『ダイナソー』:2000、アメリカ

白亜紀。イグアノドン子供アラダーは、ひょんなことからキツネザルのプリオに拾われた。プリオはアラダーを息子として育てようと考え、反対していた夫ヤーも結局は同意した。時が過ぎ、アラダーはヤーとプリオの娘スーリや友人ジーニーらと共に仲良く暮らしていた。しかし隕石の落下によって、その幸せな生活は終わりを告げた。
火災によって多くのキツネザルが死亡する中、アラダーは家族とジーニーを連れて島を離れた。やがて彼らは、大勢の草食恐竜の集団に遭遇した。クローンをリーダーとする集団は、生命の大地を目指していた。集団に加わったアラダーは、年老いた恐竜のベイリーンやイーマと親しくなる。彼女達はペースの速さに苦しんでいたが、冷酷なクローンは全く気に留めていなかった。
アラダーは地面を踏み締めて水を発見するが、クローンには疎んじられる。クローンの妹ニーラは、アラダーに心を惹かれるようになっていく。アラダーは速いペースに付いて行けないベイリーンやイーラ達と行動を共にするため、クローン達の集団から離れた。アラダーは、負傷して見捨てられたクローンの参謀ブルートンにも助けの手を差し伸べる…。

監督はラルフ・ゾンダグ&エリック・レイトン、オリジナル脚本はウォロン・グリーン、原案はトム・エンリケス&ジョン・ハリソン&ロバート・ネルソン・ジェイコブズ&ラルフ・ゾンダグ、脚本はジョン・ハリソン&ロバート・ネルソン・ジェイコブス、製作はパム・マースデン、共同製作はベイカー・ブラッドワース、撮影はデヴィッド・R・ハードバーガー&S・ダグラス・スミス、編集はH・リー・ピーターソン、美術はウォルター・P・マーティシアス、視覚効果監修はニール・クレペラ、音楽はジェームズ・ニュートン・ハワード。
声の出演はD・B・スウィーニー、アルフレ・ウッダード、オシー・デイヴィス、マックス・カセラ、ヘイデン・パネッティーア、サミュエル・E・ライト、ジュリアナ・マーグリーズ、ピーター・シラグサ、ジョーン・プロウライト、デラ・リーズ他。


ディズニーが公称1億5千万ドル(実際には2億ドルを超えているという話もある)という莫大な製作費を投入して作り上げたアニメーション映画。
アラダーの声をD・B・スウィーニー、プリオをアルフレ・ウッダード、ヤーをオシー・デイヴィスが担当している
。日本語吹き替え版ではアラダーを袴田吉彦、ニーラを江角マキコが担当している。

実写映像による背景とCGキャラクターの融合が、この映画の大きな売りだということは間違いない。
しかし、ここに投入されている技術と話の内容が、上手くフィットしていないように感じる。
どうやら「まず技術ありき」で始まった企画のようだが、だったら内容は御伽噺の方向性を選ばない方が良かったのではないだろうか。

この映画は愚直なまでに、ディズニーらしさを貫こうとしている。偽善的な寓話を、最新技術と破格の予算を注ぎ込んだ映像にハメ込んでいる。
しかし、リアリティーを追求していくアニメーションの絵柄と、メルヘンの世界観で繰り広げられる物語は、水と油のように混じり合わない。
この映画に石鹸水は存在しない。

これは現実に即した話ではない。草食恐竜は生き残って肉食恐竜は滅ぶというディズニーの伝統的善悪二元論に基づいた虚構の世界である。
その虚構を通すためには、これまでのセルアニメの絵柄でもキツいと思うのだが、それをリアル志向のアニメーションで展開しようとしているのだから、その単純メルヘン物語が浮いてしまうのも無理は無いだろう。

デザインや質感だけでなく動きまでリアル志向で描かれたキャラクターが、人間の言葉を喋り、種族の壁を越えて会話を交わす様子に、どうしても馴染めない。
しかも、そこでは「草食恐竜は言葉を話せるのに、肉食恐竜は話せない」という、いかにもディズニーらしい暗黙のルールまで御丁寧にも存在するのである。
同じようなアニメーション映像の作り方をするにしても、もっとキャラクターのデザインを柔らかい感じに、いかにもアニメ的な誇張を施せば、そこでの違和感は解消されたかもしれない。
しかし、何となく擬人化のテイストはあるものの、それが微妙なので、どこかグロテスクにさえ感じてしまう。

恐竜キャラクターを使用しているが、根本的には「青年の冒険」を描いている話だ。
しかし、そこには成長、挫折、苦難の克服、友情の絆、目標への強い思い、心情の変化など、ドラマに厚みを加える要素が欠けている。
話の薄さ、観客を惹き付ける魅力の乏しさを補うためには、ディズニーお得意のミュージカルシーンが有効ではないだろうかと、一瞬だけ考えた。
しかし、すぐに「この絵柄でミュージカルをやってもキツいものがあるなあ」と思った。

 

*ポンコツ映画愛護協会