『デビル・インサイド』:2012、アメリカ

1989年10月30日、アメリカ合衆国コネチカット州サウス・ハートフォード。911にマリア・ロッシという女性が電話を掛けて来た。マリアは応対した警官に、自分が3人を殺害したと告げた。ドレイファス警部補たちが現場検証を行うと、マリアの家では2人の司祭と1人の尼僧が惨殺されていた。事件から2年後、マリアは心神喪失で無罪が確定し、イタリアの医療施設に収容された。2009年、マリアの娘であるイザベラは25歳になった時、父から事件に関する真実を初めて知らされた。事件が起きた時、マリアは悪魔祓いをしていて正気を失ったというのだ。そのことを明かした3日後、イザベラの父は死亡した。
母に何が起きたのか知りたいと考えたイザベラは、ドキュメンタリー監督であるマイケル・シェーファーに映像を記録してもらうことにした。司祭の教会はエクソシストの存在を否定し、何も答えてくれなかった。ローマ司教区に連絡を取ると、マリアの悪魔祓いは認めていないという返答があった。そこてイザベラは、バチカンの悪魔祓い学校へ行き、母とも面会しようと考えた。11月26日、イザベラはマイケルと共にバチカンへ行き、ローマ使徒アカデミーで講義を聴いた。講義には聖職者ではない人々も出席していた。イザベラは聴講者の数名と話し、講義で教わるのは理論だけで儀式は行われないことを知った。
12月1日、イザベラは母の入院している精神病院へ行き、医師のコスタと会った。コスタから見せてもらった監視カメラの映像には、室内で暴れ出して取り押さえられるマリアの様子が捉えられていた。コスタはマリアの症状について、「憑依などではなく、脳の機能に問題があるんだ」と説明した。わざわざローマに移送された理由については、「分からない。私が着任する前の出来事だ」と彼は告げた。大量の薬物投与によって、現在のマリアは落ち着いた状態になっていた。
イザベラが話し掛けてもマリアは上の空で、「傷を繋げて」とブツブツと独り言を呟くだけだった。マリアの腕には、自傷行為の痕跡が幾つも残っていた。イザベラは「私に娘はいない」と言った後、急に「いるかも」と口にする。それから「子供を殺したでしょ。神の意思に反するわ」と告げると、急に狂ったような雄叫びを上げた。イザベラは使徒アカデミーの聴講生であるローリングス神父とキーン神父に、母と面会した時の映像を見てもらった。彼女は4年前に中絶したことを明かし、それを母が言い当てたのだと告げた。
映像を見たローリングスとキーンは、マリアの傷が悪魔崇拝で使われる逆さ十字架の形をしていること、に気付いた。2人はイザベラに、協会が悪魔祓いを拒否した人々のファイルを見せた。それらの人々について、2人は憑依だと確信していた。ファイルの中には、講義で映像が使われたローザという女性も含まれていた。教会はローザの悪魔憑きを否定していたが、ローリングスとキーンは「それは間違っている」と断言した。彼らは教会に許可を取らず、勝手に悪魔祓いの儀式を行っていた。
ローリングスとキーンはイザベラに、「人が死んだから、教会はマリアの件に深入りしない。母親を救いたいなら、悪魔祓いを見学して理解するべきだ」と持ち掛けた。12月3日、イザベラとマイケルは、ローザの悪魔祓いを見学させてもらう。ローリングスとキーンは科学的な方法を持ち込み、悪魔祓いを行っていた。彼らはローザの両手をベッドに縛り付け、憑依している「ベリト」という名の悪魔を祓おうとする。ローザは激しく暴れてベッドから逃げ出すが、彼らは必死に取り押さえて静かにさせた。
12月4日、ローマ司教区からイザベラに電話が掛かって来た。イザベラは母の再評価を頼んでおいたのだ。その答えは、無用な干渉は彼女の回復を妨げる」という内容だった。教会に拒絶されたイザベラに対し、キーンは病室での悪魔祓いを提案した。ローリングスは「教会にバレたら逮捕される」と反対するが、キーンの説得に折れた。12月7日、ローリングスとキーンはコスタに2時間の許可を得て、病院の関係者を退室させてもらった。ローリングスとキーンが薬を投与し、悪魔祓いが開始される。するとマリアに憑依している悪魔が口汚く罵り、キーンの体を吹き飛ばした。
悪魔は自分の名を「アスベエル」と名乗った。「母を解放して」とイザベラが求めると、悪魔は「お前は永遠の炎で焼かれる」と告げた。マリアの意識が正常に戻った後、コスタたちが来て撮影を中止させた。12月10日、イザベラたちは悪魔祓いの映像を確認する。マリアの声を分析すると、4種類の言葉を話していた。つまりマリアのケースは多重憑依であり、強力な悪魔が取り憑いているということだ。立場や目的の違いから、イザベラ、ローリングス、キーンの考えは対立する…。

監督はウィリアム・ブレント・ベル、脚本はウィリアム・ブレント・ベル&マシュー・ピーターマン、製作はマシュー・ピーターマン&モリス・ポールソン、製作総指揮はロレンツォ・ディ・ボナヴェンチュラ&スティーヴン・シュナイダー&マーク・ヴァーラディアン&エリク・ハウサム、撮影はゴンサーロ・アマト、編集はティモシー・ミルコヴィッチ&ウィリアム・ブレント・ベル、美術はトニー・デミル、衣装はテリー・プレスコット、特殊効果メイク・アップはリー・ハジェンズ、音楽はブレット・デター&ベン・ロマンズ。
出演はフェルナンダ・アンドラーデ、サイモン・クォーターマン、エヴァン・ヘルムス、イオヌット・グラマ、スーザン・クローリー、ボニー・モーガン、ブライアン・ジョンソン、ドクター・ジェフ・ヴィクトロフ、パメラ・デイヴィス、ジョン・プロスキー、クラウディウ・イソトドー、トマ・ダニラ、クラウディウ・トランダフィア、マリア・ジュンギエトゥ、イリンカ・ハーヌット、コーネリウ・ウリチ、アンドレイ・アラディッツ、ソリン・コシス、レリア・ゴルドニー、スザンヌ・フリーマン、グレッグ・ウルフ他。


100万ドルという低予算で製作され、全米で大ヒットを記録したホラー映画。
監督は『DEATH GAME デスゲーム』のウィリアム・ブレント・ベル。
脚本も同じく『DEATH GAME デスゲーム』のマシュー・ピーターマンと監督の共同。
イザベラをフェルナンダ・アンドラーデ、ローリングスをサイモン・クォーターマン、キーンをエヴァン・ヘルムス、マイケルをイオヌット・グラマ、マリアをスーザン・クローリー、ローザをボニー・モーガンが演じている。

超低予算で作られた『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』の大ヒット以降、世界中で何本ものモキュメンタリー・ホラーが製作されている。
その中には『パラノーマル・アクティビティ』のように、やはり低予算で大ヒットした映画もある。
どうやらモキュメンタリー・ホラーってのは、低予算で映画を作る上で、とても便利なジャンルのようだ。
低予算でヒットが見込めるし、もし興行的に失敗しても大幅な赤字を出すリスクは無いのだから、映画人が飛び付くのは当然のことなんだろう。

モキュメンタリーってのは当然のことながらドキュメンタリーを装っているわけだから、いかにリアリティーのある映像を作るかってのが重要になる。
しかしモキュメンタリー・ホラーは私が知る限り、どれも「ドキュメンタリーらしさ」という部分に大きな欠陥を抱えている。
特に「そんな危機的状況に陥ってまでカメラを回し続けるのは不自然」という問題を抱えている作品が多いような印象がある。
そして、その問題を上手く解消できているモキュメンタリー・ホラー映画を、私は1本も知らない。

この映画の場合、それ以前の段階で、ものすごく粗が多い。
まず冒頭、ドレイファスが現場検証を行う様子を記録した映像が写し出される時点で、もう嘘っぽい。監督としては、残酷で異様な殺害現場を見せることで観客の気持ちを掴みたかったのかもしれないけど、それが効果的だとは到底思えない。
むしろドキュメンタリーっぽさを狙うなら、その映像は見せない方が良かっただろう。テロップでの説明か、あるいはニュース映像だけで済ませておいた方がリアリティーは出たんじゃないか。
っていうか、いっそのこと、イザベラやマイケルを最初に登場させて、後から「こういう事件が過去に起きて、それについて調査を開始します」という始め方をした方が良かったんじゃないかな。
この映画のような「マリアが自ら通報し、警察が現場検証で死体を発見し、マリアが連行され、そしてイザベラが登場する」という構成は、むしろモキュメンタリーよりも通常のドラマ仕立ての方が向いている構成じゃないかと思うんだよね。

イザベラは「司祭の教会はエクソシストの存在を認めなかった」と言っているのに、その前にはカトリックの公式エクソシストという役職の人物が取材を受けている。教皇庁が公式には悪魔祓いを認めていないのに、悪魔祓い学校では公式エクソシストの神父が講義している。そもそも公式エクソシストの神父が講義しているってことはアカデミーも教皇庁の管轄に入るはずで、だったら取材が許可されているのも不可解だ。
そこに限らず、どこの施設へ行っても撮影が許可されるってのも無理がある。
例えば精神病院でも、「許可証がある」ということで撮影が認められる。コスタは病室から関係者を退室させることまで承諾する。
管理体制がヌルすぎるだろ。

「母に何が起きたのか知りたい」と考えた時に、「じゃあ悪魔祓い学校へ行こう」と思い付く神経回路が良く分からない。
「司祭の教会が何も答えてくれなかった」「ローマ司教区はマリアの悪魔祓いを認めていないというコメントを出した」という手順があっても、「だから悪魔祓い学校へ行くことにした」ってのは、流れとしてサッパリ理解できない。
なぜ「マリアや犠牲となった司祭&尼僧の周辺を取材しよう、聞き込みをやろう」という考えにならないのか。

イザベラの行動は、「母に何が起きたのか」ということよりも、悪魔祓いの儀式そのものに対する関心の方が強いようにさえ感じられる。
そもそも、8歳の時に事件が起きたのに、25歳になるまで一度も母の見舞いに行っていないってのも「なんで?」と思ってしまう。
幾ら「精神を病んで殺人を犯し、施設に入った」ということであっても、イザベラ自身が「母は心の広い人だった」と言っているんだし、それなら会いたいと思わなかったのか。

「イザベラとマイケルがイタリアへ向かう」という展開にしたことは、この映画で最も大きな失敗だろう。
なぜ低予算の映画なのに、わざわざイタリアへ行く内容にしてしまったのか。どう考えたって、アメリカ国内を舞台にすべきだろう。
イタリアを主な舞台にしたことによって、ドキュメンタリーを装う上では色々と不都合が生じる。
リアリティーを重視してバチカンを舞台にしたのかもしれないが、だとしても逆効果。
そのせいでリアリティーを出すには多くの作業が必要になっているし、その作業をサボっている、もしくは忘れているから、リアリティーは出ていない。

イタリアを舞台にしたことで生じた問題は色々とあるが、分かりやすいのは、出て来る連中が全員が普通に英語を喋るってこと。それは、かなり不自然だ。
イザベラもマイケルも、ほとんどイタリア語は話せず、通訳も同行させていないのに、撮影はスムーズに進行している。
取材を求められた面々がインタビューの中で英語を話すだけなら、それは分からないでもない。
しかし、例えばローマ使徒アカデミーでも、病院でも、みんなが英語を話している。
なんでバチカンなのに、英語が標準語なのかと。

キーンはマリアの病室で悪魔祓いを行うことに関して「私は教皇庁と上手くやってる。知られたら職が危うくなる」と不安を訴えているが、そもそもローザの悪魔祓いの儀式を撮影させている時点でマズいだろうに、今さら何を言い出すのかと。
そんなキーンが不安を募らせ、教皇庁に面会を取り付けさせるためにローリングスが「マスコミに話す」と脅しを掛けることを考え、イザベラが「母の件が解決するまで待って」と求め、3人の意見対立が起きるという展開がある。
それは悪魔祓いと関連しないので、邪魔なだけ。
そんなトコで中途半端な人間ドラマを入れようとしても、まるで効果は無い。

イザベラ、マイケル、ローリングス、キーンがそれぞれ固定カメラに向かって自分の考えや感情を話す様子が何度か挿入されるけど、そのための固定カメラが設置されている状況が不自然だ。
そこまでは「マイケルがカメラを回して取材する」という形だったんだから、3人の考えや感情を知りたいなら、そういう形を取るのが自然だろう。
その後、洗礼の儀式を行っている途中でキーンが赤ん坊を溺死させようとする様子が写し出されるが、そもそも洗礼の儀式を撮影している時点で不自然。それは今回の一件に何の関係も無いんだから。
それ以外のカメラワークにしても、基本的には手持ちカメラを使っているものの、途中でカットを割ったりしてドキュメンタリーらしさを薄めており、ホントにモキュメンタリーとして作ろうという意識があったのかと疑いたくなるぐらいだ。

映画を見ている途中で、「モキュメンタリーじゃなくて普通のドラマ仕立てで作れば良かったのに」と感じた。
この作品は、そういう形をとった方が絶対に質が良くなるし、面白くなるよ。決して傑作に仕上がるとは思わないけど、少なくとも本作品より遥かに出来のいい映画にすることは充分に可能だ。
そして、それを可能にする方法は、モキュメンタリーというジャンルを捨てることだ。
「ドキュメンタリーを装う」という仕掛けが、この映画では全てマイナスに作用している。

(観賞日:2015年3月3日)

 

*ポンコツ映画愛護協会