『ソイレント・グリーン』:1973、アメリカ

2022年、人口4000万のニューヨーク。人口増加による食糧不足に伴い、人々は配給制による食品を摂取することで生活している。配給されているのは、ソイレント社が製造しているソイレント・レッドとソイレント・イエローだ。サンティーニ知事はテレビに出演し、海中プランクトンで作った高栄養食品のソイレント・グリーンも配給することを発表した。マンハッタンだけで失業者が2000万人を超える中、14分署のソーン刑事は安アパートにソル・ロスという老人と2人で暮らしている。ソルは「ブック」と呼ばれる存在で、事件に関する情報を集めるのが仕事だ。電力も不足しているため、彼らは室内に設置した自転車を漕いで電気を付けている。
しかし、ごく一部の裕福な人間は、電力不足に苦しむこともなく、特別な食料を手に入れることも出来る。弁護士のウィリアム・R・サイモンソンも、その一人だ。彼の「家具」であるシャールとボデイー・ガードのタブは、外出許可証を持って買い物に出掛ける。雑貨屋のブレディーは野菜や果物の他に、注文を受けていた牛肉も用意した。2人の外出中、ギルバートという男がバールを持ってサイモンソンの住む高級アパートに侵入した。侵入者を予期していたサイモンソンに、ギルバートは「君は信用できないという伝言だ」と告げた。サイモンソンは観念し、無抵抗のままギルバートにバールで殴り殺された。
通報を受けて現場へ赴いたソーンは、タブに酒を用意させ、石鹸を使って顔や手を洗った。彼はタブに供述書を書かせ、室内にあった果物や野菜、白い紙や鉛筆などを没収した。帰宅した彼が本やウイスキーを見せると、ソルは興奮した。牛肉を目にした彼は、感動で涙した。ソーンはタブのアパートを訪れるが、彼は不在で「家具」のマーサしかいなかった。ソーンは室内を調べ回り、マーサが隠そうとしたイチゴジャムを目ざとく見つけて盗み取った。
帰宅したソーンは、ソルの作った料理を堪能した。ソルはサイモンソンについて調査し、サンティーニが協力者であること、ソイレント社の幹部を務めていたことを突き止めた。外出したソーンは尾行を撒き、サイモンソンのアパートへ赴いた。するとシャールは大勢の仲間を呼び寄せてパーティーを開いていた。シャールを奥の寝室へ呼んで2人きりになったソーンは、「あれは強盗じゃなくて暗殺だ」と告げた。ソーンはサイモンソンの身内や仕事関係について尋ねるが、シャールは何も知らない様子だった。
サイモンソンを訪ねて来た人間についてソーンが尋ねると、シャールが挙げた面々の中にサンティーニの名前もあった。サイモンソンと出掛けることは少なかったが、教会へ同行したことがあると彼女は話す。その時にサイモンソンはお祈りをして神父と話しただけで、自分を連れて行った理由は分からないという。ソーンはベッドに入り、シャールを抱いた。シャールはソーンを素直に受け入れただけでなく、彼が帰ろうとすると「もっと一緒に居て。朝食を作るわ」と引き留めた。ソーンは熱いシャワーを浴び、彼女と抱き合った。
ソーンは教会を訪れ、パウロ神父にサイモンソンのことを尋ねる。パウロはサイモンソンが告白に来たことを話すが、その内容については「身の破滅を招く」と口を閉ざした。さらに調べを進めようとするソーンだが、ハッチャー主任から捜査の打ち切りを命じられる。書類に署名するよう求められたソーンは激しく反発するが、ハッチャーは「お偉方が終結を望んでる。俺が責任を取る」と告げる。ソーンは「アンタのためでも仕事のためでもない」と声を荒らげ、署名を拒絶した。
ハッチャーに圧力を掛けたソイレント社のドノヴァンは、サンティーニと会って「事件の早期終結を図ったのですが、担当刑事に拒否されました」と報告した。サンティーニは彼に、任務の遂行を指示した。ドノヴァンの派遣した殺し屋は、パウロを銃殺した。ソーンは同僚のキュロジクたちと共に、配給の警備に就いた。ソイレント・グリーンの不足で暴動が発生する中、その騒ぎに紛れた殺し屋がソーンを殺害しようとした。ソーンは脚を撃たれて負傷するが、殺し屋も鎮圧部隊のショベルに押し潰された。
ソーンはタブの部屋で彼を待ち伏せ、殴り付けて「手を貸したな。ソイレント社から幾ら貰った?これ以上、捜査の邪魔をしたら、家具もまとめて殺してやる」と脅しを掛けた。ソーンはサイモンソンのアパートへ行き、シャールに怪我の手当てをしてもらった。一方、ブックの交換所を訪れたソルは、サイモンソン事件について仲間に協力を要請する。すると交換所のリーダーは、「サイモンソンは事実を知って正気を失った。会社は彼が口外することを恐れて始末した」と話す。ソーンが帰宅すると、ソルは「私はホームへ行く」という置き手紙を残して姿を消していた…。

監督はリチャード・フライシャー、原作はハリイ・ハリスン、脚本はスタンリー・R・グリーンバーグ、製作はウォルター・セルツァー&ラッセル・サッチャー、撮影はリチャード・H・クライン、編集はサミュエル・E・ビートリー、美術はエドワード・C・カーファグノ、衣装はパット・バート、音楽はフレッド・マイロー。
出演はチャールトン・ヘストン、リー・テイラー=ヤング、エドワード・G・ロビンソン、チャック・コナーズ、ジョセフ・コットン、ブロック・ピータース、ポーラ・ケリー、スティーヴン・ヤング、マイク・ヘンリー、リンカーン・キルパトリック、ロイ・ジェンソン、レナード・ストーン、ウィット・ビセル、セリア・ロヴスキー、ディック・ヴァン・パタン、モーガン・ファーレイ、ジョン・バークレイ、ベル・ミッチェル、シリル・デレヴァンティー、フォレスト・ウッド、フェイス・クアビウス、ジェーン・デュロ他。


ハリイ・ハリスンの小説『人間がいっぱい』を基にした作品。
アボリアッツ・ファンタスティック映画祭でグランプリを受賞している。
脚本は『ハイジャック』のスタンリー・R・グリーンバーグ、監督は『ミクロの決死圏』『絞殺魔』のリチャード・フライシャー。
ソーンをチャールトン・ヘストン、シャールをリー・テイラー=ヤング、ソルをエドワード・G・ロビンソン、タブをチャック・コナーズ、シモンソンをジョセフ・コットン、ハッチャーをブロック・ピータース、マーサをポーラ・ケリーが演じている。
エドワード・G・ロビンソンは、これが遺作となった。
藤子・F・不二雄の短編漫画『定年退食』を読んでいたので、同じネタだなあと思ったのだが、偶然の一致らしい(作品としてはハリイ・ハリスンの小説の方が先に発表されている)。

今になって観賞すると、「未来の地球」の世界観が古臭いのは、ある程度は仕方が無いだろう。
そこに未来っぽさは微塵も感じられない。
逆に楽観視が過ぎるようなSF映画も存在するが(2000年代の設定なのに宇宙都市が建設されているとか、瞬間移動装置があるとか)、この映画は1973年の風景をそのままスラム化させているだけという風に感じる。
「科学は進歩したが、そのせいで食糧危機や極端な格差社会が生み出されてしまった」という状況には見えない。

この映画には、絶望感、無力感、閉塞感、切迫感といったものが不足していると感じる。
そういった状況に置かれたことに対する、人々のどうしようもない不安や焦燥、あるいは諦念といった感情も伝わらない。
それも仕方のない部分はあって、なぜなら主人公のソーンは、まだ恵まれた部類の人間だからだ。
周囲には餓死寸前で困窮している連中もいるが、ソーンは警察の特権階級を使って食料や物資を入手することが出来るのだ。

ソーンも刑事の仕事を失えば、下手をすると一気にホームレスと同じ立場に置かれる可能性もある。
しかし、そういったことに対する強烈な不安を抱いているようにも見えない。
序盤にソーンは「我々も失業するぞ」と言っているが、それほど危機感を抱いているようには見えない。彼の様子を見る限り、何となく余裕が感じられる。
同居人であるソルが自転車を漕いで電力を作るシーンにも、どことなくユーモラスなテイストが含まれている。そこに悲哀は無い。

うだるような猛暑が続いている設定で、ソーンが汗を拭くなどして暑さを表現するシーンもあるのだが、そこから「苛立ち」とか「焦燥」といったところへ繋がるようなことは無い。
そもそも、猛暑の表現も物足りない。もっと「暑さが人々の心をトゲトゲしくしたり、行動を狂わせたりする」ということが描かれても良さそうなものだが、あまり猛暑続きの設定が効果的に使われているとは思えない。
っていうか、その設定、ほとんど意味が無い状態と化している気がするぞ。
高級住宅街を除けば冷房設備も扇風機も無いんだから、室内だって蒸し暑くてたまらないはずなのに、そういう様子は見られないし。

ソーンが絶望感や閉塞感、不安や焦燥を体現する立場に無いのであれば、彼が関わる人々を使って表現するのも一つの手だろう。
しかし、序盤にはアパートの階段に足の踏み場も無いぐらいのホームレスが寝転がっている様子が写し出され、他にも動かなくなった車で生活している人々や配給に並ぶ人々の様子なども描かれるが、それは背景の一部でしかない。
だから、言ってみりゃ「戦後間もなくの日本」みたいな雰囲気にしか感じない。
もちろん物資は不足しているだろうが、「どんどん悪くなっている」「絶望的な状況である」というアピールは全く感じない。

ソーンが教会を訪れると、建物の前では母親が死んでおり、彼女がロープで繋いでいる幼児が何も分からずに佇んでいる。教会に入ると、大勢の貧しい人々が押し寄せている。彼らに場所を提供している神父は、すっかり精神的に疲れ果てて目もうつろになっている。
そういう教会の様子が写し出されると、ようやく絶望感が伝わってくる。
でも、そういうのが全く足りない。
そもそも、そういうのを描写することに重点を置いていないのかもしれないけど、だとしたら、その方向性からして疑問だし。

原作もそういう設定なのかもしれないが、「ブック」や「家具」のキャラクター設定や意味合いが良く分からない。 まずブックについては、情報収集や調査を担当しているのだが、そのための特別な役職が存在する理由が分からない。
普通に警官が調査活動をすればいいだけじゃないかと思ってしまうのだ。
ブック本人が「歩く書物」のような存在で膨大な知識を保有しているわけではなくて、彼が本を調べて情報を集めるんだし。
わざわざ「ブック」という呼び名で別個の扱いになっているのは、ちょっと良く分からない。

家具の方も、金で囲われて男と同棲しているんだから、ようするに愛人ってことじゃないのかと思っちゃうんだよな。もしくは、娼婦という扱いでもいいだろう。
どっちにしろ、わざわざ「家具」という呼び方で、まるで特別な職業のように位置付けている意味は無いんじゃないのかと。
一応、特定の人間に囲われているのではなく、その部屋に付属している女性であり、だから住人が変わっても同じ場所で愛人のような暮らしを続けるという設定ではあるんだけど、そんなに大きな意味があるとも思えない。
むしろ、ブックとか家具といった設定を排除して、もっと「食糧難」という部分の描写を充実させた方が良かったんじゃないかなあ。

序盤で失業を恐れていたソーンが、ハッチャーの命令に逆らってまで捜査を続けようとする動機が良く分からない。
彼は捜査の途中でも、権力を盾にして物資を盗み取ったり、女を寝取ったりするような男だ。それはソーンだけなく、警察が当たり前のようにやっている行為という設定のようだが、ようするに彼も他の刑事たちと同様、かなり腐敗した人間ったことだ。
それなのに、「上からの命令や圧力に負けず、必ず事件を究明する」という使命感や正義感に、どの辺りで目覚めたのか。
そして、その理由は何なのか。
そういうことは、映画を見ていても全く分からない。

交換所でサイモンソン事件に関する重要な情報を得たソルは、「ホーム」と呼ばれる場所へ足を向ける。
でも、それまでに一度もホームが登場したことは無かったし、会話の中で言及されたことも無かった。そこに来て、唐突に「ホーム」と いう場所が示される。それは構成として不格好でしょ。
どう考えたって、そこまでにホームについての描写を入れるべきだわ。
もちろん、そこで何が行われているのかは終盤まで秘密でいいんだけど、そういう場所が存在することは提示しておくべきだろう。

ホームについての描写を先にやっておかないと、終盤になってホームを初登場させて、その流れで「実はホームでこういうことが行われていました」という種明かしをされても、「そもそもホームが表向きはどういう場所として説明されていたのかも知らないし」ってことになってしまう。
あと、ソイレント社についての描写も薄いんだけど、それも不満を覚える。
もっとソイレント社の存在感は強めておくべきでしょ。
本社ビルを写すとか、幹部会議のシーンを用意するとか。

(観賞日:2014年6月2日)

 

*ポンコツ映画愛護協会