『食べて、祈って、恋をして』:2010、アメリカ

バリ旅行に出掛けたジャーナリストのリズは、薬剤師のクトゥ・リエを訪ねて占ってもらう。クトゥは彼女に、「長く生きて、多くの友達と経験に恵まれる。結婚は2度。長い結婚と短い結婚。10ヶ月以内に全財産を失うが、また取り戻せる」と告げた。半年後、ニューヨークに戻ったリズは、出産間もない友人のデリアから「母親って楽しいわよ」と言われる。デリアは夫が心の準備をするまでに、子供が出来た時に備えて子供服を買い込み、ベッドの下の箱に収納していた。
それを知ったリズは、「私が箱に溜めているのは、訪れたい場所の切り抜きや旅行雑誌よ」とため息をつく。デリアは彼女に、「子供を産むのは相当の覚悟が必要よ」と述べた。リズは夫のスティーヴンに、観光案内記事を書くためカリブへ出張することを話す。するとスティーヴンは、大学へ戻って教育学を学び直したいと明かす。深夜、リズは神様に祈り、「どうすべきか悩んでいます。教えて下さい」と泣きながら問い掛けた。ベッドに戻ったリズは、離婚を決意した。
スティーヴンは納得しなかったが、リズは別居生活に踏み切った。自分が脚本を書いた芝居の観劇に出掛けたリズは、男優のデヴィッドに目を奪われた。すぐにリズは彼との交際をスタートさせ、同棲生活に入った。スティーヴンはヨガの修行者であり、リズも集会に参加した。離婚協議の場に赴いたリズは、自ら弁護をを担当すると決めたスティーヴンから「離婚はしない」と告げられた。彼と醜い言い争いになったリズは、デヴィッドに愚痴をこぼした。全財産を渡すと持ち掛けても、スティーヴンは離婚を拒否した。
リズとデヴィッドを連れて、デリアの家を訪れた。デリアの夫であるアンディーはリズを見て、笑いながら「スティーヴン風だった君が、今はデヴィッド風。飼い主と飼い犬が似て来るようなものだ」と告げた。デヴィッドから「少し距離を置こう」と言われたリズはクトゥの言葉を思い出し、1年間の外国旅行へ出掛けようと決めた。デリアから思い留まるよう諭されても、「逃げてないわ。自分を変えたいの」と彼女は主張した。
「支えになる家族や友達がいるでしょ」とデリアが言うと、リズは「じゃあ貴方は私を支えてる?私は空っぽよ」と声を荒らげた。彼女はイタリアからインドへ渡り、最後はバリを訪れるとデリアに話した。弁護士のアンドレアかの電話で、リズは離婚の成立を知らされた。リズはデヴィッドに別れを告げ、イタリアへ渡った。安い下宿を借りたリズは、大家の婦人から「行きずりの男は泊めないように」と釘を刺された。
カフェでソフィーというスウェーデン人女性と知り合ったリズは、イタリア語の先生だというジョヴァンニを紹介される。リズは彼と昼食を取りながら、イタリア語を教わった。イタリアへ渡ってから3週間、リズは言葉を学ぶ以外は食べてばかりという生活を送った。床屋へ出掛けたリズは、ルカという男から「イタリア人からすると、快楽は当然の権利だ」と教えられ、ジョヴァンニからは「何もしない喜び、それがイタリア人だ」と告げられた。
リズはソフィーたちと様々な場所へ食べ歩きに繰り出し、イタリア語で普通に注文できるまでに上達した。ソフィーが体重を気にする様子を見せると、リズは「太るのは嫌だけど、罪悪感とは別れることにしたわ」とピザをたいらげた。ソフィーも同調し、ピザを口に運んだ。カフェのテレビでサッカーを観戦したり、大きめのジーンズを買ったりして日々を過ごす中、リズはデヴィッドに「ずっと一緒に暮らそう。惨めだけど、別れるよりは幸せだ」と言われたことを思い出した。彼女はパソコンを開き、「壊すことも大事。そこから新しい自分が生まれる。破滅を恐れて一緒に暮らすなんて最悪よ」とメールを送った。
リズは感謝祭にソフィーたちと会食した後、インドへ移動した。ヨガの道場を訪れた彼女は、瞑想の途中で居眠りしてしまった。彼女が目を覚ますと、テキサスから来ていたリチャードという男が「瞑想の途中で寝るのは君ぐらいだよ」と笑った。導師の弟子であるスワミは、リズに道場を案内した。瞑想の洞窟と呼ばれる場所は24時間ずっと開放されており、エアコンも付いていた。スワミはリズを、沈黙の行の最中にあるコレーラという女性と会わせた。それから彼は、作業着に着替えて誰にも課せられる奉仕の仕事を始めるよう促した。
リズが床掃除をしていると、トゥルシーという女性が話し掛けて来た。彼女は望まぬ結婚が近いこと、本当は大学で心理学を学びたいことを語る。「私って家族のはみ出し者」と彼女が言うと、リズは「私も同じよ」と微笑した。朝の詠唱を適当に済ませたリズが食堂にいると、リチャードが話し掛けて来た。彼がバツイチであることを明かすと、リズは「ここは魂の里のはずなのに、何の拠り所も感じない」と口にした。安らぎを求めて来たことを彼女が話すと、リチャードは「城へ行くには、まず堀を泳いで渡らないと」と述べた。
リズは瞑想に集中しようとするが、すぐに退屈してしまった。「堀に入ったか」とリチャードに訊かれたリズは、苛立ちをぶつけた。彼女が「瞑想室と内装のことで頭が一杯で、集中できない」と喚くと、リチャードは「瞑想室は心の中に作るんだ。人生を何とかしたけりゃ、まず自分の心を何とかしろ」と説教した。自然に身をゆだねるよう諭されたリズだが、耳を貸そうとしなかった。デヴィッドからの電話を受けたリズは、すっかり気持ちが落ち込んでしまった。
リズはリチャードに声を掛けられ、「彼を忘れたと思っていたのに、愛してる」と吐露する。リチャードは彼女に、「執着を捨てれば、大きな空きが出来て、入り口が見出せる。いつか君は全世界を愛せるようになる」と語った。「この胸の痛みは、いつまで続くの?」とリズが問い掛けると、彼は「君次第だ。瞑想し、仕事をこなせば何かが変わる」と述べた。「敬虔な気持ちになれないの」とリズが言うと、彼は「敬虔な気持ちは愛が生み出す。愛する対象を見つけろ」と説いた。
トゥルシーの結婚式に参列したリズは、自分の結婚式を思い出した。リチャードはリズに、酒と薬に溺れて仕事と家族を失ったことを告白する。ある時、彼は悪酔いして帰宅し、幼い息子を車でひき殺しそうになった。それを目撃した妻は、息子を連れて家を出て行ったのだと彼は話した。彼はリズに、「自分を許せるまで、ここにいるんだ。後は自然に任せろ」と述べた。合宿の主任ホステスを務めた後、リズはバリに移動してクトゥと再会した。バリ生活をスタートさせたリズは、フェリペというバツイチのブラジル人男性と出会った…。

監督はライアン・マーフィー、原作はエリザベス・ギルバート、脚本はライアン・マーフィー&ジェニファー・ソルト、製作はデデ・ガードナー、製作総指揮はブラッド・ピット&ジェレミー・クライナー&スタン・ヴロドコウスキー、撮影はロバート・リチャードソン、美術はビル・グルーム、編集はブラッドリー・ビューカー、衣装はマイケル・デニソン、音楽はダリオ・マリアネッリ、音楽監修はPJ・ブルーム。
出演はジュリア・ロバーツ、ハビエル・バルデム、ジェームズ・フランコ、リチャード・ジェンキンス、ヴィオラ・デイヴィス、ビリー・クラダップ、ハディ・スビヤント、マイク・オマリー、トゥヴァ・ノヴォトニー、ルカ・アルジェンテロ、ジュゼッペ・ガンディーニ、アンドレア・ディ・ステファーノ、マイケル・カンプスティー、ソフィー・トンプソン、ルシータ・シン、クリスティン・ハキム、アーリーン・ター、デヴィッド・ライオンズ、TJ・パワー他。


世界的ベストセラーとなったエリザベス・ギルバートの回想録『食べて、祈って、恋をして 女が直面するあらゆること探求の書』を基にした作品。
監督は『ハサミを持って突っ走る』のライアン・マーフィー。
ライアン・マーフィーと『ラブ&クライム』のジェニファー・ソルトが共同で脚本を手掛けている。
リズをジュリア・ロバーツ、フェリペをハビエル・バルデム、デヴィッドをジェームズ・フランコ、リチャードをリチャード・ジェンキンス、デリアをヴィオラ・デイヴィス、スティーヴンをビリー・クラダップ、クトゥをハディ・スビヤント、アンディーをマイク・オマリー、ソフィーをトゥヴァ・ノヴォトニーが演じている。

この映画の最大にして致命的な欠点は、ヒロインが身勝手なクソ女にしか見えないってことだ。
何不自由ない恵まれた生活を送っている女が「満たされていない」と感じ、特に落ち度があるわけでもない旦那に対して一方的に離婚を突き付ける。
金持ち女の身勝手な行動を、「自由を求める女の称賛すべき行動」として描く。
「最初は不愉快な女だったけど、次第に印象が変化していく」ってことは無い。
リズは徹頭徹尾、不愉快な女である。

ひょっとすると、そこをジュリア・ロバーツという女優の魅力で何とかしてもらおうと考えていたのかもしれない。
彼女が演じることで、ヒロインが醸し出す不快感を打ち消してくれるんじゃないかと期待したのかもしれない。
しかしジュリア・ロバーツというスターでも太刀打ちできないぐらい、このヒロインは不愉快極まりない。
っていうか、そもそもジュリア・ロバーツに、登場人物の不快感を消す力があるとも思えないけどさ。

「裕福な暮らしを送っている人間、恵まれた生活を送っている人間が、不満を抱いては駄目」とは言わない。
もちろん、どんな環境であろうと、不満や物足りなさを抱くことはあるだろう。
ただし、それを多くの人々が共感してくれるのかというと、それは難しい。同じように「裕福で何不自由ない生活を送っている」という環境にある人間は、それほど多くないからだ。
これが果たして「ブルジョアだけを観客層に想定して製作された映画」なのかってことを考えた時に、そこに厳しいモノがあると感じる。

そもそもブルジョアだけをターゲットにした映画なんてモノは、この世に存在するだろうか。
個人で勝手に作っている映画はともかく、商業ベースで公開される作品に限れば、そういうことを考えて製作する映画人ってのは存在しないんじゃないかと思うのだ。
そうなると、決して何不自由ない生活を送っているわけではない人々にも、共感してもらうための作業ってのが必要になるはずだ。
しかし、この映画には、そういう配慮が全く見受けられない。

「何不自由ない暮らしを送っている人間が不満を抱き、自由を求めて気ままな行動を取る」という話の場合、最終的に「本当の幸せは元の場所にあった」という『青い鳥』方式を採用すれば、たぶん多くの観客を納得させることが可能だろう。
この映画だって、「リズは自分が恵まれていたことを知り、旦那の愛に気付き、自分のワガママを反省して元の暮らしに戻る」という着地を用意すれば、スンナリと受け入れることも出来ただろう。
しかしリズは、自分の行為を反省したり謝罪したりすることは一切無い。
なぜなら、自分が身勝手だとは全く思っていないからだ。彼女は最後まで、自分が正しいと思い込んでいる。

「決して振り返らず、前だけを向いて進んでいく」ってのは、肯定的な表現として使われることが多い。
しかしリズの場合、「少しは振り返れよ」と言いたくなる。
っていうかさ、最初に占い師を訪れ、その男の言うことを全面的に信じている時点で、既に気持ちが冷めて自分がいたんだよな。
そういうヒロインを、例えば「意志の弱い負け組の女」として描くなら、それは問題ない。占い通りの出来事が起きることを喜劇として描くなら、それも問題ない。
でも、そうじゃなくて、「占いは全面的に信じるべき物」として描いているので、ちょっと拒否反応が出てしまう。
そもそも、それは占いっていうか予言なわけで。

スティーヴンから「大学へ戻って勉強したい」と打ち明けられたリズは帰宅すると、神に祈り始める。
その際、彼女はボロボロと泣いているのだが、どういう感情なんだかサッパリ分からない。
どこに泣きたくなるような出来事があったのか。夫の提案は、泣くようなことには思えない。
その後、モノローグで「1年前に買った家だけど、他人の家のよう」などと語っているけど、それも泣き出すきっかけには繋がらないし。

神に祈った結果、リズは離婚を決意するのだが、「なんでだよ」と言いたくなる。
どうやら旦那と価値観の違いを感じて離婚を決めた」ってことのようだけど、すんげえ安直で思慮深さに欠ける決断にしか思えない。
旦那が「大学へ戻って勉強したい」と言っただけで離婚するんだぜ。それに反対なら、なぜ意見を言わないのか。なぜ話し合おうとしないのか。その時点では、決して夫婦関係が破綻しているようには思えない。
直前までは、不和の雰囲気なんて全く見えなかった。だから、リズの決断には全く共感できないのだ。
8年も結婚生活が続いていたのに、あまりにも唐突だし。それまでの蓄積があっての離婚ならともかく、そんな風には見えないし。

そもそも「この生活は私が細部まで心を込めて築き上げてきた」と語っている時点で、不快感が漂う。なぜ「私」という人称なのか。
その暮らしは、旦那と2人で築き上げたもののはずなのだ。それを「全て私の力だけで築き上げた」と考えている時点で、この女はクソだ。
旦那の仕事や稼ぎは全く描かれていないので不明だが、仮に彼が無職でリズが家計を全て請け負っているとしても、それでも「私だけで築き上げた」という考えには不快感が湧く。なぜなら、スティーヴンがダメ夫には見えないからだ。
もしもスティーヴンがダメ夫だからリズが切り捨てたってことなら、そこを描くことは必須のはず。描かないってことは、「ダメ夫ではなかった」という解釈になるのよ。
リズは「他人を傷付けたくないから、裏から抜け出してどこかへ行きたい」と言っているが、いきなり離婚を宣告されたら傷付くだろ。この女は他人を傷付けても平気なのだ。

別居生活を始めた途端、リズはデヴィッドという男と付き合い始める。それは夫を忘れるために他の男と恋しようと努力した結果ではなく、別居直後に何の迷いも無く惚れている。ブレーキは掛からず、すぐに同棲を始める。
ここでハッキリするが、ようするにリズは最初から結婚生活不適合者であり、単なるアバズレだったのだ。
最初はスティーヴンが不憫だと感じたが、そこに来て「こんな女と別れて大正解だわ」と思えるようになる。
スティーヴンを哀れだと思う気持ちが解消されるのはいいが、それと同時にリズへの不快感は強まっているので、結局は映画にとって何のプラスにもなっていない。

デヴィッドと少し不仲になっただけで、リズは「じゃあ1年間の旅行へ出掛けよう」と決める。「自由気ままで、ようござんすね」と冷めた気持ちになる。
彼女は「支えになる家族や友達がいるでしょ」とデリアに言われると「じゃあ貴方は私を支えてる?私は空っぽよ」と責めるように告げるが、これまた単なるワガママだ。
デリアは間違いなく、リズを支えようとしていたのだ。
リズが空っぽなのは、本人の性格や考え方が愚かだからだ。それを周囲に責任転嫁して「私は悪くない」と訴えるんだから、まあ不愉快なこと。

リズはデリアに「ランチには何を食べる?」と問い掛け、「サラダかな」という答えに「ほらね」と呆れたような態度を取る。
「以前は持ってた食欲や生きる意欲が消えた」と彼女は言うが、ランチにサラダ食べるだけで、えらい言われようだ。ランチにサラダってのは、そんなにダメなことなのかと。
そんでリズはイタリアへ行くと決めるが、その理由は「新しい場所で驚きたい。イタリア語、ジェラート、スパゲッティー」ときたもんだ。
デリアは「女子大生みたい」と指摘するが、その通りだ。

「いい大人になったのに、まるでガキみたいなことを言い出す」ってのは、それだけで全面的に非難されるようなことではない。
遅れて来たモラトリアムを、好意的に受け取れるケースもある。
しかし本作品の場合、リズの不快指数が高すぎて、そこを好意的に受け入れることは不可能だ。
リズは「私は15歳の時から男とくっ付いたり離れたりで、自分自身を見つめる時間は2週間も無かった」と開き直ったように言うけど、それは本人の生き方を変えれば済むわけであって、わざわざイタリアへ行かなきゃ解決しない問題ではないし。

っていうか、ようするに「自分自身を見つめる時間が欲しい」ってのは建前であって、単に「イタリアで楽しいことがしたい」ってだけなのよ。アバズレ体質が改善されなければ、どこへ行こうが変わらないだろう。
そう思っていたら、やっぱり旅行へ出掛けても、すぐに男を欲しがるのだ。そんで最終的には、旅先で出会った男とくっ付くわけで。
もちろん、旅先で男と出会い、恋に落ちるという話が必ずしもダメってわけではない。
しかし本作品の場合、それは「リズが何も変わっていない」ってことにしか思えないのよ。

リズが旅行に出掛けると、今度は「内容がスッカラカン」ということが目立つようになる。彼女は「私は空っぽ」と言うが、ある意味では正解だなと感じさせる。
イタリア編では本人が言うように、ほぼ食べてばかりだ。「観光映画として見てくれ」ってことなのか。
インド編に突入すると、今度はタイトル通りに「祈って」が始まるのかと思ったら、祈りへの没頭は無い。理由は簡単で、楽しくないからだ。
リズにとって重要なのは「旅を楽しむ」ことなので、退屈なことは出来る限り避けたいのだ。

インドへ渡ったリズはヨガの集会に参加するが、真剣に取り組む気なんて全く無い。
だから瞑想の途中で、平気で居眠りする。本を読んで詠唱する修業でも鼻歌を口ずさみ、すぐに本を閉じてしまう。そして食事だけはモリモリと食べる。
リチャードの静かな説教を受けて、少しは改心するのかと思ったが、瞑想中に余計なことばかり考え、すぐに退屈してしまう。そのことを反省する様子も無い。
リチャードから再び説教されると「努力してるわ」と反論するが、彼女のやってることは努力の範疇に入らない。ただの言い訳だ。

デヴィッドへの未練を認識した後、リチャードの助言を受けたリズは、ようやく瞑想や詠唱を真面目にこなそうとする。
しかし、それは「デヴィッドのことを忘れたい」という気持ちから来る行動に過ぎない。
一方でスティーヴンのことを思い出すなど、男を求める体質は相変わらずだ。
しかも真面目に詠唱するシーンはチラッと写るだけだし、彼女が人間的に大きく変化し、成長したという印象は薄い。

っていうかイタリア編とバリ編も含めて、リズはどこへ行っても何も得ていないし、何も成長しちゃいない。最初から最後まで、ただ単に旅行を満喫しているだけだ。
インドでリチャードから説教され、一応は真面目に修業をする様子が描かれていたが、成長していないことはバリ編に入ると明らかになる。
まじない本を書き写すようクトゥから指示されたリズは、その膨大な量を見て辟易し、「持ち出し禁止」というルールを破って密かに持ち出し、コピー機で複写するのだ。
ねっ、性根は腐ったままでしょ。

リズは自分の結婚式を思い出した後、リチャードに「自分で決めた結婚だった。今は彼に許してもらって解き放たれたい」と言う。
本気でそう思っているなら一刻も早く帰国すべきだが、リズは旅を続ける。
リチャードに「まず自分を許せ」と言われた彼女は、「難しいわ」と口にする。しかしリチャードから身の上話を聞かされ、「自分を許せるまで、ここにいるんだ。後は自然に任せろ」と諭されたリズは、依頼された合宿の主任ホステスを遂行した後、バリへ移動する。
つまり、あっさりと自分を許したわけだね。

リズはリチャードから「自分を許せるまで、ここにいるんだ。後は自然に任せろ」と言われた直後、スティーヴンと踊る妄想をする。妄想の中でリズが「愛してたのよ」と言うと、スティーヴンは「分かってる。まだ君が好きだ」と告げる。「じゃあ愛して」とリズが述べると、スティーヴンは「君が恋しい」と口にする。
つまりリズは、「私にとっては過去の人だけど、スティーヴンは今でも私を愛している」という自分勝手な妄想を膨らませることで、「彼に許してもらい、自分を許した」と解釈するのだ。
すげえな、そのポジティヴ・シンキング。
感心はするけど、ちっとも見習いたくないわ。

終盤にはリズが恵まれない母子に多額の金を与えるシーンを用意しているが、何のリカバリーにもなっていない。
その施しも、「恵まれている人間の気まぐれな行為」にしか見えない。自分がフェリペと付き合い始めてハッピーになったので、ちょっとだけ「善行」をして良い気分に浸りたかったという程度のことだ。
トータルで見れば、この映画は最初から最後までリズの身勝手な行動を描き続け、それを全面的に肯定する。
これっぽっちも、「リズは間違っている」「リズは行動や考え方を改めるべきだ」というメッセージを発信しない。

だから当然のことながら、リズは最後まで人間的に全く成長していない。何しろ最初からリズは「全面的に正しい」行動を取っているわけだから、何も変える必要は無いのだ。
で、最初に「身勝手で不愉快な奴」と感じたヒロインが何も反省せず、まるで成長せず、最後までワガママを貫き通す話を見せられて、こっちは何をどう思えばいいのだろうか。
最終的には「ヌルくて空っぽの話だったなあ」という印象だけが残るんだけど、それは本作品が目指した答えなのだろうか。
たぶん、っていうか絶対に違うよね。
だとしたら、この映画は大失敗ってことになる。

(観賞日:2015年12月26日)

 

*ポンコツ映画愛護協会