『ダイアナの選択』:2007、アメリカ

コネチカット州郊外のヒルヴュー高校に通う17歳のダイアナは、いつも大人に対して反抗的な態度を取っていた。母親から注意されても、その態度は全く変わらなかった。ある時、ダイアナはモーリーンという同級生と親しくなった。2人がトイレで恋愛話に花を咲かせていると、悲鳴が聞こえて来た。校内で銃の乱射事件が発生し、次々に生徒が殺されていたのだ。すぐにダイアナは、犯人が同級生のマイケル・パトリックだと確信した。彼が「銃を学校へ持って来る」と言うのを耳にしていたからだ。生徒たちを次々に射殺したマイケルは、教師のマクロードを撃ってトイレに現れた。
15年後。成長したダイアナは、哲学教授のポール・マクフィーと結婚生活を送っている。エマという娘にも恵まれ、表向きは幸せで平穏な日々が続いている。しかし15年前の悪夢は今でもダイアナの心を支配しており、彼女は精神安定剤を服用している。エマを学校まで送り届ける途中、ラジオからはヒルヴュー高校で行われる追悼式典に関するニュースが流れて来た。ダイアナはラジオを切り、式典の準備が進められている高校の前を通過した。
エマを学校まで送り届けたダイアナは、高校時代の同級生であるアマンダと再会する。アマンダから式典に行くのかどうか問われた彼女は、「まだ分からない」と答えた。アマンダはダイアナに、「やっぱり親子ね。貴方もワイルドだったけど、エマも学校で揉めてるって」と告げた。アマンダから「あの男を蹴って逮捕されたこと、覚えてるわ」と言われたダイアナは、「逮捕はされてない」と否定した。彼女は高校時代、ビッチ扱いして近寄って来た男子生徒の股間を蹴り上げて警察の厄介になったが、捕まったわけではなかった。
ダイアナは高校時代、マリファナを吸ったのがバレて運転教習が受けられなくなった。それを知ったモーリーンは、「私が教えてあげてもいいわよ」と告げた。大人のダイアナは運転中、マクロードを見掛けた。彼が撃たれて倒れていた現場を思い出したダイアナは、すぐに目を逸らした。高校時代のダイアナは、留守番を任された屋敷にモーリーンを呼んで勝手にプールを利用した。ダイアナは町での暮らしを嫌っており、いつか出て行きたいと願っていた。モーリーンは信心深く、教会に通っていた。
大人のダイアナは、エマがドラマの銃撃シーンを見ていると、急いでテレビを消した。エマは「ジョークみたいなものよ」と軽く言い、「怖がらないで」とダイアナに告げた。エマはダイアナの前で、「シスター・ベアトリスが嫌い、宿題が嫌い、学校が嫌い」と口にする。学校が嫌いなのは、高校時代のダイアナと全く一緒だった。「エマは大人の反応を見てる。ママの言いなりにはならないと口にしたこともあった。また学校から注意されたわ」と、ダイアナはポールに相談した。
ポールから首飾りをプレゼントされたダイアナは、寝室でモーリーンと撮った写真を眺めた。あの時、トイレに乗り込んで来たマイケルは、「2人の内、1人を殺す」と告げた。彼は威嚇としてサブマシンガンを別の方向に乱射し、「選択の時だ」とダイアナとモーリーンに迫った。その時のことを思い出していたダイアナは、目を覚ましたエマに声を掛けられた。「怖い夢を見たの」とエマは言い、眠るために本を読んでほしいと頼んだ。
高校時代のダイアナは、年上の恋人マーカスを家に連れ込んでイチャイチャした。彼女は礼拝を終えて教会を出て来たモーリーンに声を掛け、家でセクシーな衣装に着替えさせた。ダイアナは「恋人のネイトも喜ぶわよ」と言い、モーリーンの写真を撮った。休暇に入る1週間前、生物教師のマクロードは生徒たちに「こまめに水分補給するように」と助言した。授業の後、ダイアナは「このクラスで多くを学びました」とマクロードに礼を述べた。するとマクロードはダイアナに、「ポール・マクフィーという優秀な男の講演がある。レポートを書けばプラス評価を与えよう」と告げた。
美術教師として働く大人のダイアナは、アンナという生徒に着目した。アンナは反抗的な態度が目立つ生徒だが、その成績は優秀だった。「貴方なら大学にも行ける。その可能性にチャンスを与えるべきよ」とダイアナは持ち掛けるが、アンナは全く相手にしなかった。高校時代のダイアナは、モーリーンから「だらしない女という言葉で貴方はいつも怒るのに、いつもあんなことをするのは理解できない」と言われて腹を立てる。ダイアナは「死んじまえ」とモーリーンを罵り、「現実を見なさい。貴方は世の中が分かってない。世界にノーと言える?ノーと言える物なんて無いのよ」と告げた。
授業を終えた大人のダイアナは、廊下を歩いて行くマイケルの幻覚を見て事件のことを思い出す。あの時、選択を迫られたモーリーンは「どうしても殺すなら、私を殺して」と告げた。マイケルから「お前が言うべきことは?お前を殺すべきかな?」と問われたダイアナは、すぐに「私を殺さないで」と泣きながら告げた。「だったら、誰を殺せばいい?」と迫られたダイアナは、モーリーンと握り合っていた手を離して視線を床に落とした。
大人のダイアナはトイレでの出来事を回想し、「私はふさわしくなかった」と心で呟いた。高校時代のダイアナとモーリーンは喧嘩の後、すぐに仲直りした。大人のダイアナはエマのことで小学校から呼び出され、校長のシスター・ベアトリスに「貴方の娘さんは頭が良いけど、とても手に負えない。姿を消して、すぐに隠れてしまう」と注意された。ポールが若い女と一緒にいるのを目撃したダイアナは道路に飛び出し、車にはねられそうになった。事故に気付いたポールが慌てて駆け寄ると、道路に倒れ込んだダイアナは「一緒にいた女性?」と尋ねる。しかし一人で歩いていたポールは、「誰のことだ?」と首をかしげた…。

監督はヴァディム・パールマン、原作はローラ・カジシュキー、脚本はエミール・スターン、製作はヴァディム・パールマン&エイメ・ペロンネ&アンソニー・カタガス、共同製作はチェイス・ベイリー&クーパー・サミュエルソン&イアン・マクグローイン、製作総指揮はトッド・ワグナー&マーク・キューバン&マーク・バタン、撮影はパヴェル・エデルマン、編集はデヴィッド・バクスター、美術はマイア・ジェイヴァン、衣装はハラ・バーメット、視覚効果監修はマージョレイン・トレンブラ、音楽はジェームズ・ホーナー。
出演はユマ・サーマン、エヴァン・レイチェル・ウッド、エヴァ・アムリ、オスカー・アイザック、ブレット・カレン、ガブリエル・ブレナン、モリー・プライス、リン・コーエン、ジャック・ギルピン、マギー・レイシー、ジョン・マガロ、ナタリー・ニコール・ポールディング、オリヴァー・ソロモン、アンナ・レニー・ムーア、イザベル・キーティング、アダム・チャンラー=ベラット、タナー・マックス・コーエン、アルドウス・デヴィッドソン、アン・マクドノー、シャロン・ワシントン他。


ローラ・カジシュキーの小説『春に葬られた光』を基にした作品。
監督は『砂と霧の家』のヴァディム・パールマン。脚本のエミール・スターンは、これがデビュー作。
大人のダイアナをユマ・サーマン、高校生のダイアナをエヴァン・レイチェル・ウッド、モーリーンをエヴァ・アムリ、マーカスをオスカー・アイザック、ポールをブレット・カレン、エマをガブリエル・ブレナン、ダイアナの母をモリー・プライス、ベアトリスをリン・コーエン、マクロードをジャック・ギルピン、大人のアマンダをマギー・レイシー、マイケルをジョン・マガロが演じている。

冒頭、ダイアナのキャラクター描写もモーリーンの関係性も、かなり薄い段階で、もう銃の乱射事件が発生する。そして、マイケルが銃を持ってトイレに現れたところで、話は15年後に飛ぶ。そこから何度にも分割して、高校時代の様子が描かれるという構成になっている。
これが「高校時代の事件を今も引きずっているヒロインが、その心の傷と向き合い、前向きに生きていこうとするドラマ」であるならば、この構成は望ましくない。
先に高校時代のダイアナのキャラクターやモーリーンとの関係性をキッチリと描写しておくべきだし、トイレで起きた出来事も明確に描いておいた方がいい。
それをやっていないのは失敗ではなく、これは「成長したダイアナが過去の悲劇から立ち直り、前向きに生きていこうとするドラマ」ではないってことだ。

では本作品が何を描こうとしているのかっていうと、それは邦題にもなっている「ダイアナの選択」を巡る話である。
前述したように、この映画は冒頭で銃の乱射事件が発生するが、トイレで何があったのかは描かれない。そこは後半にならないと明確にならない。
ただし、これは「トイレで何があったのか」を明かすことが着地点になっているミステリー映画ではない。
そこを明らかにした上で(実はホントの意味で明らかになるのは最後の最後だが、それについては後述する)、「そこでのダイアナの選択は、それで本当に良かったのか」と問題提起し、ヒロインに苦悩&葛藤させることが目的だ。

しかし、ミステリーが本筋ではないとは言え、表向きはミステリーっぽく進んでいくことは確かだ。
そんな中で「高校時代の様子が何度も挿入される」という構成になっているのだが、これが観客を引き付ける上で効果的に作用しているとは思えない。
なぜなら、回想シーンで描写される内容は、どれも「トイレで何があったのか」に繋がる出来事ではないからだ。そこには伏線もヒントも隠されていない。
それは当然と言えば当然で、トイレでの出来事は何の前触れもなく唐突に起きた事件だからだ。

実を言うと、この映画のラストで明かされる真相に向けての伏線は幾つも張られて、それは回想シーンにも盛り込まれている。
ただし、「だから多くの回想シーンが必要不可欠」とは思わない。なぜなら、伏線は全て大人になったダイアナのシーンで張れば済むことだからだ。
実際、大人のダイアナのシーンにも色々と伏線はあるんだし。それ以外だと「だらしない生活を送っていたダイアナが、真っ当な生き方に目覚めるまでの経緯」を描くという意味合いはある。ただし、それを描くなら一気に見せちゃった方がいいし、それを見せたところで、「だから何なのか」と思ってしまう。
悲劇性を高めるために、そういう経緯を描いているのかもしれないけど、この映画のオチだと悲劇性は全く高まらないのだ。

で、そういうことを考えると、トイレで起きた出来事を隠したまま進めるという構成は、果たして本当に得策だったのかと思ってしまう。
「選択を迫られたダイアナがモーリーンを見殺しにした」ということを明らかにした上で、「大人になったダイアナの物語に高校時代の回想シーンを何度も挿入する」という構成にした方が良かったんじゃないかと。
その方が、「回想シーンに何の意味があるのやら良く分からん」というボンヤリした状態が、かなりクッキリとした輪郭として見えるようになるんじゃないかと。

どれだけ高校時代の回想シーンを挿入されても、「ダイアナが過去の事件を引きずっている」というところに上手く繋がらない。
また、後半になって「選択を迫られたダイアナがモーリーンを見殺しにした」ってことが明かされても、それなりに衝撃はあるかもしれないが、ミステリーの謎解きシーンのような面白味は無い。真相が明かされることで、そこまでに描かれた出来事の印象がガラリと変わるのか、「あの時のアレは、そういうことだったのか」という感想が沸くのかというと、答えはノーなのだ。
何も変わらないのだから、隠しておく意味が無いんじゃないかと。
むしろ構成としては、最初に高校時代のダイアナのキャラクター描写やモーリーンとの関係性をもう少し厚く描いておいて、乱射事件の起きるタイミングをやや遅らせ、事件発生の時点でダイアナがモーリーンを見殺しにしたことを明示し、ダイアナが大人になってからは「今の生活」を充実した描写にするという形の方がいいんじゃないかなあ。
詳しくは後述するが、大人になったダイアナのシーンは全て高校生のダイアナが見ている「もしも私が大人になったら」という白昼夢なわけで、その中で高校時代を回想する時間帯が多いというのは違和感があるし。

それと、たまに回想シーンのダイアナの態度や行動が理解不能な時があるんだよね。
例えば、生物の授業で使われている骸骨に男子生徒が矢印で「だらしない女」と落書きすると、ダイアナは不愉快そうな態度を示す。授業の後、急に彼女はマクロードに「このクラスで多くを学んだ」と礼を述べる。
その辺りの態度や行動は、どういう心境なのか良く分からない。
何よりも理解不能なのは、「だらしない女という言葉で貴方はいつも怒るのに、いつもあんなことをするのは理解できない」とモーリーンに言われた際に発する「現実を見なさい。貴方は世の中が分かってない。世界にノーと言える?ノーと言える物なんて無いのよ」という言葉。
ダイアナは何が言いたいのか、映画として何を伝えようとしているのか、それがサッパリ分からないのである。
ひょっとすると、それらは全て回想シーンなので、「事件の真相からダイアナが感じている心境」が関係しているのかもしれないけど、だとしても、やっぱり良く分からん。

さて、そろそろ完全ネタバレを書くが、実は大人のダイアナは実在しない。大人のダイアナが登場するシーンは全て、トイレでマイケルに銃を突き付けられたダイアナが見ている白昼夢だ。
モーリーンを見殺しにするという選択も事実ではなく、やはりダイアナの想像だ。
死を目前にした人間は、人生が走馬灯のように駆け巡ると良く言われるが、それに似た現象がダイアナに起きたのだ。彼女は「もしも自分が殺されずに成長したらどうなるのか」と想像し、その上で「それは正しくない選択だ」と感じ、マイケルに「私を撃って」と告げるのだ。
そしてダイアナが撃ち殺され、この映画は終わりを迎える。

たぶんキリスト教な考え方が強く盛り込まれているんだろうってことは伝わって来るし、だからホントは信心深い人じゃないと本作品を心底から理解することは出来ないのかもしれない。
ただ、クリスチャンではないボンクラな私からすると、「こんな映画を作って何がしたいのか」と言いたくなる。
まあオリジナル作品じゃなくて原作小説があるので、そこから存在している問題なのかもしれないが、だとしても「なぜ映画化したのか」という疑問がある。
何が引っ掛かるって、「何の救いも無いじゃん」ってことなのだ。

選択を迫られたダイアナが「私を殺さないで」と言い、モーリーンを見殺しにしたことで強い罪悪感を抱くのは、もちろん理解できる。
しかし、だからと言って、自分が助かるために親友を死なせてしまった彼女を全面的に「悪い奴」と非難することは出来ない。あのような状況になった時に自己犠牲の精神を発揮できるのは、ごく少数だろう。
それに、本当にマイケルが約束を守るかどうかなんて分からない。
そこまでに大勢を殺しているわけだから、選択させた後、両方を殺すかもしれないのだ。

しかし、この映画では、ダイアナの選択を「間違った選択」と断定している。そして、彼女が殺される側を選択することを「それこそが正しい道なのだ」と位置付けている。
原作がどうなっているのか、製作サイドがどう考えていたのかは知らないが、結果的にはそういう解釈になってしまうのだ。
しかし、悪いのはマイケル・パトリックであり、ダイアナもまた被害者なのだ。
もちろん本人は罪悪感を抱くべきだが、その選択を全面的に否定し、断罪するかのような結末に至るのは、どうしても受け入れ難い。

しかも、前述したように、この映画は救いが無い。
まず、ダイアナが最初に下した「モーリーンを見殺しにする」という選択だと、彼女は死ぬまで罪悪感を抱き続けなければいけなくなる。
しかし、モーリーンを救うために自分が犠牲になっても、それはそれで死んでしまうわけだし、その場合はモーリーンが永遠に罪悪感を抱き続けなきゃいけなくなるだろう。
つまり、どういう選択をしても、この話には救いが何も無いのである。

「最初の選択では、こうなりました。だから、もう一方を選択することにしました」という構成の話で、どっちの選択にも救いが無いって、どういうつもりなのかと。
そういう話であれば、もう一方を選択したらハッピーエンドが待ち受けている形にすべきだろうに。
この映画だと、もう一方の選択で決着を付けても、そこには不快感しか無い。
悲劇的な結末ではあるが、そこに悲劇のカタルシスは無く、製作サイドに対する怒りさえ込み上げてくる。

(観賞日:2014年11月20日)

 

*ポンコツ映画愛護協会