『新・蘭の女/ブルー・ムービー・ブルー』:1992、アメリカ
1958年、カリフォルニア。18歳のブルー・マクドナルドは、トランペット奏者の父ハムと共に、両親が出会った街にやって来た。ブルーは母を亡くして以来、父と2人で旅暮らしを続けていた。その街でブルーは、ジョシュという同年代の青年と出会う。
ジュールスがオーナーを務めるバーで演奏しているハムは、ドラッグの中毒者だった。金が無いブルーはドラッグを欲しがって苦しむ父のため、ジュールスに誘われて彼に体を捧げる。だが、ハムは車の中でドラッグに溺れ、事故死してしまう。
ブルーはジュールスの友人エルに誘われ、彼女の娼館で娼婦として働き始めた。ジュールスはエドワード警部やディクソン上院議員など、様々な人々を相手に体を売る。運転手のサリーは、3週間もすれば抜け出せなくなるとブルーに告げる。
ある時、ディクソンに呼び出されたブルーは、ポルノビデオを撮影されそうになる。必死に抵抗したブルーは、駆け付けたサリーに救出された。サリーはブルーを娼館には戻さず、普通の学生生活に戻らせる。ブルーはジョシュと付き合い始め、しばらくは平穏な日々が続いた。だが、ブルーはエルに居場所を突き止められてしまう…。監督&脚本はザルマン・キング、製作はデヴィッド・サウンダース&ラファエル・エイゼンマン、共同製作はハワード・ワース、製作協力はスティーヴン・カミンスキー、製作総指揮はマーク・デイモン、撮影は マーク・レショフスキー、編集はマーク・グロスマン&ジェームズ・ギャヴィン・ベドフォード、美術はリチャード・エイメンド、音楽は ジョージ・S・クリントン。
出演はニーナ・シーマズコ、ウェンディ・ヒューズ、トム・スケリット、ロバート・ダヴィ、ブレント・フレイザー、クリストファー・マクドナルド、ジョー・ダレッサンドロ、ケイシー・サンダー、スタッフォード・モーガン、ドン・ブルームフィールド、リアン・カーティス、ブリジット・ライアン、リディ・デニア、グロリア・ルーベン、ヴィクトリア・マホーニー、キャシー・ハーツェル他。
『ナイン・ハーフ』の製作者ザルマン・キングが監督と脚本を務めた作品。『新・蘭の女/ボンデージ・ブルー』という別タイトルもある。ミッキー・ローク主演の『蘭の女』の続編だが、キャストは完全に入れ替わっているし、話としての繋がりも無い。
ハム役にトム・スケリット、サリー役にロバート・ダヴィ、ディクソン役にクリストファー・マクドナルド、ジュールス役にジョー・ダレッサンドロと、脇を固めるベテラン俳優は、それなりに揃っていると言っていいだろう。だが、ものの見事に生かし切っていない。父のドラッグのために処女をオッサンに捧げるとか、いきなり娼婦になるとか、話はメチャクチャだ。チラッと喋っただけの凡庸な若者ジョシュの存在が、ブルーの心の支えになるというのも理解不能だ。堕ちていく女の苦悩や葛藤など、皆無に等しい。何しろ、娼婦になってすぐに、他の娼婦の仕事の様子を盗み見て笑っているぐらいだ。
どう考えたって、これはブルーを演じるニーナ・シーマズコのエロを見せるのがセールスポイントになるべき作品だ。何しろ、それ以外には何も無いのだから。しかし、他の娼婦達はバンバン脱ぎまくっているのだが、肝心のブルーの脱ぎっぷりが煮え切らない。まず、ジュールスに処女を捧げるという展開があるが、肝心のセックスシーンは全く描かれていない。さらに、パンパンになったブルーがエルから裸になることを要求されるという展開があるが、ここでもヌードになるシーンは描かれていない。
さらに、エドワード警部が娼館にやって来てブルーをチェックするが、ここでセックスシーンは登場しない。バーで指名した男とのセックスシーンでも、服を着たままだし、わずかな時間で終わる。ようやくディクソンとのセックスシーンで、ブルーはヌードになる。
そこでヌードになっているということは、決してニーナ・シーマズコのヌードがNGだということではないわけだ。だとすれば、そこまで脱がずに引っ張る意味が全く無い。他には周囲の連中がゴチャゴチャしているだけで、話らしい話はほとんど無いのだし。で、ようやくヌードになったかと思ったら、ディクソンとのセックスシーンは、これからエロティックに盛り上がろうかという所で終わってしまう。官能を売りにしているはずの映画が、官能的になりそうになると、すぐに別のカットに切り替わるのだ。
結局、それ以降も、キッチリと絡みを見せるシーンは一度として出てこない。終盤になると普通の学生生活が始まり、なぜかフットボールの試合で話を盛り上げようとしたりする。もちろん、エロなんて完全に消えてしまう。骨抜き肉無し状態である。
映画としての価値はもちろんのこと、エロとしての価値さえも放棄している作品なのだ。