『ダイ・ハード3』:1995、アメリカ
ニューヨーク5番街のビルで爆破事件が発生した。その直後、中央警察署にサイモンと名乗る犯人から電話が掛かってくる。サイモンは休職処分中のジョン・マクレーン刑事をハーレムへ向かわせなければ、別の場所を爆破すると告げる。
ストリートギャングに襲われそうになったマクレーンは、家電修理店の店主ゼウスに助けられる。サイモンは再び連絡を入れ、今度はマクレーンとゲームを邪魔したゼウスの2人に、ウォール街駅に向かうよう指示を出す。
制限時間に間に合わず、地下鉄に仕掛けられた爆薬は爆発する。しかし、マクレーンの活躍もあって被害は最小限に留まった。マクレーンに接触したFBIは、サイモンがかつてナカトミビルでマクレーンに殺されたハンス・グルーバーの兄だと告げる。
またもサイモンから連絡が入った。今度は市内の小学校のいずれかに爆弾を仕掛けたというのだ。警察は総動員で全ての小学校を調査することにした。だが、サイモンの狙いは、無防備となった連邦準備銀行から大量の金塊を盗み出すことだった…。監督はジョン・マクティアナン、脚本はジョナサン・ヘンスレー、製作はジョン・マクティアナン&マイケル・タッドロス、共同製作はカーマイン・ゾゾラ&デヴィッド・ウィリス、製作協力はロバート・H・レマー、製作総指揮はアンドリュー・G・ヴァイナ&バズ・フェイトシャンズ&ロバート・ローレンス、撮影はピーター・メンジーズ、編集はジョン・ライト、美術はジャクソン・デ・ゴヴィア、衣装はジョセフ・G・オーリシ、音楽はマイケル・ケイメン。
主演はブルース・ウィリス、共演はジェレミー・アイアンズ、サミュエル・L・ジャクソン、グラハム・グリーン、コリーン・キャンプ、ラリー・ブリッグマン、アンソニー・ペック、ニック・ワイマン、サム・フィリップス、ケヴィン・チェンバーリン、シャロン・ワシントン、スティーヴン・パールマン、マイケル・アレクサンダー・ジャクソン、アルディス・ホッジ他。
シリーズ第3弾。第1作でメガホンを取ったジョン・マクティアナンが、再び監督を務めている。マクレーン役はもちろんブルース・ウィリス。サイモンをジェレミー・アイアンズ、ゼウスをサミュエル・L・ジャクソンが演じている。
リチャード・ドナーが監督を務めた2作目に関しては、完全に無視されている。それはともかくとして、続けて出演しているレギュラーメンバーがマクレーンだけで、妻のホリーさえ姿を見せないというのは、シリーズ作品としては淋しいものがある。マクレーンは「たまたま巻き込まれた」という形にはなっているが、妙に楽しそうだ。
たぶん、彼はランニングシャツで暴れたくてウズウズしていたに違いない。
酒浸りになったのはホリーと別居したからではなく、暴れる機会が無かったからだろう。1作目の舞台は高層ビルの中で、閉じた空間ならではの緊迫感があった。
2作目では空港となり、閉塞感は薄くなった。
今回はニューヨークの街をあちらこちらと動き回るので、完全に閉じた空間の緊迫感は失われている。当初のシナリオでは精神異常者の犯行だったものを、シリーズに合わせるために手を加えたらしい。それが改善ではなく改悪になってしまったのだろう。
次々に派手なアクションシーンは登場するのだが、話にシャキッとした筋が1本通っていない。事件へのゼウスの関わり方は、かなり強引だ。
ゲームの邪魔をしたからといってサイモンがゼウスにも参加を強制するのは、サイモンの計画にとって全く意味が無いことだ。
そんな無理を通してまで作品にマクレーンの相棒を登場させたいのなら、その役目は仲間の刑事に割り当てれば良かったのだ。マクレーンとゼウスは時間制限の中で色々な場所に行かされるのだが、時間経過も地理的状況も非常に分かりにくい。ニューヨークの地理に詳しい人でないと、指定された場所まで通常ならどれぐらいの時間が必要なのかも分からないだろう。
時計を映し出して時間の経過を示すとか、地図を広げてどこからどこへ向かうのか指で差したりとか、そういった観客に分かりやすくするような配慮が全く無い。
だから、時間に追い立てられているという切迫感が伝わってこない。「〜時にタイマーを仕掛けた」と告げられてマクレーンが時計を見るシーンがあるのだが、文字盤を映さないから現在の時刻が分からない。
そういう肝心な部分で、アクションを盛り上げるための演出がポロポロと欠け落ちているのだ。ハンスの目的を復讐ではなく金塊略奪にしたことで、マクレーンにゲームを仕掛ける意味が全く無くなってしまった。
ハンスが金塊を盗むためには、地下鉄事故で警報スイッチを切らせ、爆弾騒ぎで警察を手薄にすればいい。マクレーンを指名する必要も、彼をゲームで振り回す必要も無いのだ。さんざん話を広げておいて、最後の10分ぐらいで慌ただしく事件を解決してしまう。
あれだけ騒ぎを起こしておいて、あっさり犯人退治は終了してしまう。
それはまるで、時間配分を間違えた生放送のテレビ番組のようだ。