『サン・オブ・ゴッド』:2014、アメリカ

ヤコブの星が輝く夜、マリアはナザレのヨセフに見守られ、馬小屋で男児のを産んだ。星のお告げを目にした東方の三博士はマリアの元を訪れ、バルタザールは「貴方の御子息は神に約束されたは王です」と告げた。息子の名を問われたマリアは、「イエスです」と返答した。三博士と同行者たちは、深々と頭を下げた。後にイエスの弟子となるヨハネが暮らすユダヤの地は、ローマの支配下にあった。民は抑圧され、逆らう者は容赦なく潰された。人々は救世主を待ち望んだが、やって来たのは残忍な提督のピラトだった。
大人になったイエスはガリラヤ湖を訪れ、小舟に乗っている漁師のペトロに声を掛けた。「手を貸そうか」と口にしたイエスに、ペトロは「要らない。どうせ魚はいない」と吐き捨てる。しかしイエスが湖に入って小舟に近付いたので、彼は仕方なく引き上げた。イエスは漁に出るよう促し、「私に1時間くれ。それで新しい人生を与えよう」と言う。ペトロが網を放つと、大量の魚を獲ることが出来た。驚いたペトロに、イエスは「私と来なさい。そうすれば魚ではなく、人を掬い上げる漁師にしてあげよう」と説いた。
「何をするんだ?」というペトロの質問に、イエスは「世界を変える」と答えた。イエスがペトロを伴って歩き続ける内、彼の言葉に力を感じて同行する人々は増えていく。イエスはマグダラのマリアやトマス、ユダといった弟子たちを引き連れ、旅を続けた。ある小さな村を訪ねた時も、イエスは人々から熱烈な歓迎を受けた。町で人々に説法していたパリサイ人のシモンは、イエスに懐疑的な視線を向けた。
ペトロが両脚の麻痺した婦人を見つけて運んで来ると、イエスは優しく「貴方の罪は許された」と告げた。シモンが「罪を許せるのは神だけだ。神への冒涜だ」と批判すると、イエスは「どちらが優しいだろう?罪は許されたと言うのと、あるいは、立って歩けと言うのと」と口にする。彼が手を取ると、婦人は立ち上がって歩くことが出来るようになっていた。動揺するシモンに、イエスは「人の子が地上で罪を許す権威を持っている」と笑顔で告げた。
シモンが弟子たちに「何の権威があって許せるのだ?」と尋ねると、ヨハネが「御自身の権威だ」と答えた。シモンは「やはり冒涜だ。君たちの友は、この旅で石打ちの刑にも成り得る」と忠告するが、ペトロは「まだ始まりに過ぎんよ」と告げた。シモンは納得せず、イエスと弟子たちの旅に同行した。エルサレムを訪れたピラトは、領主のヘロデ・アンティパスと会う。彼は皇帝からの密書を渡し、「これ以上の無秩序は許せん」と冷淡に言い放った。
イエスと弟子たちは旅を続け、徴税人のマタイがローマのために人々から税金を徴収している現場を通り掛かった。弟子たちはマタイをユダヤの裏切り者だと称し、腹を立てながらも関わらずに通過しようとする。しかしイエスは立ち止まり、パリサイ人と徴税人の例え話をするるマタイは涙を流し、イエスの誘いに応じて弟子となった。イエスに同行していたシモンは、「こうなると他の弟子も、どんな罪を犯したか分からん」と人々に触れ回った。
イエスは弟子たちを連れて山上へ赴き、垂訓を行った。ある町に一行が立ち寄った時、姦淫を犯した女が捕まっていた。シモンはイエスに、「こういう女は石打ちの罪と決まっている。どう考える?」と問い掛ける。するとイエスは人々に向かい、「貴方たちの中で罪を犯したことの無い者が、まず石を投げなさい」と述べた。動揺した人々は、持っていた石を捨てた。イエスは女に、「行きなさい。もう罪を犯すなよ」と告げた。シモンはパリサイ人の仲間たちの前で、「我々が守って来た全てを冒涜している」と苛立った。
シモンから知らせを受けた最高法院のニコデモ議員は、エルサレム神殿のカイアファ司祭を訪ねた。ニコデモはイエスについて報告するが、カイアファはイエスの奇蹟を信じず「取るに足らん」と笑い飛ばした。川を渡ったイエスの一行は、遠くから来て待ち受けていた五千人の群衆に歓迎された。イエスは空腹な人々のため、五つのパンと二匹の魚を奇蹟によって大量に増やした。彼は集まった人々に、「まずは神を求めよ。そうすれば他の物は与えられる」と説いた。
群衆が「メシア」と声を揃えて言い始めると、イエスは表情を歪めた。群衆は自分たちを兵隊にしてローマ軍を打ち砕き、イエスには王になってもらいたいと望んでいた。しかしイエスは、「そんな方法は間違っている。力ではいけない」と反対した。イエスが「明日、海の向こうで会おう」と弟子たちに言って立ち去ると、トマスやユダたちは「なぜ信じる人々を置いていくんだ」と不満を口にした。弟子たちは船で海を渡り、向こう岸へ行こうとする。一行は嵐に見舞われるが、海の上にイエスが出現した。イエスの呼び掛けに応じたペトロは船を下り、海面を歩いて師の元へ向かおうとする。しかし落雷に驚いた彼は、海中に沈んでしまった。イエスは「信仰心の薄き者よ。なぜ私を疑った」と言い、ペトロを引き上げた。
エルサレムの民衆はローマが神殿の金を使ったことに抗議して蜂起し、ピラトの元へ乗り込んだ。ニコデモが危惧した通り、ピラトは軍を使って民衆を皆殺しにした。マリアがイエスたちと故郷の町に戻ると、妹のマルタが泣いていた。兄のラザロが死んだことをマルタが話すと、イエスは墓へ案内するよう求めた。イエスは4日前に死んだラザロの墓に入り、彼を復活させた。イエスは人々に、「私を信じれば死ぬことは無い。神の栄光を目にするだろう」と語った。
ニコデモはカイアファにイエスの奇蹟を報告し、「彼が大勢を引き連れて、過越祭までにエルサレムへ来るかもしれません。町は大混乱になります」と話す。カイアファはローマが介入することによって、過越祭が台無しになることを恐れた。ピラトは妻のクラウディアから、「夢の中で、鞭で打たれて殺される男を見ました。罪の無い男。聖なる人です」と聞かされる。クラウディアは泣きながら、「あれは警告。殺したのは貴方でした」と告げた。
イエスは弟子たちを伴い、ナザレに戻った。マリアは息子の帰還を聞き、喜んで家を飛び出した。イエスは教会へ赴き、自分がメシアだと認める言葉を口にした。シモンと信者たちが騒然とする中、イエスは母に「始まりました」と言い残してナザレを後にした。イエスは弟子たちに、「使命を果たさねば。エルサレムへ行く」と宣言する。ユダは「危険だし、早すぎる」と考え、同調する弟子たちもいた。するとペトロは、「何のために、ここにいる?楽な道を行くためか?」と問い掛けた。
イエスは弟子たちを率いてエルサレムへ入り、メシアとして人々の歓迎を受けた。知らせを受けたカイアファは、「過越祭を邪魔させたら、我々が神の怒りに触れる。それに群衆が秩序を乱せば、ピラトが何をするか」と恐れる。彼はニコデモに兵士のマルコスを連れて神殿へ行くよう言い、イエスの見張りを命じた。神殿に足を踏み入れたイエスは、多くの両替商が商売をしている様子を目にした。彼は両替商の机を次々に倒し、ユダが制止すると「聖書には、私の家は祈りの家と呼ばれるべきであると書いてある」と人々に訴えた。
ニコデモが来て「貴方に何が分かる?」と抗議すると、イエスは「貴方たちの祈りは欺瞞だ。神殿の中でだけ、敬虔に振る舞ってみせる偽善者たちだ」と厳しく批判した。イエスが立ち去ると、カイアファはニコデモに「彼に議論を挑め」と指示した。ピラトはイエスが騒ぎを起こしたという報告を受け、カイアファに対処させるよう命じた。ユダは密かにマルコスと接触し、「心配なのです。歯止めが効かなくなっている」とイエスへの不安を訴えた。
イエスが市民に説法していると、ニコデモが来て「ローマに税を払うべきか」と質問した。イエスは銀貨に皇帝の顔があることを確認し、「皇帝の物は皇帝に返そう。そして神の物は神に返すのだ」と告げた。市民は盛り上がり、ニコデモは負けを認めて立ち去った。マルコスはカイアファに、ユダが協力を約束したことを伝えた。イエスは神殿の前から去る時、少女に向かって「ここにある物は全て美しい。だが、1つの石も残ることは無い」と述べた。その言葉を知ったカイアファやマルコスたちは、「イエスが神殿を破壊すると脅している」と解釈した。カイアファはイエスを捕まえる必要があると考え、マルコスにユダを連れて来るよう命じた。
イエスに勇気を貰った市民がローマ兵に対して反抗的な態度を示すようになり、ピラトはカイアファに「今日のような騒ぎがあれば神殿は閉鎖する。過越祭は中止し、いかなる反乱も鎮圧する」と通告した。カイアファはユダに、「イエスは市民を扇動している。真のメシアはイスラエルを統一する。分裂させん」と言う。彼はローマ人の介入による虐殺を阻止する必要があると説き、「最悪の事態を避けたい」とイエスを密かに連れて来るよう指示した。ユダは見返りを求め、カイアファから銀貨30枚を受け取った。
ニコデモはイエスの元へ行き、彼の話を聞いた。イエスが弟子たちと会食を始めようとした時、ユダに裏切られて死ぬ映像が脳内に飛び込んで来た。彼は弟子たちに、「今夜は私が死ぬ前の、最後の晩餐になる」と告げた。イエスは「私は裏切られ、敵に引き渡されて死刑にされる」と言うが、ユダを告発しようとはしなかった。彼はユダにパンを与え、「早く行きなさい」と促す。イエスが「貴方たちは躓く」と言って家を出ると、追って来たペトロが「私は躓きません、師のためなら命を捨てます」と告げる。イエスは喜んで彼を抱き締めるが、ハッとして「言っておこう。一番鳥が鳴く前、貴方は三度、私を知らないと言うだろう」と預言した。
ユダはカイアファの元へ行き、兵隊の案内を命じられた。イエスは弟子たちを引き連れ、オリーブ山で最後の祈りを捧げた。マルコスが兵隊を率いて駆け付け、イエスを捕まえようとする。ペトロはイエスを逃がすため、兵隊に戦いを挑む。マルコスの耳を斬ったペトロが捕まると、イエスは「剣を取る者は皆、剣で滅びる」と諭した。イエスはマルコスの耳を一瞬で元に戻し、無抵抗で連行された。ニコデモはカイアファに、日中の法廷で公然と裁くべきだと訴える。しかしカイアファは急ぐ必要があることを語り、すぐに最高法院の面々を招集した。カイアファの質問を受けたイエスは、堂々たる態度で自分が神の子だと認めた。カイアファと議員たちは驚愕し、イエスに死刑を宣告した…。

監督はクリストファー・スペンサー、追加シーン監督はトニー・ミッチェル&クリスピン・リース、リード・ライターはニック・ヤング、追加脚本はリチャード・ベドサー&クリストファー・スペンサー&コリン・スワッシュ、共同製作はアレクサンダー・マレンゴ&アニー・マクニー、製作協力はシャーロット・ウィートン&カディジャ・アラミ、撮影はロブ・ゴールディー、美術はアラン・スポルディング、編集はロブ・ホール、衣装はロス・リトル、視覚効果監修はジェームズ・ジョーダン、音楽はハンス・ジマー&ローン・バルフェ。
出演はディオゴ・モルガド、ローマ・ダウニー、グレッグ・ヒックス、エイドリアン・シラー、ダーウィン・ショウ、セバスティアン・ナップ、ジョー・レッデン、サイモン・カンツ、ポール・マーク・デイヴィス、マシュー・グラヴェル、アンバー・ローズ・レヴァ、ルイーズ・デラメール、ポール・ブライトウェル、フレイザー・エアーズ、サイード・ベイ、リック・ベーコン、サナ・ムジアーヌ、パトリス・ナイアムバーナ、イドリッサ・シスコ、アナス・チェーニン、ヌーレディン・アバーダイン、アンドリュー・ブルック、ジョー・コーエン、ラングレー・カークウッド他。


アメリカのHistory Channelで放送された全10話のTVシリーズ『ザ・バイブル』を再編集し、未放送シーンを追加して構成した作品。
監督のクリストファー・スペンサーとリード・ライターのニック・ヤングは、共に『ザ・バイブル』にも参加していたスタッフ。
TV版ではサタンも主要キャラだったが、プレミア上映で「バラク・オバマに似ている」との指摘があったため(製作サイドは偶然に過ぎないと主張したが)、登場シーンは削除された。
イエスをディオゴ・モルガド、ピラトをグレッグ・ヒックス、カイアファをエイドリアン・シラー、ペトロをダーウィン・ショウ、ヨハネをセバスティアン・ナップ、ユダをジョー・レッデン、ニコデモをサイモン・カンツ、シモンをポール・マーク・デイヴィス、トマスをマシュー・グラヴェル、マグダラのマリアをアンバー・ローズ・レヴァ、マリアをローマ・ダウニーが演じている。

『ザ・バイブル』は「聖書の内容を忠実に描く」というコンセプトで製作されており、『創世記』や『出エジプト記』の内容も含まれていた。イエスが登場するのは、第6話からだ。
しかし映画版では、イエスの誕生から復活までを描く部分に絞り込んで構成されている。
尺を考えれば、誰か1人の物語に限定するのは賢明な判断だろう。
ただし冒頭ではヨハネのナレーションに乗せて、アダムとイブ、モーセ、ノア、アブラハムといった面々も「神が一緒にいた人物」としてチラッと顔を見せる。それはTVシリーズからの抜粋だ。

イエスの物語に絞っているが、それでも時間が潤沢だったとは言えないようだ。
イエスが誕生してタイトルが出た後、シーンが切り替わると彼は大人へと成長している。それまでの間に何があったのか、幼少期をどんな風に過ごしたのかは描かれない。
いつ頃から彼は「自分は王になるべき人間だ」と自覚したのか、どういう経緯で布教活動を始めるに至ったのか、その辺りも描かれない。洗礼者ヨハネから洗礼を受けたり、荒野で悪魔に誘惑されたりするエピソードも省略されている。
始まってから50分ほど経過して、洗礼を受けた時の様子が回想としてチラッと挿入されるが、「今さら入れても無意味だわ」と言いたくなる。

「イエスの物語」ではなく、「イエスによって周囲の人々が変化する物語」という捉え方をすれば、幼少期からの経緯をカットしても問題は無い。
ただ、それならいっそのこと、イエス誕生のシーンもカットしてしまった方がスッキリする。周囲の人々の視点からイエスを描き、「彼と出会って救われる人々」の物語にしてしまえばいいのだ。
ただし、そういう方針で徹底されているのかというと、そうでもない。
何しろイエスがペトロと出会うエピソードの後、シーンが切り替わると「あっという間に大勢の弟子が出来ました」という状態になっているからね。
そこを省略しちゃったら、それは単なる「雑なダイジェスト」でしかないわけでね。

ペトロが目の前で奇蹟を起こされ、イエスに付いて行こうと決めるのは分かる。
でも、それ以外の面々がイエスに感化され、熱心な崇拝者となって同行する理由は、映画を見ているだけではサッパリ分からない。大勢の民が彼に同行したり、来訪を熱烈に歓迎したりする様子が描かれるだけだからだ。
シモンのいる町では奇蹟を起こすけど、それを見る前から人々は熱烈に歓迎しているからね。
だけどキリスト教の信者や聖書に詳しい人からすると、今さら説明不要な部分なので、そこを省略していても全く不都合は無いだろう。

マグダラのマリアやユダといった重要キャラも、弟子になる過程は全く描かれない。
それだけでなく、キャラとしての厚みも無い。名前も語られないので、こっちで勝手に「こいつはユダだな」と推測するしか手が無い。
マタイはイエスが弟子にする時に名前を呼ぶし、何しろ徴税人の弟子は彼だけなので、最初から「そいつがマタイだ」ってことは分かる。
ただ、イエスの話でマタイが感涙して弟子になるのは、キリスト教信者でなければ「なんで?」と不思議に思うんじゃないかな。
この作品を見ているだけだと、イエスの言葉に感動できそうな要素なんて微塵も無いからね。

新約聖書に記されているイエスの奇蹟では、「招かれた婚礼で水をぶどう酒に変える」というのが最初だとされている。しかし本作品では、ペトロに大量の魚を与える出来事が1つ目だ。
ただ、こちらも聖書に記述のある奇蹟なので、決して内容から外れているわけではない。
ただ、そこはともかく、「それはホントに忠実なのかな」と気になる箇所もある。
とは言え私はキリスト教の信者でもなければ研究者でもないので、こっちの知識が間違っている可能性も充分に考えられる。「新約聖書には書いてないけど、旧約聖書には書いてある」とかね。
なので、そっち方面の人から「お前が間違ってるだけ」と指摘されたら、それは素直に謝るしかない。

新約聖書ではイエスが罪深い女を許すエピソードがあるが、本作品では全く内容が異なっている。
聖書では、シモンから食事に招待されたイエスが、泣きながら彼の足に香油を塗る女と出会う。シモンは心の中で「彼が預言者なら、罪の女だと気付くはずだ」と思う。するとイエスはシモンに例え話をしてから、「この女は多く愛したから罪は許された」と語る。
しかし本作品だとシモンはイエスに敵意を見せているし、女が両脚が麻痺した状態だ。イエスの足を拭いたり香油を塗ったりしないし、罪深い女であったという説明も無い。
なのでイエスが「貴方の罪は許された」と言うのも唐突なら、なぜ許されるのかも分からない。
でも、これも私が知らないだけで、ひょっとすると聖書の通りの内容なのかもしれない。

マルタとラザロの登場するエピソードがある。 ここでマルタはラザロについて「兄が死んだ」と言っているが、ラザロは弟のはず。これは単純に、日本語訳の担当者が間違えたってことなのかな。
それと、マルタの姉はマグダラのマリアという設定なのだが、ここは新約聖書だとベタニアのマリアになっている。
2人のマリアを同一人物と解釈する考え方もあるが、どうやらカトリックしか認めていないらしい。
ってことは、この作品はカトリックの教えに忠実な映像化ってことなのね。

「TVシリーズを再編集した映画」という時点で予想はしていたが、やはり「長めのダイジェスト版」という印象に留まっている。
当然と言えば当然の結果ではあるのだが、「本当に堪能したいのなら絶対にTVシリーズの方を見るべきだ」とい感想になってしまうんだよね。「時間が無い人は、こっちでもOK」とは思わない。
「聖書に忠実なイエスの物語」を積極的に見たい人ってのは、その大半がキリスト教の熱心な信者ではないかと思うのよね。だったら、そこに時間を割く労力は惜しまないはずで。
信者ではないとしても、こういう作品に興味があるのなら、TVシリーズを見ることをオススメするし。
これで済ませようとするような人間は、そもそも見なくてもいいし。そこまでの価値があるような映画ではないからね。

聖書を忠実に再現した作品ってことは、裏を返せば「良くも悪くも、それ以上でもなければ、それ以下でもない」ってことが言えるわけだ。
聖書の内容を新たな切り口から掘り下げているわけでもないし、今までに無かった解釈で描いているわけでもない。聖書には記されていない物語を創作するような、カトリックが激怒しそうなことも、もちろんやっていない。
なので、キリスト教の信者や聖書に詳しい人からすると、「全て知っている出来事を、ただ順番に映像化しただけ」でしかない。人間描写を厚くしているとか、ドラマとしての充実度を高めているってわけでもない。
ただ、凡庸ではあるが異端は無いので、そっち系の教育現場には向いているかもね。

(観賞日:2019年12月6日)

 

*ポンコツ映画愛護協会