『サマー・オブ・サム』:1999、アメリカ

1977年。ブルックリンでは、“サムの息子”と名乗る殺人鬼による連続殺人事件が発生していた。そんな中、イタリア人コミュニティーに暮らす美容師ヴィニーは浮気癖が治らず、妻ディオナの従妹キアラや美容院のグロリアと関係を持っている。ヴィニーはアナルセックスやフェラチオが好きだが、そういった行為をディオナには要求しない。
キアラとのカーセックスを途中で切り上げた夜、ヴィニーは自分が先刻までいた場所で、警察が集まっているのを目撃するるその現場に停まっていた車の中で、カップルがサムの息子に殺されたのだ。ヴィニーは車に近付き、その死体を間近に見た。ヴィニーは仲間のジョーやエディから、犯人に姿を見られたのではないかと言われる。
しばらく街を離れていたリッチーが、久しぶりに戻ってきた。彼はイギリスのパンク・ロックに感化され、パンク・ファッションに身を包んでいた。リッチーはコミュニティーの中では浮いた存在となるが、ヤリマンで有名なルビーだけは心を惹かれる。ほどなく、2人は交際を始めた。リッチーは金を稼ぐため、ストリップショーに出演していた。
サムの息子を追っている刑事のルーは、イタリア系コミュニティーを牛耳るマフィアのボス、ルイジに捜査協力を依頼した。ルイジは懸賞金を出し、自分達の手でサムの息子を探そうとする。サムの息子による犯行が続く中、ブルックリンは停電になってしまった。黒人やプエルトリコ人による略奪が始まり、街はパニックに陥った。
ヴィニーの浮気に気付いていたディオナは、それでも彼のために尽くそうとしていた。しかし彼から責められたことで怒りを爆発させ、ディオナは家を出て行った。一方、ジョーやエディ達はリッチーがサムの息子だと考え、彼を捕まえようとする…。

監督はスパイク・リー、脚本はヴィクター・コリッキオ&マイケル・インペリオリ&スパイク・リー、製作はジョン・キリク&スパイク・リー、製作総指揮はマイケル・インペリオリ&ジェリ・キャロル=コリッキオ、撮影はエレン・クラス、編集はバリー・アレクサンダー・ブラウン、美術はテレーズ・デペレス、衣装はルース・E・カーター、音楽はテレンス・ブランチャード、音楽監修はアレックス・ステイヤーマーク。
出演はジョン・レグイザモ、エイドリアン・ブロディー、ミラ・ソルヴィーノ、ジェニファー・エスポジート、アンソニー・ラパグリア、ベベ・ニューワース、パティ・ルポーン、ベン・ギャザラ、ジョン・サヴェージ、マイケル・バダルッコ、マイケル・リスポリ、マイク・スター、ロジャー・グーンヴァー・スミス、サヴェリオ・グエラ、ブライアン・タランティーナ、アーサー・ナスカレラ、ジミー・ブレスリン、スパイク・リー他。


実在した殺人鬼、“サムの息子”ことデヴィッド・バーコウィッツによる連続殺人事件が発生した時代のブルックリンを描いた作品。
ヴィニーをジョン・レグイザモ、リッチーをエイドリアン・ブロディー、ディオナをミラ・ソルヴィーノ、ルビーをジェニファー・エスポジートが演じている。スパイク・リー監督も、TV番組のリポーター役で出演している。

序盤、ヴィニーはバーコウィッツに殺されたカップルの遺体を目撃する。ここから、ヴィニーと連続殺人事件がどう絡んでいくのかと思ったら、全く関わりが深まっていかない。なぜならスパイク・リー監督は、殺人事件にも殺人鬼にも興味が無いからだ。
どうやら監督は、殺人事件によって集団ヒステリーに陥る人々の姿を描きたかったようだ。しかし映画を見た限り、そういうことを本当に描きたかったのか疑わしい。事件や殺人鬼だけでなく、パニックになる人々への興味も希薄だったとしか思えない。

映画はバーコウィッツをほとんど放置したまま、ヴィニーやリッチー、その周囲の人々の生活風景を描いて行く。そこには、特に大きな事件もハプニングも無い。雑然とした雰囲気の中で、マッタリとした当時の風俗グラフィティーが綴られて行くだけだ。
ヴィニーの個人的な苦悩&苛立ちの爆発と、連続事件のクライマックスを同時に持って来て、それを絡ませようという構成になっている。で、確かに構成としてはそうなのだが、実際にクライマックスに向けての流れがどうなのかというと、どうにも上手くない。

ヴィニーのストーリーの軸となるのは、彼が変なモラルに固執している浮気男だということだ。彼はアナルセックスやフェラチオが好きだが、「そんなことは妻にさせるべきでない」という考えの持ち主。だから、そういうことは浮気相手とやっている。
で、そういう問題と、バーコウィッツの事件は、どうやっても結び付かないのである。浮気癖が治らないヴィニーのフラフラした女性関係などが、漫然と続くだけだ。たまにバーコウィッツが出てくるが、スリルやサスペンスを醸し出すというわけではない。

ヴィニーやリッチー達の日常ドラマが描かれて行く中で、「彼らの中に、少しずつ殺人鬼への恐怖心や周囲の人々への猜疑心が広まって行く」といった描写は全く無い。もしも、そういう匂いを漂わせようとしているのなら、それは失敗しているということだ。最初から描写の意図が無いにしろ、やろうとして失敗しているにしろ、どっちにしてもイカンだろう。
マイノリティーであるリッチーへのヘイト・クライムは、前半はほとんど描かれていない。後半になって、ようやく強い形でのヘイト・クライムが描かれ始める。しかし、それが希薄だった前半部分は、後半部分に向けての助走として成立していない。

人々の大きなパニックは、殺人鬼に対する恐怖ではなく、大規模な停電によって発生している。その後、人々が「殺人鬼を探せ」と盛り上がるシーンがある。だが、それは流れの延長線上には無く、突発的な事故の後ねルイジの指示によって生じるものだ。
しかも、そこから殺人鬼探しでヘイト・クライムが次第にエスカレートしていくのかと思ったら、すぐにトーン・ダウン。ヴィニーとディオナが乱交パーティーに参加するとか、ケンカするとか、殺人事件やヘイト・クライムとは全く無関係な話が描かれる。

その後、ヴィニーの仲間達が、「リッチーは殺人鬼に違いない」という確信めいた疑いを抱く。しかし、その展開に無理を感じずにはいられない。どうして無理を感じるかというと、前述したように、そこまでの展開において、「人々の間に少しずつ恐怖心や猜疑心が広まって行く」という描写、そこに至る自然な流れが見られないからだ。
しかも、リッチーに確信めいた疑いを抱いているのは、ヴィニーの周囲にいる少数の仲間達だけだ。だから、「殺人事件による恐怖心とは無関係に、ただイタリア人コミニュティーの奴らだけがリッチーに対して差別的なだけでは?」とさえ思ってしまう。

スパイク・リー監督は、集団ヒステリーのドラマよりも、ニューヨーク・ヤンキースの黒人選手レジー・ジャクソンの姿とか、黒人のオバサンによる「白人が白人を殺した事件で良かった。黒人が白人を殺した事件だと大変だったからね」と皮肉めいた言い回しでインタヴューに答えるシーンとか、そっちの方が関心が強いんじゃないだろうか。
この映画によって、スパイク・リー監督はマイノリティーの怒りやヘイト・クライムを描くのではなく、あくまでも黒人の問題を描く人だということが良く分かる。彼の映画監督としてのアイデンティティーは、自身が黒人であるという部分に、ものすごく頼っているのだ。

スパイク・リー監督は、この作品で黒人映画からの脱皮を目指したのかもしれない。しかし前述したように、彼は黒人であることで映画監督としての自分を保っている人なのだ。だから、黒人ではないコミュニティー、黒人差別ではないヘイト・クライムを描こうとした時に、どういう切り口で、どういう方向性で描けばいいのか分からなくなったのだろう。
冒頭、本人役で出演しているジミー・ブレスリンが、「今のニューヨークは経済も好調だし犯罪率も低下した」「これは古き良き時代のニューヨークを描いた作品」と語っている。結局、スパイク・リー監督は、この時代への強いノスタルジーを描きたかったのではないだろうか。混沌とした1970年代を懐かしみたかっただけなのではないだろうか。


第22回スティンカーズ最悪映画賞

ノミネート:【最悪の助演男優】部門[スパイク・リー]

 

*ポンコツ映画愛護協会