『サウンド・オブ・サンダー』:2005、アメリカ&イギリス&ドイツ&チェコ
西暦2055年、チャールズ・ハットンが社長を務める旅行代理店のTIME SAFARI社は、タイムマシン“TAMI”を使ったツアーを企画した。それは6億5千万年前にタイムスリップし、恐竜を狩るというハンティング・ツアーだ。5分がタイムリミットのツアーだが、金持ちの間で大人気となっていた。その日もウォーレンベック父娘がツアーに参加し、恐竜を仕留めた。戻った父娘を接待するパーティーが開かれていると、科学者のソニア・ランドが乱入してツアーの危険性を訴える。ハットンは警備員に命じ、彼女を追い出した。
TIME SAFARI社のトラヴィス・ライヤー博士はソニアの警告に興味を示し、彼女を追って声を掛けた。ソニアはトラヴィスに、自分が開発した“TAMI”の権利をハットンが奪い取り、危険なツアーを企画したことを話す。トラヴィスはソニアをラボへ連れて行き、過去へ行って絶滅した動物のDNAを採取していることを語った。研究のためにツアーが必要だと話すトラヴィスに、ソニアは「ハットンは金のことしか考えてない。貴方たちは進化を破壊しようとしている」と告げた。
ハットンはテッド・エックルズとクリスチャン・ミドルトンの2人とツアー契約を交わし、添乗メンバーのジェニー・クレイズ、マーカス・ペイン、ルーカス医師、トラヴィスに紹介する。その場には政府の監督官であるデリスも同席している。狩りに使う武器はレーザー銃で、液体窒素の弾丸を発射する。ツアーでは、何も変えず、何も残さず、何も持ち帰らないというのがルールだ。一行はタイムマシンに乗り込み、白亜紀に移動した。
ツアー客が無闇に発砲することを防ぐため、トラヴィスが最初に撃たないと他のレーザー銃は安全装置が外れないことになっている。今回のツアーでも、いつものように恐竜が出現し、トラヴィスが最初に撃とうとする。しかしレーザー銃に問題が発生して弾丸が発射されず、エックルズとミドルトンは慌てて逃げ出す。何とかトラヴィスの銃を修理して恐竜を退治し、一行はTIME SAFARI社に帰還した。
トラヴィスが会社を出ると、11月とは思えない暑さだった。帰宅してテレビを付けると、ミシガン湖の岸に何千匹もの魚が打ち上げられたというニュースが報じられていた。翌朝、トラヴィスは壁を破壊して伸びている木があるのを目にした。中国人の客を連れてツアーに出たトラヴィスたちは、6億5千万年前に到着する。だが、そこでは既に恐竜が絶滅し、彼らの目の前で火山が噴火した。慌てて帰還した一行だが、“TAMI”は座標計算に間違いが無かったことを告げた。
問題の発生を受け、政府はツアーの中止を決定した。トラヴィスはソニアの元へタクシーで向かうが、その途中で地面が崩れる。それは植物の異常な繁殖が原因だった。ソニアのアパートに入ると、植物の異常繁殖が起きていた。ソニアはトラヴィスに、タイム・ウェイヴが発生していることを指摘した。無数の虫が襲って来たので、2人はアパートから脱出した。するとトラヴィスが来た時には無かった大木が生えているなど、街の景色が変化していた。
ソニアはトラヴィスに、進化の波である「タイム・ウェイブ」が起きる度に歴史が変化するのだと説明した。最後の波が起きた時には、人類が滅びることになるという。トラヴィスはソニアに協力してもらい、エラーの修復を試みる。彼は銃の故障が発生したツアーを中止させることで、問題を解消しようと考えた。だが、その時代に飛んだはずのトラヴィスは、先住民の時代に出てしまう。そこでもタイム・ウェイヴが発生したため、トラヴィスは慌ててTIME SAFARI社に戻った。
TIME SAFARI社は停電によって、真っ暗になった。予備電源で明るくすると、屋内は植物に浸食されていた。ソニアはトラヴィスたちに、「タイム・ウェイヴは波紋なの。波紋は壊せない。つまり起きた変化より前には戻れない」と述べた。トラヴィスたちは原因を突き止めるため、エックルズたちを案内したツアーの映像を確認する。気になる点は何も見つからなかったが、記録を調べると行く前よりも重量が1.3グラム増えていた。
バイオフィルターがあるため、何かを持ち帰ることは不可能なはずだ。ところが、ハットンは経費を節約するため、バイオフィルターを切っていたのだった。トラヴィスたちは荷物を調べるが、何を持ち帰ったのかは分からなかった。ソニアは一行に、波紋に穴を開けて反対側から6億5千万年前に戻るという方法を提案した。そうすればタイム・ウェイヴは起きていないことになるので、無事に帰還することが出来るはずだと彼女は語る。ただし、時間は15秒から20秒が限度だとという。
トラヴィスたちはエックルズが足を踏み外して何かが付着した可能性を疑うが、電話をしても繋がらない。トラヴィス、ソニア、ジェニー、ペイン、ルーカスは武器を手に取り、彼のアパートへ向かう。植物が異常なスピードで繁殖しており、何に襲われるか分からないために武装したのだ。未知の植物にペインが襲われ、毒にやられる。未知の動物が群れが襲って来ると、ペインはトラヴィスに「俺が食い止める。もう俺は歩けない。世界を元に戻せ」と告げた。トラヴィスたちは避難し、ペインは群れに食われた。
トラヴィスたちはエックルズの住まいに辿り着き、彼の荷物を調べるが、特に問題は無かった。エックルズにミドルトンのことを訊くと、別行動を取っていた時間があったという。ミドルトンは妻に追い出され、オフィスの入っているビルにいるという。かなりの距離があるため、トラヴィスたちは地下駐車場の車を使い、ビルへ向かう。建物に入ると、ミドルトンは「食料は渡さん」と叫んで銃撃して来た。植物の影響で正気を失っている彼は、トラヴィスたちの説得を聞き入れようとせずに発砲し、最後は自害した…。監督はピーター・ハイアムズ、原作はレイ・ブラッドベリ、映画原案はトーマス・ディーン・ドネリー&ジョシュア・オッペンハイマー、脚本はトーマス・ディーン・ドネリー&ジョシュア・オッペンハイマー&グレッグ・ポイリアー、製作はモシュ・ディアマント&ハワード・ボールドウィン&カレン・ボールドウィン、共同製作はフランク・ヒュブナー&ヤン・ファントル、製作協力はスティーヴ・カンター、製作総指揮はエリー・サマハ&ロマーナ・シサローヴァ&ジョン・ハーディー&リック・ナサンソン&イエルク・ヴェスターカンプ&ウィリアム・J・イマーマン&ブレック・アイズナー、撮影はピーター・ハイアムズ、編集はシルヴィー・ランドラ、美術はリチャード・ホランド、衣装はエスター・ヴァルツ、音楽はニック・グレニー=スミス。
出演はエドワード・バーンズ、キャサリン・マコーマック、ベン・キングズレー、ウィリアム・アーロストロング、ジェミマ・ルーパー、デヴィッド・オイェロウォ、コーリー・ジョンソン、ヴィルフリート・ホーホルディンガー、アウグスト・ツィルナー、ハイケ・マカチュ、アーミン・ロード、スチュアート・オン、チョウ・ホー・ホン、マルティン・スヴェトリク、ジョン・コマー、ニキータ・ル・スピナッセ、カート・ヴァン・デル・バッシュ、アントニン・ハウスクネヒト、アネズカ・ノワコーワ、スコット・ベルフイユ他。
レイ・ブラッドベリの小説『雷のような音』を基にした作品。
トラヴィスをエドワード・バーンズ、ソニアをキャサリン・マコーマック、ハットンをベン・キングズレー、エックルズをウィリアム・アーロストロング、ジェニーをジェミマ・ルーパー、ペインをデヴィッド・オイェロウォ、ミドルトンをコーリー・ジョンソンが演じている。ルーカスをヴィルフリート・ホーホルディンガー、デリスをアウグスト・ツィルナーが演じている。
監督は『エンド・オブ・デイズ』『ヤング・ブラッド』のピーター・ハイアムズ。時間旅行の要素を持ち込んだ作品には、タイム・パラドックスという問題が必ず付いて回る。それをどうやって処理するか、どうやって整合性を持たせるかというのは、そう簡単に解決できることではない。
そこで本作品では、大胆な方法を取った。
なんと、完全にタイム・パラドックスを無視したのである。
まあ考えてみれば、ピーター・ハイアムズは『タイムコップ』でもタイム・パラドックスを軽視していたが、それよりも今回の方が、そこを無視することの問題は大きい。『タイムコップ』はジャン=クロード・ヴァン・ダム主演でアクションが重視されていたが、この映画の場合、タイム・パラドックスそのものが何よりも重要な要素のはずだ。
しかし、そんなことよりも、この映画はサバイバル・アドベンチャーやモンスター・パニックといった方向へ舵を切っている。
街は崩壊し、未知の植物や動物が現代に出現し、人々に襲い掛かるという内容で中身を膨らませて、たぶんレイ・ブラッドベリが想像もしなかったであろう方向へ物語を進めている。歴史の変化は「タイム・ウェィヴ」という形で表現され、それが来る度に少しずつ変化していく(これも原作には無い設定だ)。
しかも、その波はハッキリと目に見えるという、とても都合のいい設定になっている。
その波が来ると、巻き込まれた人間は吹き飛ばされる。時間の波って、そういうモンなのか。
しかも、タイム・ウェーヴが次々に訪れているのに、人間は最後の波が来るまで生き続けており、別の形で進化することは無い。
なぜかタイム・ウェイヴは、「人間が最上位」というヒエラルキーを忠実に守っている。最初に起きる変化は「11月なのに暑い」という異常気象だが、そこから物語は珍妙な方向へ転がって行く。
植物が異様なスピードで繁殖していく辺りまでは、まだ何とか踏み止まっているが、その植物が人を襲ったり、ヒヒのような動物の群れが人を襲ったりする展開が訪れて、いよいよヤバいところへ足を突っ込んでしまう。襲って来る未知の生物も、いかにもB級である。
で、動物が襲って来るだけかと思いきや、「植物のせいで正気を失った人間が襲って来る」という展開まであるが、明らかに手を広げ過ぎ。
それはピントを絞り切れていないという印象しか与えない。いわゆる「バタフライ・エフェクト」の、スケールの大きいバージョンをやりたいってのは分かるんだけど、かなり無理があるようにしか思えない。
たかが蝶を一匹殺しただけで、そこまでの変化が起きるものだろうかと。その直後に噴火が起きて蝶は死んでしまうだろうし。
それに、その論理で「蝶を殺しちゃダメ」ということなら、「その時間に死ぬことになっているから」という理屈で恐竜を狩るのも、ちょっと引っ掛かるんだよな。
時間さえ合っていれば、死に方が変化するのはいいのかと。それと、トラヴィスたちの行動もデタラメにしか見えない。
まあ色々と引っ掛かる点はあるが、特に気になったのは、問題解決のための行動。
問題を解決するためには、エックルズとミドルトンを案内したツアーで発生したトラブルを回避すればいいんでしょ。それを解決するために、なぜトラヴィスは「そのツアーが行われている場所へ行き、中止を指示しようとする」という行動を取るのか。
そのツアーでのトラブルって、「トラヴィスの銃がショートして発射できなかった」というモノでしょ。
だったら、ツアーに出る前の時間にタイムスリップして、ちゃんと銃が撃てるように点検すればいいんじゃないかと思うんだよな。そっちの方が安全じゃないかと。原作の短編小説では、銃のトラブルは発生していない。
恐竜に怯えたツアー客が足場から外れ、蝶を踏んでしまったことで歴史が変わる。
ただし、「それによって大統領選の結果が変わった」というのが物語のオチになっており、変化した歴史を元に戻すための作業は無い。
この映画版のように、未知の植物や動物の発生によって人類が危機に陥るわけではなく、大統領になる人物が変わる程度なので、そこまで深刻ってわけではないのだ。あと、『サウンド・オブ・サンダー』ってのは原題そのまんまだし、原作小説の題名と同じなんだけど、この映画を見ているだけだと、まるで内容と合致してないよな。
原作だと、最後にツアー添乗員が客に銃を突き付け、それを発砲する時に雷のような音が鳴り響くということで、そのタイトルになっているのだ。
タイトルを変えちゃうと、「レイ・ブラッドベリ原作」という要素が興行的な武器として機能しなくなるという考えだったのかもしれないが、そこは変えちゃった方が良かったんじゃないか。
まあタイトルを変えたところで、それで救命できるレベルの作品ではないんだけどさ。そもそも、レイ・ブラッドベリの古典的SFを映画化するという時点で、かなり慎重に考慮する必要がある。
原作が発表された当時は、その内容は斬新で、描かれている未来の世界は「実際に有り得るかもしれない」を感じさせるモノだったかもしれないが、今となっては陳腐に思えてしまう可能性もあるからだ。
それは本作品にも残念ながら残っていて、「西暦2055年にタイムトラベルが実現する」という基本設定の段階で「いや、絶対に無理だから」と冷めた気持ちになってしまう。いずれタイムマシンが開発される可能性はあるかもしれないが、2055年という近未来では不可能だと思ってしまうのだ。
しかも、もはや「タイムマシンで未来に行くことは可能だが、過去に行くことは不可能である」ということが多くの科学者の発言によって確定事項となっているしね。
そうなると、この映画は基本設定が分かった時点で、まだ物語が全く進行していないのに、もう「相当にデタラメな、おバカなSF」として解釈せざるを得ない作品ということが確定してしまう。
時代の移り変わりというのは、SF作品にとって大きな影響を与える要素なのだ。ただし、最初に「おバカなSF」という印象を与えることは、全面的にマイナスというわけでもない。
少なくとも本作品の場合、むしろプラスに作用している部分が大きいのではないか。
というのも、この映画、シリアスなSF映画として捉えた場合、ものすごくデタラメでメチャクチャな内容なのだ。
しかし、最初に「おバカなSF」として割り切ってしまえば、もはやストーリー展開の中で待ち受けている様々な問題は、「だって、おバカなSFだもの」ということで全て受け入れることが出来てしまう(えっ、無理ですか?無理だとしたら、それは仕方がないので諦めましょう)。CGで作られた生物がチープということに関しては、「そこにはレイ・ハリーハウゼンやウィリス・H・オブライエンに対するオマージュが込められているのだ」とでも思えば何とかなる(いや、何ともならんだろ)。
それよりも酷いのは、トラヴィスとジェニーが未来の街を歩くシーン。
前を歩く役者たちと背景が全く馴染んでおらず、グリーンバックで映像を合成していることがバレバレなのだ。
20世紀の映画なのかと思ってしまうぐらい、そこは厳しいことになっている。ただし、映像的に粗末な状態になったことについては、情状酌量の余地がある。
この映画はチェコのプラハで撮影されていたのだが、2002年に起きた大洪水によってセットが甚大な被害を受けた。しかも製作していた映画会社が破産してしまい、映画を完成させるための予算が無くなってしまった。
そこでピーター・ハイアムズは、低予算で組んだセットを使って残りのシーンを撮影したり、低予算のCGを組み込んだりして、何とか完成に漕ぎ付けたという事情があるのだ。
映像だけでなくシナリオにも問題は多いが、それもきっと、低予算のせいで想定していた物語が使えず、突貫工事で低予算でも成立するような内容に切り替えたためだろう。
そう解釈すれば(脚本の問題に関しては、あくまでも「好意的に捉えれば」の話だが)、ピーター・ハイアムズをそんなに強くは責められない。(観賞日:2013年12月7日)
第28回スティンカーズ最悪映画賞(2005年)
ノミネート:【最悪の演出センス】部門[ピーター・ハイアムズ]
ノミネート:【最悪の助演男優】部門[ベン・キングズレー]
ノミネート:【最もでしゃばりな音楽】部門
ノミネート:【チンケな“特別の”特殊効果】部門