『トゥー・ブラザーズ』:2004、フランス&イギリス

1920年代のカンボジア。ジャングルの荒れ果てた寺院で、双子の虎が誕生した。しばらくして、イギリス人冒険家エイダン・マクローリーがジャングルを訪れた。イギリスでオークションに出向いた彼は、人々の興味がアフリカからアジアに移っていると知ったのだ。寺院にやって来たエイダンは、父親の虎を倒し、双子の内の一匹を捕まえた。
近くの村を訪れたエイダンは、村長の娘ナイ=レアに心を惹かれた。しかし村長は警察に密告してエイダンを逮捕させ、子虎をサーカスに売り払った。サーカスの調教師ザルビーノは、その虎にクマルと名付けた。サーカスの売り物はシーザーと名付けられた虎のショーだったが、最近は衰えて動きが鈍くなっていた。
エイダンは行政長官ノルマンダンの計らいで釈放されたが、その代わりに頼み事をされる。ジャングルに観光道路を通す計画を進めたい彼は、その承認を得るために狩猟会を開いて知事の機嫌を取ろうと考えていた。その狩猟会に使う虎を捕まえてほしいというのだ。エイダンは承諾し、双子の片割れと母親の虎を捕まえた。
翌日、知事を招いて狩猟会が開かれた。母親の虎は息子を穴倉に隠し、エイダン達の前に姿を見せた。知事は左耳を撃ち抜くが、とどめを差さなかったため、虎に逃げられてしまう。子虎はノルマンダンの息子ラウールに発見され、サンガと名付けられて飼われることになった。ノルマンダンはエイダンに、逃げた虎を捕まえて皮を剥ぎ、知事に献上したいと言い出した。
逃げた虎を捕まえることに消極的なエイダンは、ザルビーノのサーカスが剥製製作も請け負っていると聞き、虎の皮が欲しいと告げた。シーザーが殺害され、皮を剥ぎ取られた。しかし、皮を献上された知事は、それが偽物だと一目で気付いた。シーザーが殺されたことによって、クマルはサーカスの売り物として育てられるようになった。
サンガが屋敷で自由に暴れ回り、ついにはノルマンダン家の飼い犬リッツィーを噛んだことから追い出されることになった。ノルマンダンは息子には内緒で、サンガを知事に献上した。サンガは果たし合い用のトラとして調教された。やがて知事が主催する園遊会で虎同士の果たし合いが行われることになり、クマルとサンガが連れて来られた…。

監督はジャン=ジャック・アノー、脚本はジャン=ジャック・アノー&アラン・ゴダール、イングリッシュ・ダイアログはジュリアン・フェローズ、製作はジャン=ジャック・アノー&ジェイク・エバーツ、共同製作はティモシー・バーリル&ポール・ラザム、製作協力はフローレ・ミッシェルズ&ベン・スペクター、撮影はジャン=マリー・ドルージュ、編集はノエル・ボワゾン、美術はピエール・ケフェレアン、衣装はピエール=イヴ・ゲロー、音楽はスティーヴン・ウォーベック。
出演はガイ・ピアース、ジャン=クロード・ドレフュス、フレディ・ハイモア、オーン・ニューエン、フィリピーヌ・ルロワ=ボリュー、ムーサ・マースクリ、ヴァンサン・スカリート、マイ・アン・レー、ジャラン・フェジャレオン・“シタオ”、ステファニー・ラガルデ、ベルナール・フラヴィアン、アヌープ・ヴァラパンヤ、デヴィッド・ガント他。


ジャン=ジャック・アノー監督が、『子熊物語』から15年ぶりに動物を主役に据えて撮った作品。
エイダンをガイ・ピアース、ノルマンダンをジャン=クロード・ドレフュス、ラウルをフレディ・ハイモア、ノルマンダンの妻マチルドをフィリピーヌ・ルロワ=ボリュー、ザルビーノをヴァンサン・スカリート、ナイ=レアをマイ・アン・レーが演じている。

『愛人/ラマン』『セブン・イヤーズ・イン・チベット』『スターリングラード』といった一連の作品によって、私はジャン=ジャック・アノー監督が良く言えば「じっくりと丹念に撮っていく人」であり、悪く言えば「淡々と退屈に撮る人」だと認識している。
なので、「動物映画の『子熊物語』を撮った人だから」という理由で、観賞前に期待することは無かった。
そのため、退屈な映画だったことに対する落胆は無い。
「まあ、そうだろうな」という予想通りの結果だったので。

動物というのは、細かい表情の変化や仕草などで感情を表現させるということが難しい。
だから主役に据える際は、例えばナレーションで心情を代弁させるとか、あるいは人間に声の吹き替えをさせるといった方法で、そこの問題点をクリアしようとする。あるいは、近くにいる人間キャラに、いちいち気持ちを説明させるという方法もあるだろう。
しかし、この映画では、そういった作業を全く見せていない。ただ目の前にいる虎の姿を映すだけで、その野生動物が何を考えているのか、どのように感じているのかを観客に知らしめようとする。
動物の芝居だけで心情を表現しようとするのは、ある意味では「果敢な挑戦」と言えるかもしれない。
しかし無謀な行為だったようで、やはり失敗に終わっていると言わざるを得ない。

クマルとサンガという双子の虎が主役であり、序盤で離れ離れになるので、てっきり私は「一方が人間に飼い慣らされて、一方は野生のままで育つ」という対比で見せていくのかと思った。
ところが実際には、クルマがサーカスに預けられ、サンガは知事に献上される。
形は違えど、どちらも人間に飼い慣らされていることに変わりは無い。

テーブルの下に隠れたサンガが靴に触れて、それを隣同士に座っているエイダンとマチルドが互いからのアプローチだと勘違いする場面は、ちょっと面白い。
ただ、それが後に繋がるのかというと、そうではない。
エイダンが用意した虎の皮が偽物だと知事は気付くが、そこから何か展開があるというわけではない。
知事が「フランスはカンボジアが変わったことを隠そうとしているだけ」と発言したりするが、文明批判をしたいのかと思ったら、後には続いていかない。

サンガはラウルに飼われるが、そこで友情が発生しているとは思えない。
まず何よりもサンガとラウルの触れ合いドラマに割く時間が短いということはあるし、サンガのラウルに対する感情は虎の芝居だけで感じ取るのは難しい。
ラウルのサンガに対する気持ちも、何も知らないガキンチョの身勝手な感覚にしか受け取れない。サンガは可哀想で、犬のリッツィーは噛み殺されてもいいのかってことを考えてしまう。サンガがふざけて噛んだとしても、相手が死んだら「ふざけてただけ」というのは言い訳にならないし。

再会したクマルとサンガは園遊会の会場から逃亡するのだが、すぐにジャングルへ行くのかと思いきや、車を襲撃したり、家に入って風呂に飛び込んだりしている。
もちろん、車には家にも人間がいる。
その場面、どうも「微笑ましい光景」として描いているが、なんか違うだろう。
クマルとサンガは楽しんでいても、そこにいる人間は心底から怖がっているぞ。
で、そんな様子が描かれた後に、ラウルがエイダンに対して「サンガは絶対に人を襲ったりしない」と言うシーンが出てくるので、思わず笑ってしまった。
もうね、「今すぐサンガに食われて死んでくれ」と思ってしまったよ。
だから最後、ラウルとサンガの絆、エイダンとクマルの絆で締めようとしているのだが、全く気持ちが乗れやしないよ。
それは絶対に無理。

 

*ポンコツ映画愛護協会