『砂上の法廷』:2016、アメリカ

弁護士のラムゼイが担当したのは、法律家志望のマイク・ラシターが父親のブーンを殺した事件だった。指紋が付着した凶器と自供があり、有罪は確定的だった。いつもなら罪を認めるラムゼイだが、今回は例外だった。彼はラシター家の内情を知っており、弁護の余地はあると考えた。ルイジアナ州の地方裁判所で裁判が始まり、ブーンの妻であるロレッタたちが見守る中でロビショー判事と陪審員が入廷した。もうすぐ17歳になる未成年のマイクだが、罪状の重さを考慮して成人として裁かれることをロビショーは陪審員に説明した。
ロビショーはラムゼイと検事のルブランクを呼び、迅速な裁判を要請した。マイクは学業優秀な高校3年生で、討論チームで副キャプテンを務めていた。彼はナイフで父親を刺殺しており、ルブランクは計画的な殺人だと主張した。ラムゼイはマイクが何も話してくれなかったため、冒頭陳述を後回しにした。ルブランクは最初の証人として、チャーター航空会社で客室乗務員をしているアンジェラ・モーリーを呼んだ。ブーンは裕福な顧客の一人であり、アンジェラは良く指名されていた。
最後の利用でブーンは息子とロスを往復した後、一人でダラスへ行っていた。ロスへ赴いたのは、進学する大学を見るためだった。マイクが不機嫌だったことをアンジェラは覚えていたが、希望する大学へ行くことを反対されたからだとは知らなかった。ラムゼイは彼女に、ブーンが女性と登場した場合は乗客名簿から削除したのか質問する。実際は削除していたのだが、アンジェラは「違法なので削除しない」と証言した。
次に呼ばれた証人のリモ運転手は、空港までラシター親子を乗せたことを証言する。彼は途中で女性を乗せたのだが、ルブランクの質問に対して「変わったことは何も無かった」と答えた。マイクはラムゼイに「このままだと負けるぞ」と言われても、黙秘を続けた。休憩に入ると、ラムゼイは陪審コンサルタントのジャックに味方になりそうな陪審員を伝えた。知人であるウォルターの推薦で補佐役に起用した娘のジャネルが現れたので、ラムゼイは経歴を尋ねた。
ラムゼイから証人の嘘について質問されたジャネルは、アンジェラと運転手が女性を乗せたことを隠していたと話す。ラムゼイはジャネルに、「誰か嘘をついていたら教えろ」と指示した。裁判が再開されると、婦人警官のスティードが無線連絡を受けてラシター邸へ赴いた時のことを話す。彼女はブーンの死を確認したこと、その傍らに佇むマイクが「早く僕がこうすべきだった」と口にしたことを証言した。スティードが駆け付けた直後には、ロレッタから連絡を受けたラムゼイも現場へ来ていた。休廷に入ると、ラムゼイは作戦室に使っているモーテルの部屋をジャネルに教えた。
翌日、ラシター家の隣人のアーサー・ウェスティンが証人として呼ばれ、息子のアレックスとマイクが同級生だと話す。ブーンとマイクの関係についてルブランクに問われた彼は、ロレッタが割り込めないほど仲良しだったと語った。さらに彼は、法医学キャンプに参加して戻ったマイクが、近所で起きた猫の毒殺事件で犯人を突き止めたと証言した。しかし彼は、事件の8ヶ月ほど前に変化が生じたと話す。ブーンは友人たちを招いたホーム・パーティーの席で、学歴の無いロレッタを扱き下ろした。腹を立てたマイクが「やめろ」と怒鳴ると、アーサーがブーンをなだめた。ブーンはマイクを連れ出して恫喝した後、アーサーに「口出しするな」と凄んだ。
休憩に入ると、ラムゼイはジャネルに「キンシャサの奇跡」について語り、「まだ今日は負け続ける」と告げた。休憩が終わると、捜査責任者のグレイヴス刑事はマイクとロレッタを尋問したこと、ロレッタはラムゼイの指示で黙秘を貫いたことを話した。続いて検視官が出廷し、マイク以外の容疑者を示す証拠は無かったと証言した。次のアレックスは、マイクとブーンは仲が良かったが、きっと母が原因で険悪になったのだろうと告げる。さらに彼は、パーティーの口論より少なくとも半年前からマイクは我慢していたと証言した。
アレックスはロレッタがブーンから暴力的な扱いを受ける様子を目撃していたが、そのことは話さなかった。しかしロレッタに惚れていると見抜いたラムゼイの質問を受けると、「彼女は酷い扱いで気力を失っていた」と証言した。休廷に入ると、ラムゼイはロレッタに「証言は明日だ。検察側の証人として証言してくれ。私の戦略を信じてくれ」と告げた。ラムゼイは事件が起きる前、ロレッタからブーンがマイクを強引にスタンフォード大へ行かせようとしていることを聞かされていた。ロレッタは彼に、「マイクを守れない自分が嫌。離婚をほのめかしたら、殺すと言われた」と述べた。
翌日、ロレッタは証言席に座り、ルブランクの質問を受ける。事件当日の出来事について、彼女はシャワーから出て来るとブーンが死んでいたこと、マイクが「僕がやった」と言ったことを涙ながらに語った。ラムゼイはロレッタに質問し、ブーンから虐待を受けていたこと、それをマイクも知っていたことを証言させた。ルブランクが抗議すると、ラムゼイは暴力の証拠となる写真と診断書を提出した。ラムゼイは「マイクが母親を守ろうとした」という第三者防衛で陪審員の同情を誘い、無罪を勝ち取ろうと考えたのだ。ところが、マイクが証言台に立つことを勝手に決め、反対するラムゼイを解任しようとする。ラムゼイが仕方なく証言を認めると、マイクはブーンがロレッタを何度も暴行していたこと、自分が12歳の頃から性的虐待を受けていたことを話す…。

監督はコートニー・ハント 脚本はラファエル・ジャクソン、製作はアンソニー・ブレグマン&ケヴィン・フレイクス&エロン・ダーショウィッツ&ラジ・ブリンダー・シン、共同製作はチェルシー・ピンケ&マーク・ファサーノ&ピーター・クロン、製作総指揮はギデオン・タドモア&エヤル・リモン&バディー・パトリック&スコット・フィッシャー&ジャミン・オブライエン&スチュアート・ブラウン&ヴィシャル・ルングタ&ニコラス・カザン、共同製作総指揮はアンクール・ルンタ&ジョナサン・ガードナー&ロバート・オグデンバーナム、撮影はジュールズ・オロフリン、美術はマラ・ルペール=スクループ、編集はケイト・ウィリアムズ、衣装はアビー・オサリヴァン、音楽はエフゲニー・ガルペリン&サーシャ・ガルペリン、音楽監修はスーザン・ジェイコブズ。
主演はキアヌ・リーヴス、共演はレニー・ゼルウィガー、ググ・ンバータ=ロー、ガブリエル・バッソ、ジム・ベルーシ、ジム・クロック、リッチー・モンゴメリー、クリストファー・ベリー、ララ・グライス、ニコール・バレ、ケヴィン・ジョンソン、リンゼイ・キンボール、ジェイソン・カークパトリック、ショーン・ブリジャース、ジャッキー・タットル、マッティー・リップタク、ライアン・グレゴ、トーマス・フランシス・マーフィー、デイナ・グーリエ、サマンサ・ボーリュー他。


『フローズン・リバー』でNY批評家協会賞の新人監督賞を受賞したコートニー・ハントが、その次にメガホンを執った作品。
ラムゼイをキアヌ・リーヴス、ロレッタをレニー・ゼルウィガー、ジャネルをググ・ンバータ=ロー、マイクをガブリエル・バッソ、ブーンをジム・ベルーシが演じている。
ロレッタ役のレニー・ゼルウィガーは、『My Own Love Song』以来となる6年ぶりの復帰作。
当初はダニエル・クレイグが主演する予定だったが、撮影の4日前になって急に降板した(理由は明らかになっていない)。
だからキアヌ・リーヴスは、ある意味では貧乏くじを引かされた、もしくは火中の栗を拾ったってことだね。

脚本家として表記されるのは、「Rafael Jackson」という人物。
これまでに映画に限らずTVドラマも含めて脚本家として表記されたことは1度も無いし、それ以外の経歴を調べても何も出て来ない。
全くの素人からデビューした新人脚本家ってことでもなく、そんな人物は存在しない。ラファエル・ジャクソンってのは、『アンドリューNDR114』や『イナフ』などを手掛けたニコラス・カザンの変名だ。
1970年代から脚本家として活動しているニコラス・カザンだが、変名を使ったのは1984年の『インパルス!暴走する脳』に続いて2度目。
この辺りに、本作品の事情が隠されているように感じてしまう。

と言うのも、この映画は2014年に撮影されたが、ずっと公開されずお蔵入り状態になっていたのだ。
2016年に入って日本を含む幾つかの国では劇場公開されたが、本国のアメリカでは限定公開&インターネット公開だけという扱いになった。
そんな悲しい扱いになった理由は明白で、出来栄えが悪かったからだ。
だからニコラス・カザンが変名を使ったのも、自分が意図した内容とは大きく異なる内容になってしまったため、本名を使いたくなかったんじゃないかと邪推したくなるのだ。

監督は実際の裁判を傍聴したり、裁判所で勤務経験のある人をエキストラに起用したりして、リアリティーを追及したらしい。
もちろんリアリティーを重視するのは、決して悪いことではない。でも、その結果として「映画としての面白味が薄くなる」という状態に陥ったら、それは本末転倒じゃないかと。
冷静に考えてほしいんだけど、実際の裁判で観客の観賞に耐えるほど面白味のあるケースって、そんなに多いわけではないでしょ。
だから、そこでリアリティーを追及したら、そりゃあ退屈になっちゃうでしょ。

もちろん「それぞれが嘘をついている」という部分に映画としての「虚構」はあるんだけど、それを面白さに繋げるためにはドラマ演出が必要になる。
回想シーンを何度も挿入するってのが、この作品で最も重視されている演出だろう。そこでは証言の内容と異なる出来事が描かれており、それが観客に「この人物は嘘をついている」「真実は語られていない」ってことを教える役目を担っている。
だけど、それは法廷劇として、やっちゃいけない手法じゃないかと。
そこで明かされていない真実が観客だけに明かされるなら、もはや法廷劇としての意味を成さないんじゃないかと。

ジャネルが登場すると、ラムゼイは「君は最強の嘘発見器だと聞いた。今の法廷で誰が嘘をついていた?」と問われ、「アンジェラはラシターが女を乗せていたと知っていたのに嘘をついた」「運転手は女を乗せていた」と話す。
つまり回想シーンで描かれた真実を、彼女はズバリと見抜いているわけだ。
だけど、そこでジャネルを使って証人がついていた嘘の詳細を語られるなら、それより先に回想シーンで真実を描いておく意味って何なのか。
逆に、回想シーンで真実を描くなら、ジャネルのコメントの意味は何なのか。
そこは無駄な二度手間でしかないでしょ。

その後も回想シーンの挿入は続くし、それに関してはジャネルが「これは嘘」と指摘することも無いから、二度手間という問題は消える。
スティードとアーサーの証言に関連する回想シーンの場合だと、何の嘘も無く実際に彼が目撃した様子が描かれるだけなので、「観客だけに真実が提示される」という問題も無い。
しかし、今度は「統一感が無い」という別の問題が生じる。
初日の法廷シーンでは「証言と事実が全く違う」という仕掛けを用意していたのに、それは持続しないのかと。その場限りで終わっちゃうのかと。

ようするに、そこは「法廷では全員が嘘をつく」というラムゼイの台詞を活かしたいがための仕掛けなんだよね。
で、その役目が終了したから、もう仕掛けとして使うことも無くなったってことなのかと思いきや、そうでもないのだ。
検視官が証人として出廷すると、彼の回想シーンで「ロレッタは事件時にシャワーで髪を洗っていたと言ったが、洗面台から頭髪が発見された」ってことが説明される。しかし彼は、そのことを証言しない。
つまり、また「証人が嘘をついている」というシーンが描かれているわけだ。

アレックスの証言シーンでも、彼はブーンがロレッタを暴力的に犯す様子を目撃したが、そのことを話さないという嘘が用意されている。それだけでなく、彼は風呂上がりのロレッタの裸も盗み見ている。
で、ラムゼイは「アレックスはロレッタに惚れている」と見抜き、それが陪審員に伝わるように仕向けようと画策して質問する。
すぐにラムゼイがアレックスの嘘を見抜いて行動するんだから、そうなると「ジャネルは嘘を見抜くのが得意」という設定は死ぬ。
っていうか全体を通して、ジャネルの「嘘発見器と呼ばれている」という設定は何の機能も果たしていない。
ジャネルがラムゼイと話し、プライベートな部分を語るシーンがあるが、これも全くの無意味。

「証人が証言すると、それに関連した回想シーンが挿入される」という手順が何度も繰り返される中で、いよいよマイクの証言シーンが訪れる。
すると彼は父親からレイプされていたことを証言するのだが、ここでは関連する回想シーンが描かれない。実際にレイプされる様子も、それとは全く異なる様子も、どちらも挿入されない。
しかし回想シーンが無いことによって、実質的に「その証言は嘘」と言っているようなモノだ。
それはジャネルに「マイクが嘘を言っているかも」と後から言わせなくても、その時点で確定事項だ。
皮肉なことに、そこまでの仕掛けが自分の首を絞める結果となっている。

極端なことを言ってしまうと、この映画は「オチが全て」という作品だ。
最後に用意されているドンデン返しに向けて、物語が進行していく。そこまでの物語は、そのオチのための壮大な前フリと言ってもいい。
決して「だからダメ」と言っているわけじゃなくて、そういう作品ってのは幾つもある。映画に限らず、小説や演劇の世界でも、似たような類の作品は何本も作られてきた。
そういう類の作品で何より重要なのは、オチが明かされた時に、ちゃんと腑に落ちる形になっているか、気持ち良く受け入れられるかってことだ。

完全ネタバレを書いてしまうが、この映画のオチはザックリ言っちゃうと『アクロイド殺し』と同じである。
ミステリー小説のファンやアガサ・クリスティーの読者なら、その言い回しだけで「そういうことね」と理解できるだろう。
それだと分からないという人のために、さらに分かりやすい完全ネタバレを書いてしまうと(ってことは『アクロイド殺し』の種明かしにもなっちゃうのだが)、「主人公が犯人でした」というのがオチだ。
ちなみに『アクロイド殺し』の場合は主人公の独白という形で進行していたこともあり、そのオチはアンフェアじゃないかという批判的な声も上がった。
この映画では「被告の無罪を勝ち取ろうとする」という設定の主人公がナレーションを担当するので、同じようなモノだと捉えてもいいだろう。

ただし個人的には、「主人公が犯人だから」というだけでアンフェアだという考え方は持っていない。そういうオチであろうと、気持ち良く騙してくれるのであれば、何も文句は無い。
だから本作品の問題は、「オチが明かされても、ちっとも気持ち良くない」ってことなのだ。
「意外な真実」としてオチが明かされた時に、「なるほど、あの時のアレは、そういうことだったのね」という風に感じることが出来れば、それが謎解きの面白さになる。そのためには、そこまでの筋書き、そこまでに描かれたシーンを思い返して、「点と点が繋がった」「気になっていた謎が解明された」という印象になる必要がある。
ところが本作品の場合、伏線が綺麗に回収される気持ち良さが全く無い。
何しろ、オチが明かされた時に、「あれが伏線だったのか」と感じるような箇所が全く見当たらないのである。

だから、そのオチは意外性の面白さよりも、唐突さの方が圧倒的に強くなっているのだ。
いわゆる「ドンデン返しのためのドンデン返し、オチのためのオチ」になっている。
しかも伏線が見当たらない一方で、「ラムゼイが犯人だったら、あのシーンのアレは変じゃないか。整合性が取れなくないか」と感じる部分が幾つか浮かび上がる。
最も顕著なのは、「マイクはラムゼイが犯人だと見抜いたのに、性的虐待まで捏造して自分の犯行だと主張する理由が無い」ってことだ。
強引に解釈すれば答えを捻り出すことは不可能じゃないけど、スッキリする形ではない。

オチの問題を抜きにして考えても、かなり退屈な作品だ。法廷ミステリーとして作られているのだが、裁判でのやり取りに全く引き付ける力が感じられない。
そもそも、ほぼ法廷に場所が限定されている会話劇という時点で地味ではあるのだが、その中でメリハリを付けたり盛り上がりを作ったりするのが監督や脚本家の仕事なわけで。
それなのに、地味な設定の中で会話劇を淡々と進行し、おまけに「これからの展開」をラムゼイのモノローグや台詞で先にザックリと明かしちゃうんだから、どういうつもりなのかと言いたくなる。
結局、「オチこそ全て」であり、そこまでの法廷劇を面白くするための作業に対する意識が薄弱なのだ。

(観賞日:2017年9月2日)

 

*ポンコツ映画愛護協会