『ナチュラル・ボーン・キラーズ』:1994、アメリカ

田舎のダイナーに、ミッキーとマロリーが立ち寄った。マロリーはジュークボックスで音楽を流し、体をくねらせて踊り始めた。そこへ、地元に住むソニーとアールが店に入って来た。ソニーはマロリーに下品な態度で近付くが、パンチとキックを浴びせられる。アールが止めに入ろうとすると、ミッキーはナイフで殺害した。ミッキーはコックを射殺し、店の外にいたソニーたちの仲間を始末する。マロリーがソニーを撲殺し、ミッキーはレジの金を奪った後、ウェイトレスのメイベルを銃殺した。最後に残った男性客に、マロリーは「人に誰がやったか訊かれたら、ミッキーとマロリーのノックス夫妻だって言うんだよ」と要求した。
マロリーは実家で暮らしていた頃、高圧的な父から性的虐待を受けていた。マロリーが母に助けを求めても、何もしてもらえなかった。マロリーは肉屋の配達人だったミッキーと出会い、互いに惹かれ合った。2人はマロリーの父の車を盗んで逃避行を試みるが、あえなく捕まった。ミッキーは刑務所に収監され、面会に訪れたマロリーは「親父はアンタに見つからない場所へ引っ越すつもりなのよ」と訴えた。ミッキーは強制労働の最中に発生した竜巻を利用して脱走し、マロリーの家へ向かった。ミッキーはマロリーと共に彼の父を殺害し、母をベッドに縛り付けて火を放った。
ミッキーはマロリーに求婚し、出血させた互いの掌を合わせて結婚の誓いを交わした。その後、2人は新人警官のジェラルド・ナッシュを皮切りに、12人の警官を次々に殺害した。さらに2人は、警官から逃亡する途中で自転車競技の銅メダリストも銃殺した。そんなミッキーとマロリーを、『アメリカン・マニアックス』という番組が取り上げた。クリエーターで司会者でもあるウェイン・ゲイルは、同じ映像を繰り返して使用することに「こんなんじゃ視聴者に愛想尽かされる」と不満を漏らす編集マンのデヴィッドに「脳味噌が腐った連中だ、覚えてるもんか。こんなモン、マジに見ないさ」と告げた。
多くのマスコミがミッキーとマロリーを取り上げ、2人は世界中の若者たちからヒーローとして崇められるようになった。ミッキーは車を走らせている最中に見掛けた少女をモーテルで拉致監禁し、マロリーとの情事を見せ付ける。しかし嫉妬心を燃やしたマロリーは途中で腹を立て、「この女とやってれば」と告げて部屋を出て行った。マロリーはガソリンスタンドへ行き、店員を誘惑してセックスに持ち込む。しかし店員が自分の正体に気付くと体を引き離し、銃を乱射して立ち去った。
翌朝、刑事のジャック・スキャグネッティーは、店員が射殺された事件の捜査を開始する。ミッキーとマロリーは荒野を走って町へ行こうとするが、道に迷ったことが原因で口喧嘩を始める。先住民の老人が暮らす小屋を見つけた2人は、中に入れてもらう。2人は小屋に泊めてもらうが、悪夢にうなされたミッキーは老人を射殺した。ミッキーは激しく動揺し、マロリーから「アンタはお世話になった人を殺したのよ。悪人よ」と責められて「あれは事故なんだ」と釈明した。
外に出たミッキーとマロリーは、ガラガラ蛇に噛まれてしまった。慌てて町へ戻った2人はドラッグストアへ駆け込むが、テレビを見ていた店員が正体に気付き、警察に連絡を入れた。ミッキーは店員を射殺するが、既に店の外にはスキャグネッティーと警官隊が駆け付けていた。警官を撃って抵抗したミッキーだが、スキャグネッティーはマロリーを人質に取って脅した。拳銃を捨てて店から出て来たミッキーだが、今度はナイフを振り回して抵抗する。しかし警官たちに取り押さえられ、激しい暴行を受けた。
1年後、スキャグネッティーは著書を出版し、テレビ番組にも出演する有名人になっていた。彼はミッキーとマロリーが収容されている刑務所へ行き、所長のドワイト・マクラスキーや看守のカヴァナー、ウーリッツアーたちと会った。ドワイトは彼に、ミッキーとマロリーが刑務所でも囚人3名と看守5名、医者1名を殺害したことを話す。ドワイトは囚人に対し、高圧的で横暴な態度を取っていた。
スキャグネッティーが刑務所に来たのは、ドワイトに呼ばれたからだった。ドワイトはロボトミー手術の処分を下したミッキーとマロリーを始末したいと考えており、スキャグネッティーに協力を依頼した。ドワイトは「大衆に尊敬されている君がすることだから、奴らを外へ連れ出した後で何が起きようとも、世間から文句は出ない。マトモな奴なら、あいつらが撃ち殺されても悲しまない」と話した。
ドワイトをスキャグネッティーをマロリーの独房へ案内する。問い掛けを無視して歌い続けていたマロリーは、扉に激突して倒れた。スキャグネッティーが「ミッキーは?」と尋ねると、ドワイトは「一番奥の独房だが、今は居ない。客が来てる」と言う。ゲイルが取材に来ているのだという。ゲイルはミッキーとマロリーを取り上げた回の続編を製作するため、プロデューサーのジュリーと共に刑務所へ来ていた。独占インタビューを求められたミッキーが承諾し、ゲイルは大喜びした。スーパーボウルの開催される日曜日、ドワイトは生中継を許可し、ゲイルはミッキーにインタビューする…。

監督はオリヴァー・ストーン、原案はクエンティン・タランティーノ、脚本はデヴィッド・ヴェロズ&リチャード・ルトウスキー&オリヴァー・ストーン、製作はジェーン・ハムシャー&ドン・マーフィー&クレイトン・タウンゼント、共同製作はランド・ヴォスラー、製作協力はリサ・ブラーモン・ガルシア&リチャード・ルトウスキー、製作総指揮はアーノン・ミルチャン&トム・マウント、撮影はロバート・リチャードソン 編集はハンク・コーワン&ブライアン・バーダン、美術はヴィクター・ケンプスター、衣装はリチャード・ホーナング、音楽はブレント・ルイス。
出演はウディー・ハレルソン、ジュリエット・ルイス、ロバート・ダウニーJr.、トミー・リー・ジョーンズ、トム・サイズモア、ロドニー・デンジャーフィールド、ラッセル・ミーンズ、プルイット・テイラー・ヴィンス、ジョー・グリファシ、エディー・マックラーグ、カーク・バルツ、マーシャル・ベル、エヴェレット・クイントン、バルサザール・ゲティー、デイル・ダイ、オーラン・ジョーンズ、テリレン、メリンダ・レナ、リチャード・ラインバック、ラリー・フラハーティー、グレン・チン、ロレイン・ファリス、スティーヴン・ライト、エヴァン・ハンドラー、コリンナ・ラズロ、エド・ホワイト、キャロル=レニー・モドラル、ショーン・ストーン、ジェレマイア・ビツイ、エディー“ドゥーギー”・コナ他。


ヴェネチア国際映画祭で審査員特別賞(オリヴァー・ストーン)とイタリア批評家賞(ジュリエット・ルイス)を受賞した作品。
ミッキーをウディー・ハレルソン、マロリーをジュリエット・ルイス、ゲイルをロバート・ダウニーJr.、マクラスキーをトミー・リー・ジョーンズ、スキャグネッティーをトム・サイズモア、マロリーの父をロドニー・デンジャーフィールド、先住民の男をラッセル・ミーンズ、カヴァナーをプルイット・テイラー・ヴィンスが演じている。
他に、人質になる看守のホモルカをジョー・グリファシ、マロリーの母をエディー・マックラーグ、TVカメラマンのロジャーをカーク・バルツ、ウーリッツアーをエヴェレット・クイントン、ガソリンスタンドの店員をバルサザール・ゲティー、メイベルをオーラン・ジョーンズが演じている。
アンクレジットだが、ダイナーの外にいて殺される3人組の1人をジェームズ・ギャモン、『アメリカン・マニアックス』の再現ドラマでミッキーを演じる男をマーク・ハーモン、終盤にミッキー&マロリーを導く囚人のオーウェンをアーリス・ハワードが演じており、まだ無名時代のエイドリアン・ブロディーがカメラマン役で出演している。

オリヴァー・ストーン監督は、この作品を実験的な映像で飾り付けている。
モノクロとカラーを混在させるシーンがあったり、イメージ・カット的な映像を挿入してみたり、マロリーが父から性的虐待を受けていた過去のシーンをソープ・オペラ的に描いて笑い声のSEを入れてみたり、アニメーションを使ってみたり。
そういう映像遊びは、最初の内は「面白いかも」と感じさせる力がある。でも、次第に「無駄にゴチャゴチャしてるなあ」という印象へと変わっていく。
それが物語を面白くするためのモノではなく、「まず映像遊びありきで、そのためにストーリーテリングや進行のテンポが阻害されても御構い無し」という印象を受けるからだ。
しかも、そういった遊びが過剰なせいで全てが「虚構の世界」になってしまい、こっちの気持ちは完全に冷え切ってしまう。

最初のシナリオを執筆したのはクエンティン・タランティーノだが、大幅に脚色したオリヴァー・ストーンとの間に激しい意見対立が生じた。タランティーノは自分の名前を外してほしいと要求するぐらい、この映画の仕上がりに不満だったらしい。
その理由は、何となく分からないでもない。
この作品から強く伝わってくるマスコミ批判のメッセージ性は、明らかに「社会派」を気取るオリヴァー・ストーンの本質であり、「とにかく面白い映画を作りたい」というタランティーノの考え方とは全く相容れないものだろう。
あくまでも予想に過ぎないけど、タランティーノとしては、無軌道に犯罪を繰り返すカップルの姿をテンション高く描写する単純明快な暴力映画にしたかったんじゃないかなあ。
ミッキーとマロリーって自分たちの快楽を満たすために犯罪を繰り返す連中だけど、そういうカップルであっても、タランティーノなら愛すべきキャラクターとして描くことが出来たんじゃないかという気がするんだよね。

それに関連して本作品の致命的な欠点を書いてしまうと、ミッキーとマロリーがちっとも魅力的じゃないのだ。
マロリーの父を殺害するシーンからして、既に共感を誘わない。
それでも一応、その殺人に関しては「性的虐待を繰り返していたクズを始末する」という形だから、まだマシな部類だ。
それ以降の犯罪に関しては、ホントに不愉快な連中でしかない。愛すべき点も、同情したくなる点も、これっぽっちも見当たらない。
道を尋ねられて親切に教えた警官をいきなり射殺するんだから、そりゃクソ野郎以外の何者でもないよ。

だから後半に入って刑務所に収監されても、それで共感できるように変化するわけではない。
周囲にも悪党を配置しており、ドワイトがミッキーとマロリーを始末しようと企んでいたり、スキャグネッティーがマロリーに性行為を強要したりするのだが、それによって2人の好感度が上がるわけでもない。
ドワイトが「マトモな奴なら、あいつらが撃ち殺されても悲しまない」と言っているが、ホントにその通りだし、さっさと始末してほしいと思ってしまう。
せめて「互いに対してだけは思いやりがあって優しい」とか、そういう設定でもあれば、そこに魅力を見出すことが出来たかもしれない。
でも、相手をコントロールしようとしたり、つまらないことで罵ったりと、他の面々に対してだけでなく、2人の関係においても横暴で荒っぽいんだよな。ミッキーの方は、すぐに他の女を求めちゃうし。
一途な思い、ピュアな愛なんてのは、全く見えて来ないのだ。

オリヴァー・ストーンとしては、「今の世の中をダメにした元凶はテレビジョンである」という考えがあったのかもしれない。
だから、ゲーム感覚で殺人と暴行を繰り返すミッキーとマロリーを狂言回しにして、テレビジョン&その作り手&踊らされる視聴者に対する批判を描きたいという気持ちが何よりも強かったのかもしれない。
だが、ミッキーとマロリーは狂言回しとして捉えるには自己主張が強すぎるし、彼らの視点で物語が進行される時間も長すぎる。
その一方で、メディアが2人を持ち上げるとか、ボンクラな若者たちが英雄扱いするとか、そういった部分の描写は薄っぺらいし。

それと、テレビジョン&その周辺に対する批判は、ものすごく説教がましくて鼻に付くだけだ。
後半に入るとミッキーが「殺人は純粋な行為なのに、マスコミが不純にした。見世物にした」などとマスコミ批判を並べ立てるのだが、単なる責任転嫁に過ぎない。
テメエらが身勝手なゲーム感覚で人殺しを繰り返していただけの奴が、「マスコミが悪い」と批判するのだ。
そんなメディア批判に、何の説得力があるだろうか。自分のやった醜悪な行為を正当化するための、陳腐で愚かしい詭弁でしかないのに。

そんで、最終的にミッキーとマロリーは生き延びてしまうのである。
都合良く暴動が発生し、その隙に乗じてミッキーが看守の銃を奪い、マロリーと共に脱獄しちゃうのである。
ニューシネマに対するアンチテーゼなのか、どういうつもりなのかは知らないが、なんで平然と生き延びてるんだよ。
最後にデイルを銃殺して逃亡するってことは、それもメディア批判の一部ってことなのか。
バカバカしい。

(観賞日:2013年10月8日)


第17回スティンカーズ最悪映画賞(1994年)

ノミネート:【最悪の作品】部門
ノミネート:【最悪の男優】部門[ウディー・ハレルソン]

 

*ポンコツ映画愛護協会