『ダーク・ウォーター』:2005、アメリカ

1974年、シアトル。幼いダリアは雨が降る中、学校の前で母が迎えに来るのを待ち続けていた。女性教師が中で待つよう促しても、ダリアは外で待ち続けた。2005年、ニューヨーク。ダリアは夫のカイルと離婚調停に入り、一人娘であるセシリアの親権を争っている。カイルはニュージャージーにアパートを見つけ、セシリアを養育するための環境を先に整えていた。彼が調停委員の前で「互いの養育費が安くて済む」と主張したので、ダリアは「ずっと娘に無関心だったくせに」と激怒した。
ダリアは6歳のセシリアを連れて、ルーズベルト島のアパートを見学に出掛ける。出迎えた不動産業者のマレーが、C棟の管理人を務めるヴェックを紹介する。ダリアは9Fの部屋を見せてもらうが、セシリアは古くて汚いので嫌がる。しかし養育権のことを考えると、ダリアは一刻も早く住居を見つける必要があった。確かに古くて汚いことは否めなかったが、2ブロック先に評価の高い小学校があることは、ダリアにとって望ましい条件だった。
ダリアがマレーの説明を聞いている間に、セシリアは部屋を出て屋上へ向かった。ドアの鍵は開いており、セシリアは屋上へ出た。ダリアは娘がいなくなったのに気付き、慌てて屋上へ向かう。するとセシリアは、貯水槽の前でハローキティのリュックを発見していた。マレーはダリアから「鍵も掛けないで」と責められ、鍵は閉めてあったはずだと釈明した。彼はヴェックの元へ行き、屋上の鍵について非難した。ヴェックは「鍵は閉めた」と主張するが、マレーは次に問題が起きたらクビにすると通告した。
ヴェックがリュックの中を調べると、女の子の人形が入っていた。セシリアはリュックを気に入るが、ダリアは「誰かの物よ」と諌める。マレーはセシリアに、「ヴェックが1週間預かって、誰も取りに来なかったら君の物だ」と告げた。セシリアが「ここに住みたい」と口にしたので、ダリアはマレーに手付金を支払って契約を交わした。
後日、ダリアとセシリアは引っ越しの荷物を部屋へ運ぶが、寝室の天井に水漏れの染みを見つける。翌朝、その染みは大きくなっており、ダリアは腹を立てた。セシリアを学校へ送り届けた彼女は、ヴェックに水漏れのことを話した。するとヴェックは「30年前の排水管だから、水漏れだらけだ。俺に出来るのは天井に何か張るだけだ。後はマレーに電話して水道屋を呼ぶんだな」と語る。放射線クリニックの面接を受けたダリアは、そこで働かせてもらえることになった。
ダリアはマレーに電話を掛け、水漏れのことを説明した。するとマレーは「ヴェックが修理すりゃいいんだ」と言い、自分がそう話していたことをヴェックに伝えるよう指示した。しかしダリアから話を聞いたヴェックは、「俺は水道屋じゃない」と修理を拒否した。ダリアがエレベーターに乗ると、9階のボタンを押したのに10階まで到達してしまった。エレベーターに乗って来た男性は、「前にもあった。接触がイカれてるんだ」とダリアに教えた。
ダリアが部屋に戻ると、天井の染みが広がっていた。バケツに溜まった水を捨てた後、ダリアはマレーに電話して対処を頼んだ。頭痛薬を飲んで転寝したダリアは、「ママ、起きて」という少女の声を耳にした。上の階から聞こえる物音が気になった彼女は、10Fの部屋へ行く。ノックするとドアが開くが、呼び掛けても応答は無かった。ダリアが部屋に入ると、部屋は水浸しになっていた。棚に目をやると、両親と幼い女の子の家族写真が飾られていた。
ダリアが洗面所へ行くと、水が出しっ放しになっていた。ダリアが蛇口を締めると、ヴェックがやって来た。彼は「悪ガキのスティーヴとビリーの仕業だろう。ここの家族は出て行った。父親は国外、母親は行方知れずで何ヶ月も帰って来ない」と話す。9Fの天井の湿った部分を取り外した彼は、明日には修繕すると約束した。ダリアはセシリアを迎えに学校へ行き、女性教師から「娘さんは想像上の友達を作っている」と聞かされた。
その夜、寝室に入ったセシリアが歌うと、少女の歌声が聞こえた。ダリアは親友のメアリーに電話を掛け、弁護士について相談する。また上の階から物音が聞こえたので、ダリアは電話を切った。セシリアが誰かと話す声を耳にして、ダリアは寝室へ入った。ダリアから「誰と話してたの?貴方にだけ見える友達?」と問われたセシリアは、「私と同い年の女の子。ナターシャ」と述べた。眠りに就いたダリアは、母から「お前が憎い」と罵られる夢で目を覚ました。セシリアも起きており、「眠りながら泣いてた。パパが出てってからよ。怖いからやめて」とダリアに頼んだ。
翌日、ダリアはメアリーから紹介してもらい、弁護士のプラッツァーに電話を掛けて会う約束を交わした。セシリアを迎えに行ったダリアは、カイルが学校へ来たことを知った。彼女は教師から、「娘さんが想像上の友達を歌の仲間に入れてほしいと言って大変だった」と聞かされた。ダリアはセシリアを連れて帰宅し、ヴェックが天井を修理するのを見届けた。セシリアが「あのリュック、貰える?」と質問すると、ヴェックは「持ち主が取りに来た」と言う。するとセシリアは、「嘘よ」と口にした。
ヴェックが去った後、ダリアはセシリアの失礼な言葉を注意した。するとセシリアは、「ナターシャが、リュックは机の中にあるって」と言う。「想像上の友達ね」とダリアが告げると、彼女は「ホントにいるのよ。行き場所が無いだけなの。お母さんに捨てられたから。ママと同じ」と話す。動揺したダリアが「誰から聞いたの?」と尋ねると、セシリアは「ナターシャが」と答える。「嘘はやめて。誰から聞いたの?」とダリアは激しく詰め寄るが、電話が鳴ったので取りに行く。相手がカイルだったので、ダリアは彼が自分の過去をセシリアに教えたのだと思い込んで責め立てた。
翌日、ダリアは面会日のカイルにセシリアを預け、洗濯室へ行く。するとゴミ箱にはハローキティーのリュックが捨ててあり、名札にはナターシャ・リムスキーと書かれていた。ダリアはリュックをゴミ箱に戻し、洗濯機の前に戻った。洗濯機から黒い水が溢れ出したので、彼女はヴェックを呼んだ。ヴェックは床を掃除し、「きっとスティーヴとビリーの仕業だ。ガムでも詰めたんだろう」と述べた。ダリアがナターシャについて尋ねると、彼は「10Fに住んでいた女の子だ」と答えた。「今はどこに?」とダリアが訊くと、「さあね。母親と一緒だろう」と彼は告げた。
ダリアは部屋に戻り、頭痛薬を飲んでベッドに体を倒れ込ませた。少女の歌声が聞こえる中、いつの間にかダリアは眠り込んだ。セシリアの夢を見ていたダリアは、天井から垂れて来る水に顔を濡らされて目を覚ます。彼女が天井を見ると、また水漏れの染みが出来ていた。セシリアからの電話を受けたダリアは、「昨夜はどこへ行ってたの?2度も電話したのに」という言葉で1日が経過していることを知った。プラッツァーと会ったダリアは、カイル側が「両親の問題が原因でダリアは情緒不安定になっている」「妄想癖があり、それがセシリアにも影響を及ぼしている」と主張するつもりだと知らされた…。

監督はウォルター・サレス、原作は鈴木光司、原案は中田秀夫、脚本はラファエル・イグレシアス、製作はビル・メカニック&ロイ・リー&ダグ・デイヴィソン、共同製作はダイアナ・ポコーニー、製作協力はケリー・フォスター、製作総指揮はアシュリー・クレイマー、撮影はアフォンソ・ビアト、美術はテレーズ・デプレス、編集はダニエル・レゼンデ、衣装はマイケル・ウィルキンソン、音楽はアンジェロ・バダラメンティー。
主演はジェニファー・コネリー、共演はジョン・C・ライリー、ティム・ロス、ダグレイ・スコット、ピート・ポスルスウェイト、カムリン・マンハイム、アリエル・ゲイド、パーラ・ヘイニー=ジャーディン、デブラ・モンク、リンダ・エモンド、ビル・ブエル、J・R・ホーン、エリナ・ローウェンソーン、ウォーレン・ベル、アリソン・シーリー=スミス、サイモン・レイノルズ、ケイト・ヒューレット、ジェニファー・バクスター、ディエゴ・フエンテス、ゾーイ・ヒース、マムズ、マット・レムシュ、エドワード・ケニントン他。


鈴木光司の同名のアンソロジー小説の一編『浮遊する水』を基にした2002年の日本映画『仄暗い水の底から』をハリウッドでリメイクした作品。
監督は『セントラル・ステーション』『モーターサイクル・ダイアリーズ』のウォルター・サレス。
脚本は『死と処女(おとめ)』『フロム・ヘル』のラファエル・イグレシアス。
ダリアをジェニファー・コネリー、マーレイをジョン・C・ライリー、ジェフをティム・ロス、カイルをダグレイ・スコット、ヴェックをピート・ポスルスウェイト、教師をカムリン・マンハイム、セシーをアリエル・ゲイド、ナターシャをパーラ・ヘイニー=ジャーディンが演じている。

映画が始まった段階から、陰気で不安を煽るような雰囲気に包まれている。
まだ何も観客が不安を抱くような出来事は起きていないので、早すぎるんじゃないか、先走っているんじゃないかと思ってしまう。
しかも、最初から不安を煽るような雰囲気作りをしているんだから、よっぽど怖いことが次々に待ち受けているんだろうと思ったら、まるで無いのだ。
むしろ、ホラーとして捉えた場合、恐怖を喚起するための描写は全く足りていないと言わざるを得ない。

ただし、そもそもウォルター・サレスは、これをホラー映画として作る気は無かったんじゃないか。
オリジナル版もホラーとしての味付けは薄かったが、さらに「母娘の愛情」に重点を置く意識が強くなっているように感じられる。
つまり冒頭から醸し出されている雰囲気は、そういうドラマのための演出ってことだ。
そりゃあ、ダリアは幼少期のトラウマを抱えていたり、養育権を争う調停のストレスを抱えていたりするわけだから、明るい雰囲気から始めることなんて出来ないわけで。

ダリアの「離婚調停でセシリアを失うかもしれない。失いたくない」という不安や焦りに重点を置いた心理サスペンスになっているので、なかなか怪奇現象は訪れない。
一応は水漏れや10階の物音も怪奇現象なんだけど、それが描かれた時点では分からないしね。
転寝した時に「ママ」という少女の声が聞こえるってのが、その時点で明らかになる怪奇現象としては初めてじゃないかな。
その部分だけを取っても、ホラーとしての物足りなさが分かるというものだ。

ただし、怪奇現象の球数は少ない一方で、「少女の幽霊が存在する」ってのは意外に早く明かしちゃうのよね。
「セシリアに想像上の友達がいる」と教師が話した直後、「セシリアが寝室で歌い始めると少女の歌声が聞こえる」という描写によって、「想像上の友達じゃなくてナターシャは幽霊として実在している」ってことをハッキリと示しているのだ。
そりゃあ、「セシリアに想像上の友達がいる」という台詞が語られた時点で、それが幽霊だってのはバレバレだよ。
だけど、もうちょっと引っ張ってもいいんじゃないかと。

ホラーとしての物足りなさは『仄暗い水の底から』でも感じたことなので、「オリジナル版と比べてダメになっている」とは思わない。
むしろ、「母娘の愛情を描くドラマ」としては、オリジナル版より良くなっている部分もある。
ただし困ったことに、「もはや幽霊の存在とか要らなくねえか。中途半端にホラー的な要素を持ち込むのは邪魔じゃねえか」と感じてしまうのだ。
それはそれで本末転倒ってことになってしまうわけでね。

ダリアがアパートの見学に訪れた時、エレベーターのドアが開くと、セシリアは握っていた手を離して飛び出す。
しかしダリアはすぐに追い掛けようとせず、自分の右手(セシリアが握っていたのとは逆の手)を見つめる。
不可思議な行動なので、てっきり「誰かが触れている感覚」でもあるのかと思ったら、「幼少期の自分が、迎えに来た母に荒っぽく手を掴まれた時の出来事」を回想しているだけだった。
それは紛らわしいわ。

ダリアがスティーヴ&ビリーに脅かされるとか、洗濯室の蛇口を捻ったら泥水が出て来て驚くとか、そういうのは怪奇現象ではないコケ脅しになっているので、ピントがズレてるいるなあと感じる。
実は泥水がブシャーっと出るのはナターシャが関係しているんだけど、その段階では「怪奇現象」という印象はゼロだし。
明確な形での「怪奇現象」を控えめにしている一方で、怪奇現象とは判断できないような描写でダリアや観客を脅かそうってのは違うんじゃないかと。
だったら、ハッキリとした形の怪奇現象で怖がらせるべきでしょ。

カイルがスティーヴ&ビリーと親しげに話して煙草を吸わせている様子をダリアが目撃するシーンがあるんだけど、どういう意味を持っている描写なのかがサッパリ分からない。
ダリアは「カイルがスティーヴたちに金を渡し、水を出させたりリュックを置いたりして私を狂気に追い込もうとした」と推理しているけど、それが誤解なのは分かり切っているわけで。
ただし、「じゃあ真相は何なのか」ってのは、最後まで分からないままなのだ。
ミスリードを用意したのなら、ちゃんと回収して答えを出さないとダメでしょ。

っていうかさ、スティーヴとビリーって、そのためだけに登場したような連中なのよね。脇役キャラクターの扱いが、ホントにヘタだわ。
他にも、例えばルーズベルト島へ来る時の列車でダリアが知り合う男性なんかは、それなりに意味ありげだったが、そこだけの出番だった。
ダリアがエレベーターで9階のボタンを押したのに10階まで行ってしまった時に乗り込んで来る男性も、物語に深く関与してくるキャラなのかと思ったら、そこだけで出番を終えてしまう。つまり、「接触がイカれているから10階まで行ってしまった」と説明する役回りだけのために登場するのだ。
放射線クリニックで面接する女性も、そこだけの出番。だったら要らないんじゃないかと。
っていうか、放射線クリニックの女性に関しては、もうちょっと上手く機能させなきゃダメなキャラでしょ。

残り30分ぐらいになって、初めてセシリアがナターシャの幽霊を目撃し、怪奇現象に悲鳴を上げるシーンが到来する。だけどホラー映画としては、展開が遅すぎる。一方で心理サスペンスとしては、逆に要らない描写ってことになる。
あと、セシリアが体験した出来事をダリアが全く知らないってのも上手くない。
そこから10分ほど経過して、ダリアは初めてナターシャの不幸な境遇を知る。裏を返せば、そこまでダリアはナターシャに自身の幼少期を 重ねることが出来ないのだ。
それは「母娘の愛情」を描くドラマとしては弱い。しかも、ナターシャの境遇を知っても、それで自身の幼少期を重ねる様子は乏しいし。
だから結局のところ、オリジナル版と同様で、ホラー映画としても親子の愛情劇としても中途半端で、どっち付かずになっているような印象を受けてしまう。

(観賞日:2016年10月18日)

 

*ポンコツ映画愛護協会