『人生は、奇跡の詩』:2005、イタリア

2003年3月、イタリアのローマ。大学教授で詩人のアッティリオは毎晩、同じ夢を見る。それは、一人の女性と結婚式を挙げる夢だ。式場 には大勢の参列者が集まり、2人を祝福する。女性はウェディングドレスに身を包んでいるのに、なぜかアッティリオは下着姿だ。式場 には警官が現れ、アッティリオの駐車違反を咎める。その女性は美しい詩を詠んでアッティリオを絶賛し、2人はキスを交わす。
ある日、アッティリアは2人の娘エミリアとローザを迎えに行く。2人は母親の元で暮らしている。約束の時間に遅刻したアッティリアは 、女中のカルラに「明日の朝9時に娘たちを学校へ送るよ」と言うが、「8時半です」と指摘される。さらに娘たちは、「ママは信用して ないわ」と軽く告げる。アッティリアは娘たちを、準備中のサーカスへ見物に連れて行く。弁護士からアッティリアに電話が掛かり、 「今日は審理の日だぞ。差し押さえの家具を売った一件だ。出廷しないと有罪になるぞ」と怒鳴られる。
夜、アッティリオの部屋でベッドに寝ていた娘たちは、コウモリが飛び込んで来たので大騒ぎする。しかしアッティリオが詩を朗読すると 、コウモリは窓から出て行った。感心する娘たちに、彼は「これが詩の力だよ」と告げる。アッティリオは大学の講義で、生徒たちに熱く 詩のことを語り掛ける。講義の後、彼は同僚のナンシーから「今夜、一緒に寝ない?」とストレートに口説かれる。かつてアッティリオは 、彼女と関係を持ったことがあった。
友人のエルマンノが教室に来たので、アッティリオは彼と共にナンシーの元を去った。アッティリオはイラク人の詩人フアドの発表会へ 出向く。フアドはアッティリオの友人だ。フアドのエージェントであるヴァレリは、彼がフランスを離れバグダッドへ戻ると決めたことを 発表した。会が終わった後、フアドは自分の伝記を執筆しているヴィットリアと話した。ヴィットリアは伝記を書くため、フアドを追って バグダッドへ行くつもりだった。
フアドの元へ挨拶に赴いたアッティリオは、ヴィットリアを見て驚いた表情を浮かべる。夢に出て来る花嫁は、彼女だった。ヴィットリア が立ち去ったので、アッティリオは後を追った。カフェにいたヴィットリアに話し掛けると、「何故いつも追い掛けて来るの?私のこと しか考えないの?」と彼女は呆れたような顔をする。アッティリオは「僕の家を見に来ないか」と誘うが、ヴィットリアは勘定を済ませて 立ち去った。慌ててアッティリオが追い掛けると、彼女は待ち伏せており、「貴方の家を見たいわ」と微笑した。
アッティリオの部屋では、ナンシーが彼を驚かそうとケーキやシャンパンを用意して待っていた。窓から外を見た彼女は、アッティリオが ヴィットリアを車に乗せて戻って来るのを目撃した。ナンシーは慌てて部屋を出た。アッティリオはヴィットリアを招き入れ、「一緒に 暮らさないか」と持ち掛けた。するとヴィットリアは彼の詩集『虎と雪』を持ち上げ、「雪の中で虎を見られたら、貴方と一生暮らすわ」 と笑みを浮かべた。アッティリオは「今夜は寒いし、泊まっていかないか」と誘うが、彼女は去ってしまった。次の日、ヴィットリアを 見つけたアッティリオは話そうとするが、彼女は車で走り去った。
ある夜、アッティリオはフアドからの電話を受けた。フアドは彼に、イラクを訪ねていたヴィットリアが爆撃に巻き込まれ、意識不明の 重体に陥っていることを教えた。薬も設備も無いので何の処置も取れず、医者は余命わずかだと言っているという。病院の名前を聞いた アッティリオはカルラに電話して娘たちのことを託し、翌朝にはバグダッドへ発とうとする。だが、ローマ空港で職員にチケットを求める と、「バグダッド空港は閉鎖されました」と言われてしまう。
アッティリオは赤十字のボランティアチームの責任者であるセラオ女史や派遣されるグアゼッリ医師たちと接触し、外科医を詐称して一員 に加えてもらった。イラクに入った医療チームはバスでバグダッドを目指すが、あと100キロほどの地点で、バスラへ戻れという無線指令 が届く。アッティリオは「どうしてもバグダッドへ行かなきゃならない」と言い、バスを降ろしてもらう。彼は乗り捨てられていたバスを 見つけ、それを運転する。途中でバスは動かなくなるが、フアドから電話が入ったので、迎えに来てもらうことにした。
アッティリオはフアドの案内で病院に到着し、意識不明のヴィットリアを発見する。アッティリオは「すごく元気そうだ。フアドが世界一 の医者を呼びに行ってる。2日で退院できるそうだよ」と一方的に話し掛けた。しかしフアドが連れて来たサルマン医師は、「希望は無い 。彼女は脳水種だが、治療薬が無い。だから余命は長くて4時間だ」と説明した。アッティリオが「薬を探して来ればいい」と言うと、 フアドは「バグダッドに薬局は無い」と告げる。しかしアッティリオは「4時間もあれば充分だ」と前向きな態度を示す。
アッティリオはフアドと一緒に街へ出るが、営業している薬局は見つからない。彼はバザールへ行ってみるが、薬は売っていなかった。 「薬剤師に薬を作らせよう」とアッティリオが言うと、フアドは「アル・ジュメイリという父の友人がいる」と告げる。2人がアル・ ジュメイリの元を訪れると、彼は「マンニトールやコーチゾンなど様々な材料が必要だが、バグダッドには無い」と述べた。アッティリオ が「50年前にはマンニトールやコーチゾンなんて無かった。脳水腫の患者に何をする?」と尋ねると、アル・ジュメイリは「グリセリンを 胃に入れて治療する」と答えた。
アッティリオが「グリセリンを作ることは出来るか」と訊くと、アル・ジュメイリは「バターが数キロとヤシ油とオリーブ油、主成分で あるソーダを作るための灰と脂が必要だ」と答える。アッティリオはグリセリンを作ってヴィットリアに飲ませるが、不安になった。彼は サルマンを見つけ、「前より悪くなってるみたいだ」と言う。するとサルマンは「薬は効いてますよ。生きているのが奇跡だ」と告げる。 アッティリオが病室へ戻ると、男が侵入していた。アッティリオが追い払うと、やって来たサルマンが「彼女のネックレスを盗もうとした ようですね。略奪が多いので、貴方が持っていた方がいい」と述べた。
アッティリオが「彼女の顔色が悪い。呼吸に問題が?」と問い掛けると、サルマンは「酸素があるといいのですが」と言う。アッティリオ はバザールに潜水服があったことを思い出した。アッティリオが外に出ると激しい戦闘が始まっており、人々が逃げていた。彼がバザール へ行くと、商人は荷物をまとめて逃げ出そうとしていた。アッティリオは商人と交渉し、潜水服を手に入れた。アッティリオは病室に戻り 、潜水服から外した酸素ボンベをヴィットリアに装着した。
サルマンが病室に来たので、アッティリオは「何か食べさせないと持たない」と告げる。するとサルマンは「栄養剤の点滴があれば。 コーチゾンと抗生物質もあればいいのだが」と言う。そこでアッティリオは、グアゼッリに電話を掛けた。彼らはバグダッドまで50キロの 地点に来ているが、検問所が通してくれないらしい。アッティリオは赤十字のテントへ出向き、医療物資をバイクに積み込んだ。病院に 戻った彼は、ヴィットリアに薬を与えた。サルマンが来たので、彼は「まだ彼女が動きません。どうすれば?」と質問した。サルマンは アッティリオに、「これ以上は何も出来ません。後はアラーの神に祈るだけです」と述べた…。

監督はロベルト・ベニーニ、脚本はヴィンセンツォ・セラミ&ロベルト・ベニーニ、製作はニコレッタ・ブラスキ、製作協力は ジャンルイジ・ブラスキ、製作総指揮はエルダ・フェッリ、撮影はファビオ・チャンチェッティー、編集はマッシモ・フィオッキ、美術は マウリツィオ・サバティーニ、衣装はルイーズ・スターンスワード、音楽はニコラ・ピオヴァーニ。
出演はロベルト・ベニーニ、ニコレッタ・ブラスキ、ジャン・レノ、トム・ウェイツ、エミリア・フォックス、ジュゼッペ・バチストン、 アンドレア・レンツィ、ジャンフランコ・ヴァレット、チアラ・ピッリ、アンナ・ピッリ、アミッド・ファリド、アブデルハリド・ メタルシ、ルチア・ポーリ、フランチェスカ・クトロ、フランチェスコ・デ・ヴィート、ドナト・カステラネッタ、フランコ・ メスコリーニ、スザンナ・マルコメニ、フランコ・バルベロ、ダニエル・ミグリオ他。


『ライフ・イズ・ビューティフル』『ピノッキオ』と同じく、ロベルト・ベニーニが監督&脚本&主演を務め、奥さんのニコレッタ・ ブラスキがヒロインを演じた作品。
アッティリオをベニーニ、ヴィットリアをニコレッタ・ブラスキ、フアドをジャン・レノ、ナンシーをエミリア・フォックス、エルマンノ をジュゼッペ・バチストン、グアゼッをアンドレア・レンツィ、弁護士をジャンフランコ・ヴァレット、エミリアをチアラ・ピッリ、 ローザをアンナ・ピッリが演じている。
また、アッティリオが夢で見る結婚式では、トム・ウェイツがピアノを弾きながら歌っている。

それは「いつものロベルト・ベニーニ」ってことなのだが、アッティリオはイタリア版ウディー・アレンの如く、神経質チックに早口で 饒舌に喋りまくる。
ただ、ウディー・アレンと大きく違うのは、アッティリオの言動が、かなり幼さの感じられるものになっているということだ。
特に、娘たちと自宅にいる時の言動は、ホントに大きい娘が2人もいる父親なのか、ひょっとすると知恵遅れというキャラクター設定 なのかと思うぐらい、かなり子供っぽさが感じられる。

アッティリオは、ヴィットリアと話す時に限っては、「まず積極的にアプローチし、冷たくされたら罵声を浴びせたり批判したりして、 すぐに態度を戻してアプローチする」ということを繰り返している。
すなわち、彼女を批判するのは本心じゃなくて、「冷たくされたから言い返したけど、好きだから再び口説く」ということだ。
それもまた、かなり子供じみた態度と言える。
でも、その一で、ヴィットリアとはすぐに寝たがるし、彼女に一途で一所懸命なのかと思ったら、ナンシーとは過去に肉体関係を持って いる。
ようするに、性的な部分では、大人そのものなのだ。
エロさ満タンという部分は、ウディー・アレン(の演じる主演キャラ)と全く同じだね。

アッティリオは常に、前向きな考え方を口にする。
ヴィットリアが意識不明で重体なのに、「元気そうだ、フアドが世界一の医者を呼びに行っていて、2日で退院できるらしい」と話し 掛ける。医者が「余命わずか」と説明しても、それを受け入れず、「彼女は元気だ。すぐに退院できる」と主張する。薬が無ければ4時間 しか持たないと説明されても、「4時間もあれば充分だ」と口にする。
彼は本気で楽天的に考えているのではなく、「ヴィットリアに必ず助かってほしい」という思いから、そのように前向きな内容を言葉と して発しているのだ。
「詩の力」ならぬ、「言葉の力」を信じているのだろう。

ただ、ヴィットリアに対して前向きなことを話し掛けるのはともかく、アッティリオがサルマンやフアドの前でも常に「彼女は元気だ」 「何の問題も無い」という楽天的なことばかり言っているのは、その態度も含めて、途中から不愉快なものに感じられてきた。
もちろんアッティリオはヴィットリアを助けたいと強く願っているんだろうけど、どうも真剣さに欠ける態度に見えちゃうんだよな。
ヴィットリアの事故を知らされる前と、その態度や口調がほとんど変わっていないというのも、そう感じた要因の一つだ。
ようするに、ヴィットリアを口説いている時と、同じような調子に見えるんだよね。
そりゃあ「口説く時も同じように真剣だった」と解釈できないこともないけど、それは難しいなあ。彼女に一途ってわけじゃなくて ナンシーとも関係を持っているから、ナンパな男に思えちゃうし。

この映画を観賞する上で重要なポイントは、「ファンタジーとして、どこまでを受け入れることが出来るか」ということだ。
『ライフ・イズ・ビューティフル』では「寓話としての虚構」があったが、同じように戦地を舞台にした本作品も、ロベルト・ベニーニは 寓話として仕上げている。そして、そこには寓話としての嘘が多く含まれている。
リアリズムで構築された作品でないことは序盤で分かるだろうし、どんな観客であろうとも、ある程度の嘘は受け入れることが出来る だろう(全てをリアリズムの尺度でしか捉えられない人は、そもそも本作品を見ること自体が間違っている。っていうか、娯楽映画の鑑賞 に向いていないので、やめた方がいい)。
問題は、どの範囲までなら受け入れることが出来るのかってことだ。

アッティリオはバグダッドへ行こうとするが、空港閉鎖でチケットが取れない。
すると医療チームを簡単に騙し、バグダッド入りに成功する。
途中で戻れという無線指令が届いてバスを降ろしてもらうと、近くには都合良く別のバスが乗り捨ててある。
廃車のような状態に見えるのだが、特に何もしないでも簡単に動き出す。
途中で動かなくなるが、そのタイミングで都合よくフアドから電話が入り、迎えに来てもらうことが出来る。

ヴィットリアを助けるための薬は売っていないが、都合良くフアドの知り合いに優秀な薬剤師がいる。
グリセリンを作る材料は、すぐ手に入る。素人のアッティリオが作ったグリセリンだが、ちゃんと効果がある。
「酸素ボンベがあるといのですが」とサルマンに言われると、アッティリオはバザールに潜水服があったのを思い出し、すぐ手に入れる。
「栄養剤の点滴があれば。コーチゾンと抗生物質もあればいいのだが」と言われると、赤十字のテントへ行って入手する。
で、点滴を打つと、翌日にはヴィットリアが回復する。
そういった様々な「都合の良すぎる展開」を、全て「ファンタジーだから」ということで受け入れることが出来るかどうかってのが、この 映画の評価において大きなポイントになってくる。

アッティリオのヴィットリアに対する思いは、一方的なものではない。
ヴィットリアは軽くあしらったり、からかうような態度を取ったりもしているが、まんざらでもない様子だ。
だからアッティリオがバグダッドへ行くのは、「自分はヴィットリアと結婚するのだという勝手な思い込みで突っ走っている」ということ ではない。
ただ、そうであっても、何の迷いも無く娘たちを放り出し、惚れた女のために危険な場所へ行くというのは、ちょっと引っ掛かるものが ある。

終盤になって、「実は、ヴィットリアはエミリアとローザの母親、つまりアッティリオの別居中の奥さんだった」ということが明らかに なる。
自分の妻であり、しかもエミリアとローザの母親である女を助けに行くのであれば、それは何の引っ掛かりも無い。
終盤まで2人の関係性を秘密にしておいたのは、もちろんサプライズ効果を狙ってのことだろう。
ただ、そのプラス効果よりも、上述したような気持ちの引っ掛かりとか、2人の関係性が良く分からないとか、そういうマイナスの方が 大きいような気がするなあ。

ロベルト・ベニーニは「イタリアのチャップリン」と称されることがあり、本人もチャールズ・チャップリンをリスペクトしているらしい 。
そんな気持ちがあったからなのか、終盤にはチャップリンの作品を連想させるシーンが用意されている。
ローマへ戻ったヴィットリアは、自分を救ってくれたのがアッティリオだと気付いていない。しかし額にキスされて「病室の時と同じ」と 気付き、アッティリオが自分を救ってくれたと思い出す。
これ、『街の灯』のラストシーンと似ている(『街の灯』の場合は娘は浮浪者の手に触れて気付く)。
ひょっとすると、それを意識したのかな。

(観賞日:2013年2月23日)


第29回スティンカーズ最悪映画賞(2006年)

ノミネート:【最悪の主演男優】部門[ロベルト・ベニーニ]

 

*ポンコツ映画愛護協会