『ダンサー・イン・ザ・ダーク』:2000、デンマーク

チェコからアメリカに来た移民のセルマは、親友のキャシーたちと共に、町の人々がやっているミュージカルの稽古に参加した。視力の悪いセルマは検査表の配列を事前に覚え、視力検査を受けた。医師から「機械は安全に動かせる」とお墨付きを貰い、彼女は金属工場で働く。就業時間でも台本を近くに置いて歌の稽古をするセルマに、工場主任のノーマンは「仕事に集中しないと駄目だ」と告げる。
息子のジーンが学校をサボッたため、隣人でもある警官のビルが車で工場へ連れて来た。セルマはジーンを叱り付け、真面目に勉強するよう告げた。セルマに好意を寄せているジェフは、仕事を終えた彼女に車で家まで送って行くことを持ち掛ける。セルマは遠慮するが、キャシーはジェフに「彼女は貴方に気があるわ。間違いない」と言う。帰宅したセルマは、ビルの妻であるリンダから「音楽でも聴きに来ない?」と誘われる。セルマはジーンを連れて、隣の家へ向かう。
セルマはジーンに、「ビルに遺産のことを訊いて。リンダが喜ぶから」と促す。「ビルはたくさんお金をくれるの」とリンダが微笑すると、セルマは「知ってるわ、遺産を継いだんでしょ」と告げる。セルマは工場勤務の他にカード作りの内職もしており、密かに大金を貯蓄している。家主でもあるリンダに、セルマは家賃を渡す。セルマはキャシーと共に、映画鑑賞に出掛ける。画面が全く見えないセルマのために、キャシーは内容を詳しく説明する。
セルマはキャシーとビルから、ジーンのために自転車を買ってあげるよう促される。クラスで自転車を持っていないのはジーンだけだというのだ。しかしセルマは、「お金が無いのよ。おじいちゃまに送るために貯金しなきゃいけないし」と難色を示す。ジェフが自転車を持って来ても、セルマは困ったような表情を浮かべる。しかし自転車に乗ったジーンが嬉しそうな様子を見せると、セルマも顔も緩んだ。セルマは自転車の購入を承知した。
ビルはセルマと2人きりになった時、「僕は一文無しだ。相続した金も使ってしまった」と打ち明けた。「リンダは浪費家なんだ。僕の給料では到底払えないが、拒めない。支払いが遅れているから、銀行が家を差し押さえる。リンダは出て行くだろう」と泣き出した彼に、セルマは「私も秘密を話せば気が楽になる?」と言う。そして彼女は、もうすぐ自分が失明すること、それが遺伝であること、ジーンに手術を受けさせるためにアメリカへ来たことを明かした。
セルマはジーンは遺伝について知らないことを語り、内緒にするようビルに頼んだ。そして「ジーンのために貯金してるの。もうすぐ手術費用が貯まる。13歳になったら受けられる」と述べた。「それで父親に送金してると嘘を?」とビルが言うと、セルマは「私に父はいない。名前もデッチ上げ」と告げる。彼女は「私が悪いの。遺伝のことを知っていたのにジーンを産んだのよ」と語る。ビルが「強い人だ」と口にすると、セルマは「強くないわ。耐えられなくなったらゲームをするの。工場で働いていると機械が色んなリズムを刻む。すると夢の世界になって音楽が始まるの」と語った。
セルマは仕上げたカードを業者に持って行き、1万枚という大口の仕事も引き受けた。セルマがノーマンから父親の名前を問われると、隣にいたキャシーが「オルドリッチ・ノヴィーというプラハのダンサーよ」と教えた。セルマがプレス盤に2枚の板を入れたので、気付いたキャシーが慌てて機会を止めた。もしも2枚を入れたまま動かすと機械が故障し、修理に1日も掛かってしまうのだ。セルマは「仕事は目を閉じていても出来るわ。空想に浸ってたの」と告げた。キャシーは「手を切断するわ。二度としないで」と注意した。
ビルはセルマに、1ヶ月だけ金を貸してほしいと持ち掛けた。「ジーンのお金なの、ごめんなさい」とセルマが断ると、ビルは「リンダがソファーを欲しがってるんだ。いっそ死ねば楽になるかも」と口にした。セルマは内職を増やしただけでなく、工場の夜勤も始めた。それを知ったキャシーが「昼間もロクに見えないのに」と言うと、セルマは「芝居の稽古をしてから来られるの」と告げる。芝居まですると知ったキャシーは呆れ果て、「勝手にしなさい。私の手助けは期待しないで」と述べた。
仕事を終えたセルマは内職の箱を持って工場を出るが、キャシーは先に帰っていた。セルマはジェフに声を掛けられ、「芝居の稽古に行くから送ってくれる?」と持ち掛けた。セルマが稽古場に行くと、演出家のサミュエルは彼女が出られない場合の代役を務めるスーザンを紹介した。稽古の後、夜勤に赴いたセルマは迅速に作業するよう求められるが、暗くて何も見えない。そこへキャシーが現れ、セルマの仕事を手伝った。
ミュージカルの妄想に浸ったセルマは機械に手を挟まれるが、キャシーが慌てて離れさせたので大怪我にならずに済んだ。夜勤を終えたセルマが工場を出ると、ジェフが家まで送るために待っていた。しかしセルマは「キャシーを送ってあげて」と言い、自分は線路を足で探りながら歩いて家へ向かった。帰宅したセルマに、ビルは「あの件の解決方法を考えた。リンダに真実を打ち明ける」と述べた。
ビルはドアの音を出して出て行ったように偽装し、室内に留まった。セルマが缶に大金を入れていることを確認した後、ビルは密かに外へ出た。セルマは舞台の立ち位置が把握できないため、芝居の稽古も満足に出来なくなった。彼女はサミュエルに「やる気が失せたの」と言い、マリア役からの降板を申し出た。するとサミュエルは、他の役をセルマに与えた。喜んで工場へ向かったセルマだが、ノーマンから「クビにしろという命令があった」と告げられた。彼は申し訳なさそうに、最後の給料を渡した。
帰路に就いたセルマに声を掛けたジェフは、彼女が視力を失っていることを悟った。だが、セルマは笑顔で「見えるわよ」と告げた。帰宅したセルマは、いつも缶に金が入っていないことに気付いた。セルマが隣の家へ行くと、リンダは怒りの形相で「何もかも聞いたわ。ビルを誘惑したわね。出て行って」と告げた。しかしセルマは何も釈明せず、ビルのいる2階へ向かった。ビルは「金は1ヶ月後に返す」と言うが、セルマは「待てないわ。今日、先生に手術台を支払うと決めたの」と告げた。
セルマが金を取り戻して立ち去ろうとすると、ビルは拳銃を取り出した。彼は拳銃を触らせ、「僕が貯めていた金を君が盗んだんだ」と言う。そして大声で「セルマ、やめろ」と叫び、リンダを呼び寄せた。彼はセルマが金を盗んで拳銃まで持ち出したのだと嘘をつき、車にある手錠を取って来るようリンダに指示した。ビルから「金をを渡せ」と要求されたセルマは拒絶し、揉み合いになった。誤って銃弾が発射され、ビルに命中した。
ビルは自分を殺すようセルマに頼むが、リンダが戻って来たのを見ると「ミラーの農場へ行って警察に連絡しろ」と指示した。リンダが去った後、ビルはセルマに「金が欲しけりゃ、殺して持って行け」と告げた。ビルは金を放そうとせず、セルマに発砲させて絶命した。セルマは何とかビルから金を取り戻し、その場を後にした。外に出たセルマを、ジェフが迎えに来た。セルマはバス停の辺りで降ろしてもらい、後を付けないよう頼んだ。
セルマは病院へ行き、同郷のポーコルニー医師に金を渡した。手術費用には足りなかったが、ポーコルニーは金を受け取った。セルマは領収書の受け取りを断るが、「息子さんが来た時に名前が分からないと困る」とポーコルニーは言う。そこでセルマは、「息子は手術に来た時、ノヴィーと名乗ります」と告げた。ジェフがセルマが戻って来るのを待っており、彼女を稽古場まで送り届けた。既に事件のことを全員が知っており、サミュエルは警察に連絡を入れた…。

脚本&監督はラース・フォン・トリアー、製作はヴィベケ・ウィンデレフ、製作協力はアンニャ・グラファーズ&エルス・ヴァンデヴォースト&フリドリック・トール・フリドリクソン&フィン・イェンドルム&トーレイフ・ハウゲ&モーゲンス・グラド&ポウル・エリク・リンデボルグ&グッド・マシーン、製作総指揮はペーター・オールベック・イェンセン、共同製作総指揮はラース・ヨンソン&マリアンヌ・スロット、撮影はロビー・ミューラー、編集はモリー・マリーン・ステンスガルド&フランソワ・ジェディジエ、美術はカール・ユーリウスソン、衣装はマノン・ラスムッセン、振付&ダンス・ディレクターはヴィンセント・パターソン、音楽はビョーク、作詞はラース・フォン・トリアー&ショーン・シグルドソン&ビョーク。
出演はビョーク、カトリーヌ・ドヌーヴ、デヴィッド・モース、ピーター・ストーメア、ジョエル・グレイ、ウド・キア、カーラ・セイモア、ヴラディカ・コスティック、ジャン=マルク・バール、ヴィンセント・パターソン、シオバン・ファロン、ジェリコ・イヴァネク他。


第53回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールと主演女優賞(ビョーク)を受賞した作品。
ラース・フォン・トリアー監督の『奇跡の海』『イディオッツ』に続く「黄金の心」3部作の第3作。
セルマを歌手のビョーク、キャシーをカトリーヌ・ドヌーヴ、ビルをデヴィッド・モース、ジェフをピーター・ストーメア、オルドリッチをジョエル・グレイ、ポーコルニーをウド・キア、リンダをカーラ・セイモア、ジーンをヴラディカ・コスティック、ノーマンをジャン=マルク・バール、サミュエルをヴィンセント・パターソン、看守のブレンダをシオバン・ファロン、検事をジェリコ・イヴァネクが演じている。眼科医の役で、ステラン・スカルスガルドが出演している。

どうやらラース・フォン・トリアーは、かなり底意地の悪い人か、もしくは性格の捻じ曲がった人のようだ。
そうでなければ、このような観客を絶望的な気分にさせることだけを目的にした(としか思えない)映画を作るわけがない。
この映画は、見ている間もずっと不愉快だし、後味も悪い。何の救いも無い話を、陰気に描いて行くだけ。
ミュージカル・シーンでさえ、高揚感や一時の安らぎを与えてくれない。歌うセルマや踊る人々が笑顔でも、こっちが笑顔になる瞬間は一度も無い。
形としては悲劇でありながら、そこには悲劇のカタルシスが全く無い。そして重厚なメッセージが心に響いてくるわけでもない。
単に監督の底意地の悪さが見えるだけだ。

セルマはどんどん不幸になっていくが、自ら不幸を招いているような印象を受ける。そして彼女は、自分が不幸であることに酔っている。「私って不幸な女」と、自己陶酔している。
そのようにしか見えないのである。
普通、ヒロインが不幸になっていく話であれば、当然のことながら同情心が沸くはずだ。ところが本作品の場合、これっぽっちも同情心が沸かない。
それは、セルマが独りよがりで嘘つきで現実逃避ばかりしている女だからだ。
本人は息子を守るために嘘をついていると考えているようだが、実際は自分を守るための独りよがりな嘘でしかない。
現実逃避にしても、「あまりに苦しいことばかりで辛すぎるから現実逃避する」ということではなくて、「都合が悪くなると現実逃避する」ということでしかない。

セルマはビルとの「沈黙の約束」を守り、リンダから「彼を誘惑した」と責められても釈明しない。裁判で「計画的で冷酷な殺人者」と糾弾され、不利な証言が続いても、本当のことを喋らない。
そのままだと殺人犯にされるのに、それでもビルとの約束を守ろうとする神経は理解不能だ。
そこまでしてビルの名誉を重んじる必要性が、どこにあるのか。
そんなモノは無い。
セルマはビルの名誉を守ろうとしているのではなく、不幸を背負い込むことで悦に入っているだけなのだ。

貯金していた金の使い道について法廷で問われたセルマは、そこでも「父に送金していた」と嘘をつく。
そもそも裁判になる前から「父親のオルドリッチ・ノヴィーに送金している」という嘘の愚かしさを感じていたが、裁判になっても、まだ嘘をつくのかと。
そんな嘘が裁判では簡単にバレることぐらい、誰だって分かる。そこでの嘘は、あまりにも愚かしい。
だから、セルマへの同情心など全く沸かず、むしろ苛立ちさえ覚える。
そして窮地に追い込まれたセルマは、お得意の現実逃避に走る。そんなセルマは、ただの不愉快な女でしかない。

ジェフが奔走して「ジーンのために貯金していた」という証拠を入手し、キャシーはセルマに「死刑執行の延期を請求し、新しい弁護士を付けて裁判をやり直せる」と説明する。しかし手術費用として貯めていた金で弁護士を雇うと知ったセルマは、死刑を受け入れることを選ぶ。
その選択を「母親の愛」として描いているのも非常に不愉快だ。
なぜなら、それはセルマのエゴイズムでしかないからだ。その選択は、「息子への愛」ではなく、「息子への愛だと勘違いしている母親の身勝手」でしかない。
ジーンは手術で視力が回復しても、「母親が自分に手術を受けさせるために死刑になった」と知ったら、どう思うだろうか。
冤罪によって母親が死んだことと引き換えに視力を手に入れても、そんなものは全く嬉しくないだろう。また、そんな事実を知らずに育つとしても、「身勝手な殺人者の息子」という重荷を抱えて生き続けることになる。

「あの子には母親が必要よ」と言うキャシーに対してセルマは「違うわ、目よ」と反論するが、それは間違っている。
ここは「どちらも正しい」とか「どちらが正しいとは言えない」という問題ではない。
答えは明らかで、絶対にセルマが間違っている。
「母親の自己犠牲によって息子が視力を得る」という筋書きが感動ドラマになることもあるだろう。
しかし本作品のケースでは、セルマの自己犠牲は自分に酔っている行為でしかないのだ。

ミュージカル・シーン以外は全て手持ちカメラで撮影しており、おまけにカメラが過剰に揺れまくる。
それは単純に映像として見にくいだけであり、そして醜い。
そういう撮影方法を取った意味が全く分からない。ドグマ映画ならともかく、そうじゃないんだし、手持ちカメラが効果的に作用する類の映画でもないし。
さすがにミュージカル・シーンを全て手持ちカメラで撮るという愚かしいことはやっていないが、固定カメラも使って撮影されたミュージカル・シーンも全くダメ。
ハッキリ言って、酷い出来栄えだ。

ラース・フォン・トリアーは、ミュージカル映画が嫌いなのだろうか。
そうでなければ、ミュージカルを否定し、貶めるような映画を撮る意味が分からない。
っていうか、もしも嫌いだとしても、映画監督が自分の作品を使ってミュージカル映画を貶めるのは反則だわな。
逆にミュージカル映画が好きで、「自分なりのミュージカル映画を撮りたい」という考えで本作品を撮ったのだとすれば、ラース・フォン・トリアーにミュージカル映画を撮るセンスは無い。
それは松本人志に映画監督のセンスが無いのと同じぐらい確かだ。

少なくともラース・フォン・トリアーは、かつてMGMが作っていたようなハッピー満開のミュージカルは嫌いなんだろう。
で、それに対するアンチテーゼとして、アンハッピーなミュージカルを作ったのかもしれない。
そして、単にアンハッピーなだけでなく、他の部分でも意図的に「既存のミュージカルでは絶対にやらないようなこと」を色々と盛り込んでいるのだろう。
だが、それが映画の面白味に繋がっているかというと、答えはノーだ。

そもそも最初のミュージカル・シーンが開始から40分後という時点で、やる気が無いのかと感じる。
さらに、せっかくダンサーたちが踊り始めても、フルショットやリズムを刻む足元をほとんど写そうとしないし、細かくカットを割る。クローズ・アップを多用し、マトモにダンスを見せてくれない。
最初のミュージカル・シーンでは、歌の途中で現実に戻ってしまう。
法廷でジョエル・グレイが華麗にタップを踏んでも、やはり細かくカットを割り、ほとんど足元を見せない。
これはミュージカル映画では絶対に避けるべき演出だ。

ラース・フォン・トリアーは徹頭徹尾、ミュージカルの醍醐味を打ち消すような映像演出をする。
それは「新しいミュージカル映画」でも何でもない。単純に方程式を間違えているだけだ。
「ひねくれ者が変なことをやってみたけど、ただの虚しい自慰行為でしかない」という状態になっている。
既存のミュージカル映画のアンチテーゼではなく、これは単に間違いだらけのミュージカル映画でしかない。

ラース・フォン・トリアーは、とにかく既存のミュージカル映画に逆らったことを、何が何でもやりたかっただけなのだろうか。
だとしたら、その反逆精神は愚かしいだけだ。
もはや目的を達成するための手段として「全て既存のミュージカルの裏を行く演出」をやっているのではなく、それが目的化しているようにさえ思えてしまう。
で、そうなると、ただの駄々っ子と大して変わらない。
実際にラース・フォン・トリアーがどういう意図で演出したのかは知らないが、どうであれ、ミュージカル映画としては相当に酷い。

(観賞日:2014年7月20日)

 

*ポンコツ映画愛護協会