『シン・レッド・ライン』:1998、アメリカ

1942年、ソロモン諸島ガダルカナル島。アメリカ陸軍C中隊のウィット二等兵は、メラネシア系原住民の村で穏やかな時間を過ごしていた。彼は亡くなった母のことを回想し、生命について考えた。彼は「戦争なんか、どうでもいい」と口にして、一緒に無許可離隊している仲間のホークと一緒に原住民と触れ合った。ウィットはホークと共に戦艦へ連れ戻され、ウェルシュ曹長の尋問を受ける。入隊して6年になるウィットは、これまでに何度も脱走を繰り返していた。脱走は本来なら軍法会議に掛けられるべき行為だが、ウェルシュはウィットを懲戒部隊に回し、担架兵として負傷兵を運ぶ仕事を命じた。
クインタード准将はトール中佐たちに、日本軍の南太平洋進出を食い止めるガダルカナル作戦について説明する。トールは普通なら退役している年齢だが、将軍たちにゴマスリをしながら今の地位まで這い上がって来た。クインタードは彼に、「敵を叩き潰して飛行場を死守するのだ。あんな島でも君には大切だ」と告げる。トールは長きに渡って家族に犠牲を強いて来たことを自覚していたが、もう後戻りは出来ないとも感じていた。
ウェルシュは部下のトレインから、不安な気持ちを吐露される。怖さを感じているのは、彼だけではない。C中隊の指揮官であるスタロス大尉は、上陸を前にした部下たちの様子を眺める。ベル二等兵は、故郷に残してきた妻マーティーのことを思い浮かべる。かつて彼は、妻と離れるのを嫌って除隊したこともあった。やがて戦艦はガダルカナルに近付き、装備を整えた兵士たちは輸送船に移って上陸した。
トールはC中隊に、「あの高地へ突入する」と告げた。スタロスは「無理です」と反対するが、「迂回は出来ない。左側は断崖で下は川だ。ジャングルは日本軍が押さえてる」とトールは言う。スタロスが「あそこには水がありません。部下が倒れます」と告げると、トールは命令を変えなかった。スタロスは正面突破することを部下たちに説明し、ホワイト少尉に指差して「あそこまで進んで敵の防衛拠点を掃討しろ」と命じた。その夜、スタロスは「部下を裏切らぬよう、私を貴方に預けます」と神に祈った。
翌朝、トールの命令によって、激しい砲撃が実施された。ウェルシュは部下たちに、「10人ずつ突入する。立ち止まると標的にされるぞ。走り続けろ」と告げた。彼はデイルに、自分と共に突入するグループの編成を命じた。ケック軍曹は腹の具合が悪くて動けないと訴えるシコに、「立て」と鋭い口調で命じた。しかしウェルシュは、「衛兵兵に診てもらえ」と告げた。一番手を命じられた2名の兵士は高地へ突入するが、すぐに撃たれた。
兵士たちは敵の場所が全く分からないまま次々に突入を試みるが、日本軍の攻撃を受けて倒れていく。スタロスは担架兵を呼んで助けるよう命じるが、「もう手一杯です」と言われる。それでもスタロスは「黙れ、俺は中隊長だ」と怒鳴り散らし、命令に従うよう告げた。ウィットは重傷の兵士がジャックだと聞き、「ジャックを運んだら隊に復帰させてくれますか」と問い掛けた。スタロスに「いいだろう。後から許可を出す」と言われ、ウィットは救助に向かった。
トールはスタロスと通信して「見事だ、良くやった」と称賛し、「正午までに丘陵の敵を掃討しろ」と命じる。敵の拠点を幾つ潰したか問われたスタロスは、「不明です」と答える。トールは「不明とは何だ。そこから見えないのか。もっと先へ進んで状況を把握しろ」と声を荒らげた。命を落としたブレインに代わってチームの指揮を任されたケックは、その段階で高地を占領することを諦め、今の場所で待機して増援を待とうと考える。誤って手榴弾のピンを抜いた彼は、自分の下半身を吹き飛ばして死亡した。死の間際、妻に手紙を書くよう頼まれたドールだが、ウィットに確認されて「俺の役目じゃない。お前が書け」と口にした。
窪みに隠れて戦況を窺っていたスタロスたちは、苦悶しながら歩いている兵士を目にした。せめてモルヒネを打てば痛みは和らぐが、迂闊に近寄れば攻撃を受けてしまう。ウェルシュは思い切って飛び出し、激しい銃撃をかいくぐって兵士を運ぼうとする。兵士が「もういい、ほっといてくれ」と諦めた様子を見せると、ウェルシュは近くで死んだ兵士が持っていたモルヒネを彼に渡した。窪みに戻ったウェルシュはスタロスから「明日、叙勲の申請を出そう」と言われ、「勲章だと。くだらねえ」と吐き捨てた。
トールは無線電話を使い、スタロスに「なぜ出て行かない?上の兵を助けろ。敵の機銃を潰せ」と命じる。「斜面で大勢がやられ、甚大な被害を受けています」とスタロスが説明しても、トールは「今すぐ動ける兵を使って戦わせろ。突撃命令を出せ」と怒鳴るだけだった。スタロスは「我々だけで高地の占領は無理です」と言い、偵察部隊を出して側面攻撃の可能性を探ることを要請した。それでもトールは聞く耳を貸さず、正面突破に固執した。
スタロスが「命令には従えません。部下を自殺に追いやることなど出来ません」と告げると、トールは「俺がそっちへ行って状況を判断する」と述べた。スタロスや部下のファイフたちが待機する中、トールが窪みに到着すると、第一小隊が丘を攻略中だった。通信した時と状況が変化していることをスタロスが話すと、トールは「全員で攻撃を仕掛けるぞ」と言う。今度はスタロスも反対しなかった。トールは声を荒らげ、「全員で高地を攻撃する。日没までに占領するぞ」と告げた。
丘の上を偵察したベルは、トーチカの機銃が5問あることを確認して戻った。トールは部隊を集め、頂上の岩場の敵拠点を潰すことを目標に掲げた。トーチカ破壊の任務に志願する者を募ると、ガフやウィットらが名乗り出た。翌朝を待って、ガフの率いるチームがトーチカへ向かった。ベルは無線で後方部隊に機銃の位置を指示し、砲弾を投下してもらう。激しい銃撃戦が始まり、ドールは手榴弾を投げ込む。距離を詰めたガフたちも次々に手榴弾を投げ込み、ついにトーチカを潰すことに成功した…。

監督はテレンス・マリック、原作はジェームズ・ジョーンズ、脚本はテレンス・マリック、製作はロバート・マイケル・ゲイスラー&ジョン・ロバデュー&グラント・ヒル、製作協力はマイケル・スティーヴンス&シーラ・デイヴィス・ローレンス、製作総指揮はジョージ・スティーヴンスJr.、撮影はジョン・トール、編集はビリー・ウェバー&レスリー・ジョーンズ&サール・クライン、衣装はマーゴット・ウィルソン、美術はジャック・フィスク、音楽はハンス・ジマー。
主演はショーン・ペン、共演はエイドリアン・ブロディー、ジム・カヴィーゼル、ベン・チャップリン、ジョージ・クルーニー、ジョン・キューザック、ウディー・ハレルソン、イライアス・コティーズ、ジャレッド・レトー、ダッシュ・ミホク、ティム・ブレイク・ネルソン、ニック・ノルティー、ジョン・C・ライリー、ラリー・ロマノ、ジョン・サヴェージ、ジョン・トラヴォルタ、アリ・ヴァーヴィーン、ミランダ・オットー、ポール・グリーソン、デヴィッド・ハロルド、ウィル・ウォレス、トーマス・ジェーン、ニック・スタール、マット・ドーラン、ジョン・ディー・スミス、ペニー・アレン、マーク・ブーン・ジュニア、ロバート・ロイ・ホフモ他。


1973年の『地獄の逃避行』、1978年の『天国の日々』の2作を撮って映画界から姿を消していたテレンス・マリックが、20年ぶりに監督を務めた作品。
原作は1962年に出版されたジェームズ・ジョーンズの同名小説。
ベルリン国際映画祭金熊賞、ニューヨーク映画批評家協会賞の監督賞など、数々の映画賞を受賞した。
ウェルシュをショーン・ペン、ファイフをエイドリアン・ブロディー、ウィットをジム・カヴィーゼル、ベルをベン・チャップリンが演じている。他に、スタロスの後任として中隊にやって来るボッシュ大尉をジョージ・クルーニー、ガフをジョン・キューザック、ケックをウディー・ハレルソン、スタロスをイライアス・コティーズ、ホワイトをジャレッド・レトー、ドールをダッシュ・ミホク、トールをニック・ノルティー、クインタードをジョン・トラヴォルタが演じている。
日本兵の役で、光石研や水上竜士、大久保貴光、岡安泰樹、酒井一圭らが撮影に参加している。

映像詩人であるテレンス・マリック監督だから、もちろん意図的にやっているんだろうが、大半の登場人物には分かりやすいアクの強さが与えられていない。物語が進む中で、登場人物の中身を掘り下げるような意識も乏しい。
で、美しい自然の風景と心象風景を織り込みつつ、複数の登場人物がポエムのようなモノローグを語る。
抽象的な表現も多く、兵士たちは哲学チックなことばかり考えている。ストレスの中でパニックに陥るとか、攻撃性ばかりが先鋭化されて野獣化してしまうとか、そういうワイルドな方向へイカれるキャラは、あまり見当たらない。
少なくとも、モノローグを語ったり妄想に浸ったりする面々は、みんな内省的になっている。

冒頭、自然の風景が写し出され、「大自然の中の戦争?なぜ自然が自らと戦う?陸と海は和を保っている。自然には復讐の力が?それも1つではなく2つ?」というウィットのモノローグが流れる。
次に彼の「母さんは死ぬ時、小さく縮んで顔は灰色だった。死が怖いかと尋ねたら、首を横に振った。僕は母さんの死相が怖かった。神に召されることの、どこが美しく幸せなのか。生命の不滅と言うが、一体どこにあるのか」というセリフがある。
そしてモノローグで、「死ぬ時の気持ちって?この呼吸が最後だと自分で知る気持ちは?母さんのように穏やかに死を迎えたい。生命の不滅は、きっとそこに隠されている」と話す。
その段階で、既に退屈な映画としての匂いがプンプンと漂って来ている。

「何をグダグダとワケの分からないことを言ってやがる」と突き放すのは先に延ばして、もう少し我慢しようと思いながら見ていると、トールというキャラクターが登場する。
この男もモノローグを語るのだが、その中身は「ベテランになりながらも上官に媚びへつらって、出世だけを目的に軍隊の仕事を続けている」ということなので、とても分かりやすい。
ここで「ああ、ひょっとするとウィットは特殊な存在で、そのテイストで全体を覆い尽くすわけじゃないのかな」と、ちょっとした期待が芽生える。
しかしガダルカナルに上陸した後、また「色々な形で生きている貴方。貴方が与える死。しかし、貴方から全てが生まれる。貴方の栄光、慈悲、安らぎ、真実。貴方は魂を鎮め、理解を下す。そして勇気と満ち足りた心を」だの「人間は1つの大きな魂を共有しているのか。幾つもの顔を持つ1人の男なのかも。誰もが魂の救済を求めている。人間は火から取り出されたら消える石炭」だのというモノローグが入り、やっぱり「何をグダグダとワケの分からないことを言ってやがる」と言いたくなってしまう。

なかなか戦闘が発生しないが、その中で緊張感が張り詰めているわけではない。
戦闘以外で特にこれといった出来事が起きることもなく、兵士たちの様子が淡々と描写される。静かに、そして、ゆっくりと上映時間が消費されていく。
ガダルカナルに上陸しても、そこに「いつ敵と遭遇して戦闘になるか」とい緊迫感は乏しい。
そこまでの流れの中で、「どうせ何も起きないんじゃないかな」という考えが頭の中を占めてしまっていることの影響は否定できない。

45分を過ぎた辺りで最初の戦闘シーンが待ち受けており、ここでようやく退屈の虫が消えてくれる。
ただ、しばらく戦闘シーンが続くと、また退屈の虫が舞い戻ってくる。
さすがに戦闘シーン以前よりはマシになっているのだが、誰が誰なのか良く分からないってのがネックになっている。
色んな場所で色んな奴が色んなことをやっているのだが、そいつが誰なのか分からないので、「良く分からない奴が何かをしている」という受け止め方になってしまう。
それだと、印象としては弱くなる。

どんな奴なのかってのが事前にアピールされていたら、例えば「強気なことを言っていた奴が、戦闘の中ではビビってしまう」とか、「繊細な神経をしていた奴が、戦闘の中で正気を失っておかしくなってしまう」とか、そういった変化が分かるだろう。ずっと攻撃的態度だった奴が敵を撃ちまくって吠えるという、そのまんまな行動があるかもしれない。
どうであれ、「戦闘の中で個々の本質が見える」という形になるはずだ。
しかしビフォーが無いもんだから、「どういう奴がどんな行動や態度を取っているのか」ってのが分からない。
大半の登場人物に関しては、その場での行動や態度しか分からないのだ。

大勢の隊員が登場するが、人間関係の描写が充実しているわけではない。
ほぼ個人としての心象風景を語ることに集中しており、ある人物が別の人物と絡むことでドラマが膨らむとか、物語が転がるとか、そういうことへの意識は薄い。
ある人物の気持ちが別の誰かと絡むことによって変化するとか、途中で人間関係が逆転するとか、そういうのも無い。
そもそも、誰がどの部隊にいるのか、戦闘時にはどこに位置しているのか、誰の下に誰が付いているのか、そういう相関関係や位置関係が良く分からない。

ストーリー進行としては、実は一本道でシンプルだ。
しかし、登場人物が多く、かなりゴチャゴチャしている印象を受ける。
人間関係が複雑に入り組んでいるわけではないのだが、高尚なモノローグの多さがその印象に大きく影響しているのだと思う。
また、一応は中心人物として配置されているウィットというキャラクターが何を考えているのか、どういう意識に基づいて行動しているのか、その辺りが最後までボンヤリしているというのも、全体として分かりにくい印象に繋がっている。

本作品より少し前にスティーヴン・スピルバーグ監督の『プライベート・ライアン』が公開されたため、どうしても比較されがちだが、片方は娯楽映画で片方はゲージツ映画なので、本来は同列に並べて語るべきではないだろう。
ただ、両方の作品を観賞すると、いかにスピルバーグが商業映画監督として優れた才覚を持つ人物なのかってことは良く分かる。
スピルバーグを単独で批評する時にそのような表現をしたら、そこには皮肉が少なからず込められている。
しかしテレンス・マリックと比較して批評する場合、それは全面的に称賛する言葉である。
「これこそが真に崇高な芸術映画というものだ」と言われたら、きっとそういうことなんだろう。それを否定はしない。
ただ、つまらないモンはつまらない。

(観賞日:2014年8月17日)

 

*ポンコツ映画愛護協会