『ティモシーの小さな奇跡』:2012、アメリカ

養子縁組センターの職員であるイヴェットは、スタンリーヴィルに住むシンディーとジムのグリーン夫妻を面接する。書類の申請理由は空白になっており、夫妻は「多すぎて書き切れなかった」と説明する。養父母になるための体験について書き込む欄に、「ティモシー」と2人は記していた。「全て説明しないと申請に通らない」とイヴェットが言うと、2人は「話を聞いてもらいたくて来たんです。とても不思議な話なんです」と告げ、昨年9月からの体験を語り始めた。
夫妻は何年にも渡って不妊治療を行っていたが、昨年の9月に医師から諦めるよう促された。2人は悲嘆に暮れ、スタンリーヴィルに戻った。スタンリーヴィルは鉛筆の製造で成り立っている町であり、一部住民は「鉛筆工場を守れ」というビラを配っている。シンディーは鉛筆博物館、ジムは鉛筆工場で働いている。その夜、ジムは「諦め切れない」と言い、理想の子供について書き始めた。シンディーもジムに勧められ、自分が子供に望む条件を書いた。2人は何枚ものメモを箱に入れ、それを裏庭に埋めた。
その日の深夜、町は嵐に見舞われた。すぐに嵐は過ぎ去り、夫妻は屋内に入り込んでいる泥だらけの少年を発見した。少年は2人に、「僕はティモシー」と挨拶した。ジムは911に電話を掛け、行方不明者の通報が無いかどうか尋ねる。しかし、裏庭に視線をやった彼は箱を埋めた場所が掘り起こされているのを見て、電話を切った。一方、ティモシーを入浴させたシンディーは、彼の足に葉っぱが生えているのを発見した。「何も聞かないで」とティモシーが言うので、夫婦は「分かった」と告げる。
駆け付けた警官たちに「誤報だ」と釈明したジムは、雨など降っていないことを聞かされた。シンディーとジムがティモシーに「名前で呼んで」と言うと、彼は「ママとパパだ」と口にした。夫妻はティモシーを息子として受け入れ、育てることにした。翌朝、シンディーの姉であるブレンダと家族が、以前から約束していたバーベキュー・パーティーのために訪ねて来た。シンディーはティモシーに、庭や葉っぱのことは話さないよう求めた。
ジムから「念願だった子供が出来た」とティモシーを紹介されたブレンダたちは、養子を貰ったのだと解釈した。招待していなかったジムの父、ビッグ・ジムまで来たので、夫妻は困惑した。シンディーはティモシーを育ての親である叔父のボブと叔母のメルに紹介した。自転車で通り掛かったジョニという少女に、ティモシーは目を留めた。夫妻はティモシーを普通の子供として見てもらいたいと考え、植物に詳しい友人のレジーに相談して葉っぱを切ってもらおうとする。しかしハサミを入れたレジーは、葉っぱが切れないことを悟った。
次の朝、夫妻はティモシーを小学校へ送り届け、仕事に向かう。博物館で浮かれていたシンディーは、館長のバーニス・クラドスタッフに注意される。ジムが出勤すると、バーニスの息子である社長のフランクリン・クラドスタッフはリストラとして何名かを解雇すること、最悪の場合は工場の閉鎖もあることを従業員に通達した。夫妻は校長から連絡をを受けて学校へ行き、ティモシーが苛めに遭ったことを知る。ジムはティモシーを説得し、苛めたのがフランクリンの2人の息子たちだと聞き出した。
ジムが抗議に行くと、フランクリンは「子供が喧嘩をする度に首を突っ込むのか」と声を荒らげた。フランクリンの妻は事を収めるため、土曜日の誕生会にティモシーを誘った。ティモシーが喜んだので、夫妻は誕生会に行かせることにした。プールの飛び込み台に立っていたティモシーは、ジョニを見つけて嬉しそうな表情を浮かべた。彼はプールに飛び込むが、そのまま浮かんで来ない。ジョニはプールに飛び込み、靴下を脱がそうとする。葉っぱを見られたティモシーは抵抗し、誤ってジョニの顔を蹴り付けてしまった。
次の日、ジョニはティモシーを追い掛け回し、自分の胸にある大きな痣を見せて「私にも秘密がある」と言う。2人は仲良くなり、一緒に遊んだ。帰宅したティモシーは葉っぱが一枚取れているのに気付き、夫妻に気付かれないように隠した。ボブが倒れたという知らせが入り、夫妻はティモシーを連れて病院へ赴いた。ベッドのボブがティモシーと楽しそうに話す様子を見て、メルは「あんな風に笑うのを見ることが出来るなんて」と呟く。ティモシーはボブと話しながら、また葉っぱが一枚取れるのに気付いた。ティモシーはジムに視線を送り、容体が急変したボブは息を引き取った。
夫妻はティモシーに友達を作ってやりたいと考え、コーチのカルに頼み込んでサッカークラブに入れてもらう。まるで才能を感じさせないティモシーだったが、彼は元気に練習する。ティモシーがランニングを指示されると、ジョニが自転車で並走した。ジムはフランクリンから最初の解雇リストを見せられ、該当者に通達する役目を命じられた。仲間が辞めていく様子を見て、ジムはやり切れない気持ちになった。落ち込んでいるジムを見て、シンディーはティモシーと共に元気付けようとする。ジムはティモシーに、以前は新製品のアイデアをノートに書き留めていたことを話した。するとティモシーが、「新製品を考えれば?パパが考えてママが絵を描けばいい」と言う。夫妻は力を合わせ、葉っぱで作った鉛筆の試作品を完成させた。
子供の職場見学の日が訪れ、シンディーはティモシーを博物館へ連れて行く。祝賀会で展示されたバーニスの肖像画を見たティモシーは、「僕なら無料で描く」と言う。するとバーニスはティモシーに鉛筆を渡し、肖像画を描くよう促した。ティモシーはバーニスの眼鏡を取り、髪の毛を下ろさせた。ティモシーが見事な肖像画を完成させると、葉っぱが一枚取れた。彼はシンディーの忠告を聞かず、バーニスの顎に生えている毛も正直に描いた。それを見たバーニスはシンディーを含む館員3名を集め、自分への正直な意見を要求した。シンディーはティモシーに促されて正直にバーニスを批判し、博物館の仕事を解雇された。
ジムはティモシーに工場を見学させた日、「どうせ工場は潰れる」と諦めているフランクリンに試作品を見せた。しかしフランクリンは、まるで前向きな姿勢を示さなかった。紅葉の季節に入り、ティモシーはジョニと一緒に過ごすことが多くなった。心配になったシンディーはジョニと接触し、「息子に悪いことを教えないで」と告げる。するとジョニは、ティモシーと2人で作ったアート作品を見せた。
ティモシーはサッカークラブで補欠に回っており、ジムは父親の言葉を思い出して「今が補欠なら、この後の人生も補欠のままだ」と焦った。ジムも子供の頃は補欠が続き、父親からのプレッシャーに苦しんだのだ。一方、シンディーはブレンダが自分の子供の自慢ばかりすることに苛立ちを覚え、「ティモシーには音楽の才能がある」と嘘をついた。ブレンダは自ら主催する音楽会で、アンコールの演奏をティモシーに任せた。ティモシーがカウベルでリズムを取り始めたので、ジムとシンディーは歌と踊りで加わった…。

監督はピーター・ヘッジズ、原案はアーメット・ザッパ、脚本はピーター・ヘッジズ、製作はスコット・サンダーズ&アーメット・ザッパ&ジム・ウィテカー、製作総指揮はジョン・キャメロン&マーラ・ジェイコブス、撮影はジョン・トール、編集はアンドリュー・モンドシェイン、美術はウィン・トーマス、衣装はスージー・デサント、音楽はジェフ・ザネリ、音楽監修はデイナ・サノ。
出演はジェニファー・ガーナー、ジョエル・エドガートン、ダイアン・ウィースト、コモン、デヴィッド・モース、CJ・アダムズ、ローズマリー・デウィット、ロン・リヴィングストン、M・エメット・ウォルシュ、ショーレ・アグダシュルー、ジェームズ・レブホーン、オデイア・ラッシュ、ロイス・スミス、リン=マヌエル・ミランダ、マイケル・アーデン、ローダ・グリフィス、カレン・ケンドリック、シメイ・ベイリー、ジュディー・ラングフォード、マイケル・ビーズリー、カレン・モス、ジーン・ジョーンズ他。


フランク・ザッパの息子であるアーメット・ザッパが原案を担当し、『ギルバート・グレイプ』や『アバウト・ア・ボーイ』の脚本家であるピーター・ヘッジズが監督&脚本を務めたディズニー映画。
シンディーをジェニファー・ガーナー、ジムをジョエル・エドガートン、バーニスをダイアン・ウィースト、カルをコモン、ビッグ・ジムをデヴィッド・モース、ティモシーをCJ・アダムズ、ブレンダをローズマリー・デウィット、フランクリンをロン・リヴィングストン、ボブをM・エメット・ウォルシュ、イヴェットをショーレ・アグダシュルーが演じている。

オー・ヘンリーの短編小説『最後の一葉』がモチーフになっているんだろうけど、内容は全く違う。
『最後の一葉』は、落ちずに踏ん張っている最後の一葉を見た病人が生きる意欲を取り戻す話であり、最後の一葉を描いて死んでいく老人の自己犠牲も感じさせる内容だ。
それに対して本作品は、たぶん「切ないけれど心温まる物語」として仕上げたかったんだろう。
だけど、何をどう描きたいのかピントが定まっておらず、最後まで心に響く物が無いまま終わってしまった。

冒頭、グリーン夫妻が養子縁組センターを訪れ、ティモシーと暮らした出来事について語り始める。
つまり入れ子構造になっているのだが、そういう構造にしていることの意味やメリットが見えない。単純に時系列を負った構成を取り、ラストにティモシーが去って少し経過した後のシーンを短く入れればいいんじゃないか。
そして夫妻が孤児と出会う様子を描き、これから引き取ることを示唆して終わらせる形にでもした方がいいんじゃないかと。
ラストは「夫妻が養子を引き取る」というハッキリした形でもいいんだけど、それよりは「これから引き取ることになるだろう」ってのを匂わせるだけで終わらせた方が、余韻が残っていいんじゃないかと思う。

ちょっと意外だったのは、夫妻が不妊治療を断念するよう促され、この世の終わりかと思うぐらい落胆していること。
もちろんショックが大きいだろうとは思うが、アメリカは養子縁組が多く実施されている国なので、「養子を貰うという選択肢は全く無いんだろうか」という風に思ってしまったのだ。
実子を持つことの出来ない夫婦に対して安易に「養子を貰えばいいんじゃないか」と言うのはデリカシーの無いことなのかもしれないけど、この夫婦は冒頭シーンで養子縁組センターを訪れているわけで。
だから、余計にそう思っちゃうのよね。

ちょっと困惑してしまうのは夫妻の前に現れる子供が赤ん坊ではなく、既に小学校へ通う年齢の少年であること。
グリーン夫妻は「自分たちの子供」を欲しがっていたわけで、でも最初から小学生だと「自分たちの子供」として受け入れるのは難しいんじゃないかと思うんだよね。
突如として現れても、それが赤ん坊だったら「天からの授かり物」として受け入れやすいかもしれんけど、小学生は厳しくないか。
そりゃあ、箱を埋めた場所が掘り起こされているとか、夫婦が子供に付けようとしていた名前がティモシーだとか、色々と「自分たちの子供だと信じるための理由」は用意されているけど、どうしても引っ掛かりがあるんだよなあ。

ティモシーが来てから1年に満たない期間の物語なので、彼を小学生に設定しておかないと差し支えるという事情はあるのよ。
ただ、そこは例えば「成長スピードが異常に速い」ってことにするとかさ。
「赤ん坊じゃなくて小学生が突如として現れたが、息子として受け入れる」という部分の引っ掛かりが大きいことを考えると、そっちの方が違和感は抑えられるんじゃないかと思うんだけど。
そもそも、赤ん坊から育てず、いきなり小学生を引き取って育てるのなら、それこそ養子を貰うのと同じでしょ。

余計な要素を色々と詰め込み過ぎているのも問題だ。
細かいことを言うと、庭でパーティーをやっている際、ティモシーがジョニを見掛ける手順は全くの不要。
どうせ直後に学校へ行く展開があるんだから、そこで初体面させても全く支障は無い。
そのパーティーのシーンでは、ビッグ・ジムがドッジボールで手加減せず子供たちにボールをぶつけ、ジョニに見とれていたティモシーの顔面にも当てるのだが、それに何の意味があるのか良く分からん。

その後、夫妻が養子縁組センターで「ビッグ・ジムとは複雑な関係で」「でも父のようにはならないと誓いました」と語るシーンがあり、どうやらジムと父親の関係が上手く行っていないことも描きたいようだが、まるで消化できていないし、だから邪魔なだけになっている。
いっそのことジムの父親なんて出さなくてもいいぐらいだ。
あとシンディーの叔父と叔母夫婦も同様。何だったらブレンダさえ削除してもいい。
ジムとシンディーの身内を大勢出しているけど、まるで使いこなせていない。

「ティモシーがジョニに好意を寄せて」という淡い恋物語を盛り込んでいるのも、明らかに欲張り過ぎだ。そこはグリーン夫妻が全く関与できない物語になってしまう。
そうじゃなくて、この映画はグリーン夫妻とティモシーの疑似親子関係、その深い絆に集中すべきでしょ。
それを考えると、そもそもティモシーを学校へ行く年代にしていること、恋する年代にしていることも、邪魔な要素なんじゃないかと思ってしまうし。
あと、工場が閉鎖の危機にあるという設定も邪魔なだけ。なんでグリーン夫妻とティモシーの関係性に集中しないかなあ。
これが「ティモシーのおかげで暗かった町が明るくなりました。彼と関わった人々の生き方や考え方が変化しました」というドラマとして作っているならともかく、そういうトコにまで至っていないからね。

ティモシーがバーニスの肖像画に顎の毛を描き、正直な意見を要求されたシンディーはティモシーに促されてバーニスを批判するとクビになる。
「正直に話したことは後悔していません」とシンディーは語るけど、そのエピソードで何を観客に伝えたいのかサッパリ分からない。
ティモシーのおかげで夫妻が幸せになるのかと思ったら、むしろ逆なのよね。「正直者は馬鹿を見る」ってことでも言いたいのか。

ティモシーがジョニと仲良くなった後、葉っぱが一枚落ちる。ボブが死ぬ直前にも、葉っぱが落ちる。
何がどうなったら葉っぱが落ちるのか、そのルールがボンヤリしている。「何かが起きたら落ちる」ってのは、あまりにも範囲が広すぎるでしょ。それなら「ジョニと出会った」とか「誕生会に呼ばれた」とか、そういうことで葉っぱが落ちたっていいわけだし。
葉っぱが落ちる基準が、ホントに全く分からない。ルールや基準が不明瞭だから、葉っぱが落ちても、そこに何を感じ取ればいいのかがボンヤリしている。
「全ての葉っぱが無くなったらティモシーは死ぬか、もしくは消えるんだろう」ってのは、何となく推測できる。だけどルールが曖昧だから、「そういうことがあったら葉っぱが落ちるんじゃないか」という予感を抱くことが出来ないし、「少しずつ夫妻とティモシーの別れが近付いている」という感傷に浸ることも難しくなっているのだ。

物語の進んでいる方向やゴール地点がボンヤリしており、クネクネと蛇行しているような印象のまま時間が経過していく。
残り20分ぐらいになり、「ジムが少し強引な方法を使ってティモシーをサッカーの試合に出場するように仕向け、活躍するので興奮するが自殺点をチームが負けて、夫婦が激しい言い争いになる」という展開が来た時に、ようやく本作品が何を描こうとしているのか、何となく想像できる。
たぶん、「グリーン夫妻が本当に親になるための予行演習」という意味合いを持たせようとしているんだろう。
だからエピソードに一貫性が無く、様々な出来事を連ねているんだろう。

実際に子供を育てるとなれば、苛めを受けることもあるだろうし、異性の仲良しが出来て不安になることもあるだろう。まるで才能が見えないことに焦りを覚えたり、優れた才能を見せて興奮することもあるだろう。
自分が子供だった頃を重ね合わせることもあるだろうし、自分と親の関係が影響することもあるだろう。子供のせいで楽しい気持ちになることもあれば、逆に辛い体験をすることがあるかもしれない。
そこに映画的なハッキリとした統一感など見出せないだろう。
だけどさ、それを映画で見せられても、ただ単に「まとまりが無くて、何を伝えようとしているか良く分からん」という印象になるだけなのよ。
「子育ての縮図」として楽しむことは、ちょっと無理だわ。

最後にグリーン夫妻は少女を養子として迎えており、「ティモシーで子育てを体験したから、本当に養子を貰う時は大丈夫。グリーン夫妻は、きっと素敵な親になれることでしょう」という形で物語を締め括られいるんだけど、ちっとも腑に落ちない。
まず、ティモシーが子育てを学ぶための踏み台にされているという印象になってしまうのがマイナス。
それと、そこまでの物語が散らかり過ぎ&盛り込み過ぎってのが影響して、「夫妻が親として成長した」という印象が弱いんだよね。

(観賞日:2015年2月9日)

 

*ポンコツ映画愛護協会