『セッション』:2014、アメリカ

シェイファー音楽院の秋学期。バディー・リッチに憧れる1年生のアンドリュー・ニーマンは、週末の教室に一人で出向いてドラムの練習を積んでいた。そこへフレッチャー教授が入って来たので、ニーマンは緊張して手を止める。フレッチャーは続けるよう指示し、倍テンで叩くよう促す。ニーマンが叩いていると、すぐにフレッチャーは立ち去った。映画館へ赴いたニーマンは、売店で働くニコルから飲み物を買う。ニーマンはニコルに恋心を抱いているが、いつも商品を買う時の会話だけだ。
劇場に入ったニーマンは、父のジムと合流する。ニーマンは「フレッチャー教授が俺の演奏を見た」と嬉しそうに言うが、ジムは「別の道もある。先は長いんだ」と冷たく告げる。月曜日、ニーマンは授業に出席し、講師であるクラマーの指導を受ける。しかしドラムの主奏者はライアン・コノリーで、ニーマンは譜めくりを担当する。ニーマンがドラムを叩く時もあるが、すぐにクラマーは交代を命じる。そこへフレッチャーが現れ、生徒たちに少しずつ演奏させる。彼は辛辣な言葉を浴びせながら次々に演奏させ、ニーマンの順番も巡って来た。するとニーマンはフレッチャーから、彼が指導するスタジオ・バンドの練習へ来るよう指示した。
自信を付けたニーマンは映画館へ行き、ニコルをデートに誘ってOKを貰った。彼はスタジオ・バンドの練習に出向くが、最初は主奏者であるカール・タナーの譜めくりを担当する。フレッチャーが教室に来ると、生徒たちは緊張した様子を見せる。フレッチャーは厳しい態度で指導を開始し、少し音がズレただけで罵声を浴びせる。彼はトロンボーン奏者のメッツを追い込み、教室から出て行くよう命じた。だが、メッツが出て行った後、フレッチャーはエリクソンという生徒に「メッツの音はズレてない。ズレているのは君だが、自覚が無いのが命取りだ」と冷たく告げた。
休憩に入ると、ニーマンはフレッチャーから声を掛けられる。家族について問われたニーマンは、両親が音楽関係者ではないこと、父が教師で母は家を出て行ったことを話す。フレッチャーから「採点など気にするな。君には音楽をする理由があるだろ?音楽を楽しめ」と言われたニーマンは、頬を緩ませる。休憩を終えて再び練習に入ると、ニーマンがドラムを担当した。フレッチャーは最初に褒めたものの、すぐに「テンポが違う」と鋭い口調で指摘した。
フレッチャーはニーマンに同じ場所を何度も演奏させ、その度に「速い」「遅い」と怒鳴り付けた。ついに彼は椅子を投げ付け、「テンポが速いか遅いか考えろ」と平手打ちを浴びせた。フレッチャーはニーマンを鋭く睨み付け、「バンドの邪魔をすると、ぶちのめすぞ」と言い放った。ニーマンが悔しくて泣き出すと、彼は口汚く罵ってタナーに交代させた。ニーマンは個人練習を積み、手のマメが潰れて血が出てもドラムを叩き続けた。
週末、ニーマンはニコルとデートに出掛けた。ニコルはフォーダム大学に通っているが、まだ専攻は決めていなかった。スタジオ・バンドはジャズ・コンテストに参加し、ニーマンはタナーの譜めくりを担当した。1曲目が終わって休憩に入った時、ニーマンはタナーから楽譜を預かった。しかし少し目を離した隙に、楽譜が無くなってしまう。タナーはフレッチャーからステージに出るよう指示され、「暗譜していないので無理です」と言う。全て暗譜していたニーマンは「僕が出ます」と立候補し、ステージでドラムを叩いた。その結果、スタジオ・バンドは優勝を勝ち取った。
ニーマンはフレッチャーから、スタジオ・バンドの主奏者に任命された。ニーマンは誇らしく思うが、ジムだけでなく伯父のフランクも彼を認めようとしなかった。フランクの長男であるダスティンが模擬法廷の議長を務めたり、次男のトラヴィスがアメフトの試合でMVPを獲得したりすると称賛するのに、ニーマンのことは全く評価しないのだ。それどころか「音楽は汚いビジネスだ」と突き放すような言葉を浴びせられたニーマンは、不快感を露わにして反発した。
ニーマンはフレッチャーに認められたと思っていたが、「ライアン・コノリーを試したい」と言われて愕然とする。フレッチャーは新しい曲の楽譜をコノリーに渡し、練習を積ませていた。彼はニーマンに少し叩かせただけで終了させ、ライアンに交代させる。ライアンが演奏すると、フレッチャーは「完璧だ」と絶賛した。ニーマンは「本気ですか?今のクソみたいな演奏が?」と反発し、フレッチャーに抗議した。するとフレッチャーは面倒そうな態度で、「戦って勝ち取れ」と要求した。
ニーマンは死に物狂いでドラムの練習を積み、ニコルと会って別れを告げる。「ドラムを追及するためには時間が必要だ。偉大な音楽家になりたい」とニーマンが言うと、ニコルは愛想を尽かして「別れるのが正解ね」と口にした。次の練習の直前、フレッチャーはショーン・ケイシーという教え子について語る。彼は「ショーンはギリギリで音楽院に合格したが、私は彼の意欲を買ってバンドに入れた。卒業後、ショーンはウイントン・マルサリスのバンドで演奏していたが、車の事故で死んだと連絡を受けた」と目に涙を浮かべた。
その日の練習が始まると、フレッチャーはドラムの演奏が気に入らずに怒鳴り散らした。彼はニーマン、コノリー、タナーの3人に演奏させるが、どれも満足しなかった。彼は3人を罵り、居残りでドラムを叩かせた。ダネレン大会の当日、ニーマンはバスのトラブルで集合時間に遅刻してしまう。彼はレンタカーを借りるが、トラックに衝突して大怪我を負う。それでも主奏者の座を譲りたくない彼は、何とか会場へ辿り着いて演奏に参加する。しかし怪我の影響で散々な結果に終わり、フレッチャーから「お前は終わりだ」と通告される…。

脚本&監督はデミアン・チャゼル、製作はジェイソン・ブラム&ヘレン・エスタブルック&ミシェル・リトヴァク&デヴィッド・ランカスター、製作総指揮はジェイソン・ライトマン&ゲイリー・マイケル・ウォルターズ&クーパー・サミュエルソン&ジャネット・ヴォルトゥルノ=ブリル、共同製作はニコラス・ブリッテル&ギャリック・ディオン&ステファニー・ウィルコックス&サラ・ポッツ、製作協力はフィリップ・ダウ、撮影はシャロン・メール、美術はメラニー・ペイジス=ジョーンズ、編集はトム・クロス、衣装はリサ・ノルチャ、音楽はジャスティン・ハーウィッツ、音楽監修はアンディー・ロス。
出演はマイルズ・テラー、J・K・シモンズ、ポール・ライザー、メリッサ・ブノワ、オースティン・ストウェル、ネイト・ラング、クリス・マルケイ、デイモン・ガプトン、スアンヌ・スポーク、マックス・カッシュ、チャーリー・イアン、ジェイソン・ブレア、カヴィタ・パティル、C・J・ヴァナ、タリク・ロウ、タイラー・キンボール、ロジェーリオ・ダグラスJr.、エイドリアン・バークス、カルヴィン・ウィンブッシュ、ジョセフ・ブルーノ、マイケル・D・コーエン他。


長編監督2作目となるデミアン・チャゼルが、高校時代の実体験をモチーフにして脚本を書き上げた作品。
彼は製作資金を調達するため、脚本の一部を短編映画化して第29回サンダンス映画祭に出品した。そこで絶賛されたことで多額の資金提供を受け、長編版が作られた。
短編版から引き続いてフレッチャーを演じたJ・K・シモンズは、アカデミー賞やゴールデン・グローブ賞など数々の映画賞で助演男優賞を総なめにした。
ニーマンをマイルズ・テラー、ジムをポール・ライザー、ニコルをメリッサ・ブノワ、ライアンをオースティン・ストウェル、タナーをネイト・ラング、フランクをクリス・マルケイ、クラマーをデイモン・ガプトンが演じている。

たぶん、ジャズが好きな人や、少しでもジャズをたしなんだ人の中で、この映画を高く評価する人はいないんじゃないだろうか。
それは勝手な推測だが、「そういう人たちには、この映画を称賛してもらいたくない」という願望も含まれている。
私は本当のファンからすると箸にも棒にも掛からないような野郎だが、ジャズが好きだ。そんな私からすると、この映画はジャズを侮辱し、貶めているとしか感じない。
だから、この映画はどうしようもなく不愉快だし、嫌悪感しか抱かない。

監督のデミアン・チャゼルは高校時代に所属していたジャズバンドで過酷な競争を強いられ、その経験を本作品に投影しているらしい。だから、これは彼にとって、ある意味での復讐劇だったのかもしれない。
確実に言えることは、デミアン・チャゼルがジャズを愛していないし、ジャズ・ミュージシャンへのリスペクトも無いってことだ。そういう気持ちがあったら、こんな映画は撮れないはずだ。
あと、そこに愛が無いとしても、かつてジャズ・バンドに所属していたのなら、デミアン・チャゼルはジャズというジャンルに対する知識は普通の人よりも遥かに多く持っているはず。
それにしては、まるで知らない人なんじゃないかと思ってしまうような描写が多い。

序盤、フレッチャーはニーマンに「採点など気にするな。君には音楽をする理由があるだろ?音楽を楽しめ」と告げる。
しかし彼の指導は生徒を厳しく採点しているし、ちっとも音楽を楽しませようとしていない。そもそも本人だって、音楽を楽しんでいない。
「良い音楽を作るために厳しく指導する」ってことなら、まだ分からんでもない。
しかしフレッチャーは、ただ生徒を罵ったり攻撃したりしたいだけだ。生徒を正しく導きたい、才能を開花させてやりたいなんて気持ちは、これっぽっちも持ち合わせちゃいないのである。

っていうか、仮に「良い音楽を作るための指導」と受け止めるにしても、フレッチャーのやり方は全面的に否定すべきモノだ。
彼の指導は、ただのパワハラやモラハラに過ぎない。それは生徒たちの能力を引き出し、良い演奏を作り上げるための指導ではない。生徒たちの人格や人間性を否定し、精神的に追い詰めるだけの暴力だ。
そういうキャラクターとして造形しているのだから、ただのクズ野郎なのは仕方がないだろう。
しかし、そんな野郎が一流音楽院でトップの指導者として長年に渡って君臨しているのは、どうにも解せない。

ニーマンはフレッチャーのバンドに選ばれたことを喜んでいるが、それによって何が得られるのかが良く分からない。成功が約束されているようには、到底思えないのだ。
フレッチャーのような男が、ジャズの世界で高い評価を受けているようには思えないのでね。
だけどコンテストでは優勝しているぐらいだから、それなりに評価されているってことなのか。
だけど劇中でフレッチャーやスタジオ・バンドについて「凄いんだぜ」と言っているのはニーマンだけなので、いかにフレッチャーが高名な指導者なのかが伝わらないのよね。

フレッチャーはチャーリー・パーカーがシンバルを投げ付けられた話を語り、「それがあるからニーマンも必死で食らい付く」という形になっている。
軽く説明しておくと、「チャーリー・パーカーはジョー・ジョーンズのバンドに参加するが、演奏に納得してもらえずにシンバルを投げ付けられた。そこから必死で練習し、認められる腕前になった」という話である。
だけどね、そういうのは偉大なジャズ・ミュージシャンであるジョー・ジョーンズやチャーリー・パーカーだからこそ成立する逸話でしょ。単なる音楽院の教授と生徒の関係で、そんなのは成立しないわ。
フレッチャーのようなクズが、なぜ今までクビにならずに済んでいたのか不思議でしょうがない。

ニーマンは「速く叩くことが優れたドラマーだ」と勘違いしている生徒であり、フレッチャーは速く叩くことばかり要求する愚かな指導者である。
ようするに、これは程度の低い生徒と指導者が、勘違いしたままジャズの練習をする話になっているわけだ。
その時点で大いに問題はあるのだが、それでも描き方によっては何とかなったかもしれない。
ところが困ったことに、この映画だとフレッチャーは「やり方はともかく指導者としては優秀」という設定であり、ニーマンも「才能のある演奏者」ということになっているのだ。

ニーマンの父親も親族も、彼を正当に評価する気が全く無い。それどころか冷たい態度を取り、「音楽は汚いビジネネスだ」とまで言い放っている。なんちゅう時代錯誤の偏見だよ。
それはニーマンを孤独な立場に追い込み、「何クソ」と奮起させるための仕掛けなんだろうとは思うのよ。だけど、あまりにも作為が不自然過ぎて、苦笑してしまうわ。
ただ、父と親族は冷淡だけど、そもそもニーマンがジャズに打ち込む理由も良く分からんのよね。
「音楽をする理由があるだろ?」という問い掛けはあるけど、ニーマンは何も答えないし。
なので、あれだけ酷い目に遭ってもフレッチャーのバンドに固執するモチベーションがサッパリ分からんのよ。

最初にニーマンがスタジオ・バンドで演奏するのは、原題にも使われているハンク・レヴィーの『Whiplash』だ。
まあタイトルに使っているぐらいだから、それを「重要な楽曲」として扱いたかったんだろう。だけど、「何故その曲にしたのか?」と言いたくなる。
だってさ、ニーマンはバディー・リッチに憧れているんでしょ。そして劇中では、「4ビートを倍テンで叩け」という指示が何度も出ているのよ。
それなのに、『Whiplash』って4ビートじゃねえだろ。あれって8ビートのジャズ・ロックだろ。

いや、ものすごく強引に解釈すれば、フレッチャーの台詞にある「倍テン(倍のテンポ)」で4ビートを叩いていると捉えることが出来るかもしれんよ。でも、やっぱり聴いている限りは8ビートだからね。
なので、そこまでにフレッチャーがニーマンに4ビートを倍テンで叩くよう指示するシーンが2度あるんだけど、それが全くの無意味になっちゃうでしょ。『Whiplash』を演奏させるのなら、その練習は何のためだったのかと。
しかもさ、『Whiplash』って8分の7拍子の曲なのよ。なんで変拍子を選ぶかね。そこは4分の4拍子で4ビートの楽曲を選ぶべきでしょ。それも、出来れば有名な曲にして、それを速いテンポで演奏させるという形にしておくべきでしょ。
フレッチャーはニーマンに初めて叩かせた時に「バディー・リッチだ」と言うけど、だったら尚さらのこと、4分の4拍子で4ビートの楽曲を選ぶべきでしょ。バディー・リッチに変拍子やジャズ・ロックのイメージなんて全く無いぞ。

『Whiplash』の練習シーンでフレッチャーがニーマンが「4ビートだ」と言っているんだけど、「いや違うだろ」と。
そんな基本的なことも分からんような奴が、なんで生徒たちから一目置かれる教授なのかと。
おまけにフレッチャーって、「カウントだ、1、2、3、4。1、2、3、4」と数えさせるんだぜ。
改めて書くけど、『Whiplash』って8分の7拍子の曲なのよ。だから、そんな数え方をしていたら、絶対にカウントが合わなくなるでしょ。
そんなことも分からん奴が、なんで高名な教授なんだよ。

ニーマンは死に物狂いでドラムを練習しているし、フレッチャーから罵声を浴びせられても必死で食らい付こうとする。
彼が懸命なのは良く分かるのだが、そこには「音楽やジャズへの情熱」が見えない。彼は「偉大な音楽家になりたい」と口にするが、音楽やジャズへの愛が伝わって来ない。
なので、どれだけ血だらけになって頑張る様子を見せられても、これっぽっちも応援したい気持ちが湧かないし、共感も出来ない。そして、まるで魅力を感じない。
っていうか本作品に魅力的な人物など登場しない。あえて挙げるならニコルぐらいだろう。少なくともジャズに携わる面々は、揃いも揃って魅力のカケラさえ見当たらない。
そんな連中が演奏しているので、ジャズやドラムの素晴らしさや魅力も全く伝わって来ない。

この映画におけるジャズは、「小難しい」「敷居が高い」という、あまり知らない人が持っているイメージを助長するような描かれ方になっている。
かつてジャズバンドに所属していたのに、そういう描き方をするってことは、デミアン・チャゼル監督がジャズを愛していないか、まるで理解していないか、どっちかだろう。
いずれにせよ、そんな映画を愛することなんて、私には絶対に出来ない。
それはバディー・リッチに対して失礼だわ。

終盤、フレッチャーは音楽院に密告して自分をクビに追いやったニーマンを復讐するため、彼に嘘の演目を教えて音楽祭のステージに出演させる。そして彼の知らない楽曲をバンドに演奏させ、大勢の観客の前で失敗させて屈辱を与えようとする。
そんなフレッチャーに復讐するため、ニーマンは勝手に別の曲を演奏し、バンドを従わせる。
ニーマンもフレッチャーも、観客のことやバンドメンバーのことなんて全く考えていない。
周囲に迷惑を掛けて、醜い争いを繰り広げる。

ニーマンとフレッチャーは終盤に至っても、音楽もジャズも愛さないクズだ。
そんな2人が映画のラスト、まるで「音楽を通じて分かり合えた、通じ合った」ってな感じの描写になっている。
だけど実際のところは、何も分かり合っちゃいない。ジャズの素晴らしさにも、音楽の楽しさにも、これっぽっちも気付いちゃいない。
だから、その演奏は心に全く響かないのだ。
何しろ、ニーマンもフレッチャーも相変わらず「速さこそ技術」という勘違いから全く脱却できていないしね。

(観賞日:2016年12月21日)


2015年度 HIHOはくさいアワード:第8位

 

*ポンコツ映画愛護協会