『天使が降りたホームタウン』:1989、アメリカ

少年時代の事故で頭が少し弱いホーマー・ランザは、アリゾナ州からオレゴン州に向けて旅に出ることにした。父親がガンを患っていると知ったからだ。彼はヒッチハイクをするが、止まった赤いフォードの2人組は強盗で、持っていた87ドルを奪われてしまう。
ホーマーはスクラップ工場に行き、オンボロ車の中で一番を過ごした。翌朝、車を動かそうとした黒人女性エディー・セルヴィーは、後部座席のホーマーを見て驚く。エディはホーマーを気絶させて金を奪おうとするが、相手は無一文だった。
息を吹き返したホーマーにエディーが金のことを尋ねると、彼は87ドルを奪われたことを語った。エディーはホーマーを車に乗せ、赤いフォードの2人組を探しながらオレゴン州に向かうことにした。エディーはレストランで文句を言った男に対し、急に凶暴な態度を取った。
エディーはホーマーを連れて、従妹エスターが働いている娼宿へ出向いた。エディーはホーマーの世話をエスターに頼み、代金を払うために近くの酒屋で店員を撃ってレジから金を奪った。娼宿を去ったエディーは、自分が脳腫瘍を患っていることをホーマーに語った。
やがてホーマーとエディーは、赤いフォードが停車しているのを発見する。ホーマーは強盗とは別人の車だと告げるが、エディーは持ち主の夫婦を拳銃で脅して金を奪った。エディーはウィルトン墓地にいる母リンダに会いに行き、脳腫瘍は治ったとウソを付いた。しかしエディーは実際には余命1ヶ月と宣告されており、病院から脱走してきたのだった…。

監督はアンドレイ・コンチャロフスキー、脚本はパトリック・シリロ、製作はモリッツ・ボーマン&ジェームズ・キャディー、撮影はラホス・コルタイ、編集はヘンリー・リチャードソン、美術はミシェル・レヴェック、衣装はキャサリン・キャディー・ドーヴァー、音楽はエデュアルド・アーティミエフ、音楽監修はデヴィッド・チャクラー。
出演はジェームズ・ベルーシ、ウーピー・ゴールドバーグ、カレン・ブラック、ナンシー・パーソンズ、アーネスティン・マックレンドン、アン・ラムゼイ、ビア・リチャーズ、ヴィンセント・スキャヴェリ、トレイシー・ウォルター、プルート・テイラー・ヴィンス、トム・“ティニー”・リスターJr.、バーバラ・ピラヴィン、ドン・ハンマー、パット・アスト、メイ・マーサー、エド・デフスコ他。


『暴走機関車』『デッドフォール』のアンドレイ・コンチャロフスキー監督がメガホンを執った作品。
ホーマーをジェームズ・ベルーシ、エディーをウーピー・ゴールドバーグ、娼宿の女主人をカレン・ブラック、ランザ家のメイドをナンシー・パーソンズが演じている。

ホーマーとエディーを、どういう人物として描きたいのかが分からない。
まずホーマーだが、オツムは弱いが純真無垢で騙されやすい青年として描きたいのだろうと思ったら、金を盗まれた直後には、老婆の目を盗んで万引きを働こうとする。おまけに万引きを指摘されると、ヘタなウソまでついて誤魔化そうとする。
妙なトコで、こずるい。

エディーが登場するシーンでは、彼女がチンケなコソ泥だということをアピールせねばならないはず。しかし、確かにホーマーの金を奪おうとはするものの、どうにも中途半端。それよりも、ホーマーを車に乗せたり、ピザをおごったりる親切心が前に出る。
ホーマーを車に乗せてやるのは、「彼が盗まれた金が目的」ということらしいが、あまりに動機としては弱すぎる。何しろホーマーが盗まれたのは、たった87ドルだ。ピザをおごってやるのは、もはや全く理由が無い。ただの親切心ということになってしまう。

別にエディーが優しいのは構わない。
しかし、それは「ワルぶっているが性根は優しい」という形であるべきだ。
この映画では、最初から優しさを見せすぎだ。そうではなく、「最初は車に乗せる気もピザをおごる気も無かったが、ホーマーのニコニコした無垢な笑顔や物欲しそうな表情を見て、仕方なく」という形が望ましいのではないか。

純真無垢なホーマーとの出会いでエディーが変化していくのかと思ったら、そういうことは全く無い。2人が互いに感化されるといったドラマは一向に見られない。そのくせ、ただ車が走っているだけというシーンを何度も挿入し、時間を稼いだりする。

最初にホーマーに対して優しさを見せたエディーだが、その後は話が進むにつれて、どんどん悪い奴になっていく。まずは少し文句を言っただけの男に殴り掛からんばかりの勢いで突っ掛かり、酒屋では店員を撃って金を奪う。エディーが別人だと言ってもお構い無しで、フォードの夫婦から金を奪う。終盤に入ると、人殺しまでしてしまう。
「あと1ヶ月で死ぬから、怖いから犯罪に走る」というのは、何の言い訳にもならない。エディーは何の同情も出来ない、ただの悪党だ。だからネタバレだが、エディーが撃ち殺されても「まあ仕方ないよな」としか感じないのである。観客がエディーに同情してこそという物語のはずなのに、それを拒否したら何の意味も無いと思うのだが。

こういう話では、「最初はワルだったエディーが、ホーマーの純朴さに触れる内に少しずつ改心していく」というのがパターンである。それは、あまりにもベタすぎるから、あえてパターンを外して、「ホーマーと出会って以降、エディーの悪党ぶりがどんどんエスカレートしていく」という形にしたのかもしれない。
しかし何の意味があるんだ、その天の邪鬼に。

 

*ポンコツ映画愛護協会