『28日後...』:2002、イギリス

動物愛護の活動家グループが、猿の実験を行っている霊長類研究所に潜入した。それに気付いた研究員は、「猿は凶暴性に取り付かれて いる。している。危険だ」と警告する。しかし活動家グループは無視し、猿を檻から出した。その途端、活動家の1人が猿に噛まれた。 直後、彼女の形相が変貌し、仲間に襲い掛かった。そして研究室では、無残な殺戮が繰り広げられた。
それから28日後。交通事故で意識を失っていた自転車メッセンジャーのジムは、ロンドン市内の病院で目覚めた。ベッドから体を起こした ジムは病院を歩き回るが、職員も患者も誰一人として見当たらない。彼は病院を出て街へ出るが、やはり人影は全く無い。教会に入った 彼は、礼拝堂で死体の山を発見した。ジムの前に神父が現われるが、いきなり襲い掛かってきた。さらに、死体の山に隠れていた連中も 立ち上がり、ジムを追い掛けてきた。
訳も分からず教会から脱出したジムは、男女2人組に救われ、地下鉄の売店に逃げ込んだ。その2人、セリーナとマークは、ジムに事情を 説明する。イギリス全土に特殊なウイルスが伝染し、政府も警察も機能しなくなった。感染者の血が体内に入るとウイルスに感染し、 怒りに取り付かれて凶暴になるのだという。感染した場合、10秒から20秒以内に殺さねばならない。
セリーナとマークの家族も、感染によってジムが両親の元へ行きたいというので、セリーナとマークも同行した。ジムが家に到着すると、 両親は遺書を残して自殺していた。今からロンドンへ戻ると途中で暗くなるため、ジムの家で彼らは一泊することにした。夜になって 感染者が襲ってきたため、セリーナとマークが撃滅した。マークの感染に気付いたセリーナは、ためらうことなく即座に殺害した。
街を歩いていたジムとセリーナは、マンションの一室に明かりが灯っているのを発見した。2人はマンションへ向かうが、感染者に襲撃 される。すると機動隊の装備に身を包んだ男が現れ、2人を階下へ上がらせて感染者を撃退した。その中年男フランクは、娘のハンナと 2人でマンションの一室で避難生活を送っていた。だが、既に水も食料も底を突き始めていた。
フランクの手動ラジオから、マンチェスター近郊で感染の治療法を持つ軍隊が避難所を用意しているという自動録音の音声が聞こえてきた。 そこに留まっても助かる見込みは少なく、ジムたちは車でマンチェスターへ向かうことにした。トンネルを通ろうとした一行だが、タイヤが パンクしてしまう。タイヤ交換の間に感染者が襲ってくるが、間一髪でトンネルから脱出した。
ガソリン補給で立ち寄ったガソリンスタンドで、ジムはチーズバーガーを食べようと施設に足を踏み入れた。そこで感染した少年に襲撃 されそうになり、ジムは初めて殺害を体験した。やがて一行はマンチェスターに到着するが、避難所らしき場所は閑散としていた。希望 を失って苛立つフランクは、カラスが死体をついばむ柱を蹴った。その弾みで死体から血が落ち、フランクの目に入ってしまう。感染に 気付いたセリーナは、殺すようジムに指示する。だが、ジムは慌てるばかりで行動を起こせない。
その時、茂みにいた軍人達が発砲し、フランクを始末した。彼らはジムたちを車に乗せ、指揮官であるウェスト少佐の待つ邸宅へ連れて行く。 彼らはそこを基地として使用し、庭に地雷を埋めて感染者の侵入に備えていた。ジムはウェストの案内で、1人の感染者が拘束されて いる場所へ赴いた。その感染者はメイラーという兵士で、観察のために生かしてあるのだという。
夜、感染者が庭に侵入するとサイレンが鳴り、兵士たちは戦いに赴いた。感染者を始末した兵士たちは嬉々として邸宅に戻り、セリーナに 卑猥な態度を取った。ジムはウェストに、兵士たちの失礼な振る舞いを改めるよう求めた。するとウェストは、兵士達にセリーナとハンナを 与えるつもりだと語った。未来に絶望した兵士の1人が自害を図ったため、ウェストは彼らに希望として女を与えると約束していたのだ。 ジムは拘束され、林に連行されて射殺されそうになる。しかし彼は何とか逃げ出し、セリーナとハンナの救出に向かう…。

監督はダニー・ボイル、脚本はアレックス・ガーランド、製作はアンドリュー・マクドナルド、製作総指揮はグレッグ・カプラン& サイモン・ファロン、撮影はアンソニー・ドッド・マントル、編集はクリス・ギル、美術はマーク・ティルデスリー、衣装はレイチェル・ フレミング、音楽はジョン・マーフィー。
出演はキリアン・マーフィー、ナオミ・ハリス、クリストファー・エクルストン、ミーガン・バーンズ、ブレンダン・グリーソン、 レオ・ビル、リッチ・ハーネット、スチュワート・マッカリー、ルーク・マブリー、ジュニア・ラニヤン、レイ・パンサキ、サンジェイ・ ランバルス、マーヴィン・キャンベル、ノア・ハントレー、アレックス・パーマー、ビンドゥ・デ・ストッパーニ、ジュカ・ヒルツネン、 デヴィッド・シュナイダー他。


ハリウッド進出に失敗したダニー・ボイルが、『ザ・ビーチ』の原作者アレックス・ガーランドによる初のオリジナル脚本を得て撮った作品。
第30回サターン・アワーズで最優秀ホラー映画賞を受賞した。
ジムをキリアン・マーフィー、セリーナをナオミ・ハリス、ウェストを クリストファー・エクルストン、ハンナをミーガン・バーンズ、フランクをブレンダン・グリーソンが演じている。
全編がデジタルカメラによる撮影。インパクトのある無人のロンドンの風景は、朝の早い時間に撮影したそうだ。

最近はキレやすい連中が増えていて、その理由についての研究も行われている。
キレる人が多くなった原因に、化学物質を挙げる研究者もいるようだ。
で、そのキレた時の行動を極端に誇張すると、この映画の感染者の出来上がりだ。
つまり、本作品の感染者はウイルスでキレやすくなっている連中なのだ。
だからゾンビのように人肉を食らったりはしない。

公開当時、ゾンビ映画としての宣伝はされていなかった。
まあ襲ってくるのは凶暴な感染者であって生ける屍ではないから、厳密に言えばゾンビ映画ではない。だから、そのような宣伝にならない のも当然と言えば当然だ。
ただ、襲撃者の設定こそ異なっているものの、作品の中身はまるっきりゾンビ映画の作りになっている。
アレックス・ガーランドもジョージ・A・ロメロのゾンビ3部作を参考にしたと公言している。
なので、むしろ「ゾンビ映画としてちゃんと最後まで撮ってくれよ」と思ってしまう。

血液感染オンリーのウイルスが(空気感染はしない)、28日でイギリス全土が汚染されるだけでなくアメリカまで広まるものなのか。 なぜ感染者は日中の明るい場所では活動しないのか。
なぜ感染者が別の感染者を襲撃することは無いのか。
などなど、気になる点は色々とある。
ただし、ホラー映画には不条理な設定や展開が付き物であり、恐怖を喚起するための不条理ならOKだ。そんなところに理論的な 説明は求めない。

ただ、恐怖の喚起に繋がらない部分にも、引っ掛かる点が色々とある。
例えばジムたちは感染者と棒を持って戦うことが多いが、接近戦だと目や口から血が入る危険性が高いのに、大丈夫なのかと。
で、目や口から血が入ると危険なのに、なぜゴーグルやマスクを着用しないのか。
傷口からの感染を考えれば肌の露出も少ない方がいいはずなのに、そこへの意識も全く無いし。
フランクは登場した時は機動隊のような防護服を着用して体を守っていたのに、移動の際はそれを持って行かないで全くの無防備状態だ。

竜頭蛇尾。
本作品を一言で言い表すならば、その言葉が最適かもしれない。
というか、もっとハッキリ言えば、滑り出しの10分ぐらいに、この映画の見所は集約されている。
これから恐怖が増長していく予感を抱かせる冒頭のパニック発生シーン、そしてタイトルロールの後、5分ほど続く無人のロンドンの風景 。引いたカメラでも、ジム以外は誰一人として見当たらない街が醸し出す薄気味悪さ。
そして、教会で感染者に襲われ、慌ててジムが逃げ出すところまでに、見所は全て集約されている。

その後、セリーナやフランク&ハンナと合流して移動する展開へと移行するが、恐怖が増していくという印象は薄い。
セリーナやフランクは、いかにも危険そうな暗いトンネルに自分たちで突っ込というアホな行動を取り、無理にスリリングなシーンを 作る。
そのまま明るい場所を車で走っていけば安全なので、そうしないと感染者に襲撃される展開が出てこないからだ。
そしてトンネルに突入するだけでなく、まるで楽しいドライブのようにゲラゲラと笑っている始末。

その後も一行は、スーパーで食料を集めてルンルン気分でリラックス。
ジムは「チーズバーガーが食べたい」という理由で、いかにも危なそうな所へノコノコと足を踏み入れる。ハンナは冗談半分で、車を暴走 させて遊ぶ。一刻も早く目的地へ到着することを目指すべきだろうに、途中でピクニックをして楽しんでいる。
アホかと。
命の危険がある状況で、何故そんなに余裕ぶっこいでんのかと。
そりゃあ、ずっと気持ちを張り詰めたままでいると疲れるから、少しぐらいは心の休まる場面も必要かもしれん。
しかし、そこまでユルユルの空気は要らないのよ。

それでも、まだ前半は何とか見る気にさせてくれる。
しかしタフでクールなリアリストだったセリーナが「生き残るだけが全てじゃない」と考えを改めてからのテンションの低下と、映画の 下り坂は見事に比例する。
ウェストたちが登場してからの後半の展開は、もう興味を持ち続けるのが完全に無理なモノになる。
セリーナの気持ちと同様、映画も完全に腰砕け状態。
ウェストのクソ面白くもねえ義太夫なんて、聞きたくもないわい。

ウェストたちが現れると、「非感染者が感染者から逃げ惑う、もしくは戦う」という話ではなく、「非感染者のジムたちが、非感染者である ウェスト率いる兵隊と戦う」という話になる。「ウイルスに感染しなくても人間は凶暴化するものだ。人間とは醜い生き物なのだ」という 主張を描き出すになるのだ。
そうなると、感染者は完全にカヤの外になってしまう。
そういう「実はウイルスなんてどうでもいい」というような展開になると、もう完全に萎えてしまう。そこがやりたかったんだろうけどさ。
こっちとしては「いやウイルスによる変化にこだわってくれよ。人間の醜さを見せるにしても、“ウイルス怖い”の範疇でやってくれよ」 と言いたくなる。
ウイルス感染そのものを無意味にしてしまうような展開には、どうにも気持ちが乗らない。

そりゃあロメロ御大のゾンビ映画にだって社会批判の意識は含まれていたけどさ、そっちに引きずられすぎ。
ダニー・ボイルにしろアレックス・ガーランドにしろ、なんだよ、カッコ付けたかったのかと。
オレたちゃ単なるゾンビ映画、ホラー映画なんかで終わらせないぜ、もっと深いメッセージを込めた高尚な映画を作るぜ、とでも 言いたかったのか。
ゾンビ映画(と面倒だから言い切ってしまうけど)を作るのに、そんなセンスなんて無くてもいいのよ。必要なのは、揺るぎなきB級魂 なんだよ。

終盤になると、それまで軟弱者だったジムが急に戦闘能力の高い野生のサバイバーに変貌するが、それも「ウイルスに感染しなくても人は 何かのきっかけで急に変貌することがある」という意味での描写なんだろうか。
単に唐突な変身にしか見えないけど。
あと、この映画には2つのエンディングが用意されていて、別のエンディングはエンドロールの後に付け加えられた。
でも(完全ネタバレだが)「ジムが死んで終わり」というだけであり、わざわざアナザー・エンディングとして加えるほどのモノでもない。

(観賞日:2008年2月5日)

 

*ポンコツ映画愛護協会