『第七の予言』:1988、アメリカ

12月25日、ハイチ。1人の白人が海岸へと向かった。男が立ち去った後、高熱を持って死亡した魚が大量に打ち上げられた。12月28日、イスラエルのネゲブ砂漠。テロリストの町が大雪で氷漬けとなった。世界各地で異常気象が続いていた。
1月6日、カリフォルニア州ヴェニス。妊娠中の絵画復元技術者アビー・クインは検査を終えた後、幼稚園に予定入園を申し込んだ。しかし、彼女には流産の経験があったため、夫のラッセルは予定入園の事実を好意的には受け止めなかった。
弁護士のラッセルは、両親を殺害したジミーという少年の弁護を担当している。ジミーは死刑を求刑されており、ラッセルは一時的な心神喪失で死刑を免れようと考えている。しかし、ジミーは「罪人を殺しただけだ」と言い、精神病院行きを拒む。
アビーの元を、デヴィッド・バナンという男が訪れた。貸し部屋があると聞いて訪れたらしい。デヴィッドはハイチの海岸にいた男だが、それをアビーが知るはずも無い。少し変わっているが物静かなデヴィッドに、アビーとラッセルは部屋を貸すことにした。
やがてデヴィッドに不審を抱くようになったアビーは、彼の持っていた紙に世界滅亡の予言が書かれていることを知る。そして、彼女は自分のお腹にいる赤ん坊が、新約聖書のヨハネの黙示録に書かれた第七の予言であると確信する。
アビーはデヴィッドが赤ん坊を殺そうとしているのではないかと恐れていたが、彼は世界滅亡を見届けるために現れた神の子であった。デヴィッドは希望によって予言は変えられると告げるが、世界滅亡の実現を望むルチー神父がアビーに近付く…。

監督はカール・シュルツ、脚本はW・W・ウィケット&ジョージ・キャプラン、製作はテッド・フィールド&ロバート・W・コート、共同製作はキャスリーン・ホールバーグ、製作総指揮はポール・R・グリアン、撮影はファン・ルイス・アンシア、編集はキャロライン・ビッガースタッフ、美術はスティーヴン・マーシュ、衣装はドリンダ・ライス・ウッド、音楽はジャック・ニッチェ。
主演はデミ・ムーア、共演はマイケル・ビーン、ピーター・フリードマン、ユルゲン・プロホノフ、マニー・ジェイコブズ、ジョン・テイラー、ジョン・ハード、アコスア・ブシア、リー・ガーリントン、イアン・ブキャナン、パトリシア・アリソン、ヒューゴ・スタンジャー、マイケル・ラスキン、ラビ・ウィリアム・クラマー、ブランシェ・ルービン、フレデリック・アーノルド他。


新約聖書ヨハネの黙示録に書かれた世界滅亡の7つの予兆が次々に起きるというオカルト・ホラー。アビーをデミ・ムーア、ラッセルをマイケル・ビーン、ルチー神父をピーター・フリードマン、デヴィッドをユルゲン・プロホノフが演じている。

撮影当時、デミ・ムーアは実際にブルース・ウィリスの子供を宿していた。
この作品で彼女は特に必然性が無いにも関わらず、妊婦ヌードを披露している。
そして今作品は、妊婦ヌードが最大のセールスポイントになるような映画である。

オカルトっぽい雰囲気を出そうとしていることは分かるのだが、滅亡の予兆が次々に起きるといっても単なる異常気象だし、迫ってくるものが無い。
デヴィッドは謎の行動を取るが、そこから特に怖さが漂ってくるわけではない。

アビーはデヴィッドの持っていた紙を盗んだ後、そこに書かれているメナヒム語を解読できる若者アヴィと都合良く出会い、あっさりと内容を知る。
ヒロインは怯えているが、特に身に危険が迫るようなことが連続するわけではない。

夫は最初から最後まで、部外者であり続ける。
必要なのは彼ではなく、彼の弁護しているジミーだ。
ジミーのエピソードはアビーの“希望”として、それだけのために最後まで引っ張られ、終盤で強引にアビーと結び付けられている。
ものすごく無理がある展開だ。
しかし、ジミーが最後の殉教者らしいので、仕方が無いのだ。

アビーは世界滅亡の最後の予兆が、普通に暮らしている無宗教の平凡なアメリカ人女性である自分の腹の中にあると思い込む。
そんな彼女の様子を見て、周囲の人々は頭がおかしくなったと思う。
そしておそらく、多くの観客も同じ意見を持つことだろう。

アビーは自分の腹の中にいる赤ん坊が予言によって殺されようとしていると考え、自分独りだけで過剰にヒステリックに反応している。
そんな彼女に、あなたは感情移入できますか。
残念ながら、私には天地が引っくり返っても無理です。

アビーは「なぜ私がこんなことに?」と思う。
観客も思うだろう、「なぜ彼女の赤ん坊がが最後の予兆なのか?」と。
答えは簡単、「彼女が今作品の主人公だから」である。
それ以上に説得力のある答えは、この映画の中には存在しない。

 

*ポンコツ映画愛護協会