大きく乖離している。
もちろん、役者というのは自分には無いモノを演じることもある仕事だが、やはり無理があるという印象は否めない。
当初はハビエル・バルデムがグイドを演じる予定であり、彼が降板した後の代役という事情はあるんだけど、それにしても「なぜ代役がダニエル・デイ=ルイスなのか」というところは引っ掛かる。
大物俳優を起用したいってのは分かるけど、他に誰かいなかったのか。

ただし、映画をしばらく見ていると、グイドのキャラクターとダニエル・デイ=ルイスは、そんなに合っていないわけではない。
何しろ、本作品のグイドは深刻でクソ真面目に悩み続けているし、愛人はいるけど「プレイボーイでだらしない男」という印象は薄いのだ。
「じゃあミスキャストじゃないんだから問題は無いでしょ」と思うかもしれんが、その陰気で辛気臭いキャラ造形そのものが大きなマイナスになっている。
そのせいで映画にはユーモアのカケラさえ無く、陰気な雰囲気に包まれてしまうのだ。

そもそも私は、大ヒットした『シカゴ』も高く評価していない。
あの映画でロブ・マーシャル監督が行った演出は、ミュージカル映画の魅力を著しく損なうものだったと思っている。
ミュージカルシーンの途中で何度も別の場所を写したり、細かくカットを割ったりして、「歌と踊りの世界」に入り込むことを妨害していた。
ドラマ部分とミュージカル部分を完全に分離し、ミュージカル部分を全て「ステージ上のモノ」「妄想の中の出来事」にする手法を、私は好意的に捉えることが出来なかった。

しかし巷の評価は高かったわけだし、映画は大ヒットを記録したのだから、それは世間一般には「面白い手法」「魅力的な手法」として受け入れられたということになる。
だから、この映画でロブ・マーシャルが同じ手法を使うのは、分からないではない。
そうなのだ、彼は本作品で、『シカゴ』と全く同じ手法を使っているのだ。
ドラマ部分とミュージカル部分を完全に分離し、ミュージカル部分は全て「グイドの妄想」という形にしてあるのだ。

その『シカゴ』スタイルに、またも私は拒否反応を覚えた。それは『シカゴ』の時よりも強い反応だ。
『シカゴ』の時も「これなら映画でやる必要が無いでしょ、演劇でいいでしょ」と思ったのだが、本作品でも同様の感想を抱いた。
ミュージカルシーンは全て舞台上で行われ、完全に「演劇におけるミュージカルシーン」として演出されるのである。
それは「ブロードウェイ・ミュージカルの様子を撮影してスクリーンに映しました」ってのと同じことじゃないのか。だったら、わざわざ映画にする意味など無いのではないか。

それに関しては、もう1つ引っ掛かることがある。
「なぜ舞台劇としてのミュージカルシーンになっているのか」という問題である。
前述したように、この映画のミュージカルシーンは全てグイドの妄想という設定になっている。
そのグイドは映画監督だ。
映画監督なのに、なぜ妄想する内容は舞台劇なのか。映画監督であるならば、映画的な妄想を広げるべきではないのか。
ミュージカルシーンを「いかにも映画的」なモノとして演出すれば、この作品は魅力的になった可能性があるんじゃないか。

もはや感想の大半は『シカゴ』と似たような内容になってしまうのだが、とにかくミュージカルシーンの魅力の無さが致命的。
今回も『シカゴ』と同様に、誰かが歌い始めても、そこに陶酔させてくれない。
その場所で、その格好のままで歌と踊りを始めるのではなく、必ず舞台セットに切り替わり、別の衣装で登場する(ルイザはテーブルから立ち上がってそのまま歌い出すが、場所はレストランのままではなく、やはり舞台セットに移動している。)。
それだけでも上手くないのだが、おまけにミュージカルシーンが始まっても、必ず途中で「現実」のシーンを挿入し、「妄想」の世界から意識を引き戻してしまう。

「妄想の中のミュージカルシーン」と「現実で展開されるドラマ」を完全に分断したことによって、この映画は作品の根幹に関わる大きな疑問を抱かせる結果になっている。
その疑問とは、「ひょっとして、ミュージカルシーンって要らなくねえか?」ってことだ。
この映画におけるミュージカルシーンはドラマ部分と繋がっていないので、そこを削って編集することは、難しい作業ではない。
そして、そこを全て削除したとしても、何の問題も無く1本の映画として成立してしまうのだ。
なぜなら、ミュージカルシーンはストーリー進行に何の影響も与えていないし、登場人物の心情は全てドラマ部分で表現されているからだ。

「途中で別の映像を挿入して邪魔をする」という問題をひとまず脇に置いてミュージカルシーンを批評したとしても、やはり魅力的ではない。
まず場所が舞台セットに限定されているので、幅広く動き回ることが出来ない。
楽曲の方も、あまりテンションを高めてくれるモノが無い。
とにかく「あまり楽しそうじゃない」ってのが厳しい。深刻に悩んでいるグイドの妄想だからなのか、弾けていないのだ。

最初の妄想シーンでは舞台に上がったグイドが順番に女優たちと絡むが、誰も歌わないし、一緒に踊るわけでもない。
それ以降、女優たちがミュージカルシーンで共演することは無い。
1人ずつ順番にグイドと絡んで、その度に1人ずつのミュージカルシーンが用意されているという構成だ。
その構成は平板で単調だし、メリハリも付けられていないし、女性たちは総じて空虚なデクノボー状態である。

映画はこれといった盛り上がりの無いまま、どんどん先へ進んでいく。
ミュージカル映画で盛り上がりに欠けるって、相当なモンだぞ。普通だったら、たとえドラマ部分が低調でも、ミュージカルシーンに入れば盛り上がるものなんだから。
せめてクライマックスとして「全員が集まって歌い踊っての大団円」があるのかと思いきや、何も無い。そもそもクライマックスと呼ぶべきミュージカルシーンが用意されていない。
だから、ただでさえ盛り上がっていないのだが、むしろ気持ちが落ちた状態で終焉を迎えるのだ。

(観賞日:2013年10月9日)

 

*ポンコツ映画愛護協会