『シャドウ・オブ・ヴァンパイア』:2000、イギリス&アメリカ&ルクセンブルク

1921年、ベルリンのジョファ映画スタジオ。映画監督のフリードリッヒ・ウィルヘルム・ムルナウはブラム・ストーカーの怪奇小説『ドラキュラ』の映画化を希望するが、権利を取得できなかった。そこで彼は、舞台をトランシルヴァニアからチェコスロバキアに、ドラキュラ伯爵をオルロック伯爵に変更して映画化することにした。
ムルナウはオルロック役の俳優として、ラインハルト社にいたマックス・シュレックの起用を独断で決定した。ムルナウがプロデューサー兼美術監督のアルビン・グラウに説明したところによれば、シュレックは役に成り切るタイプで、単独行動が多いらしい。彼は数週間前から、既にロケ地であるチェコの古城に入っているらしい。
ムルナウとアルビン、それに主演俳優のグスタフや脚本家のヘンリクなどの撮影クルーは、チェコに渡って撮影を開始した。シュレックは撮影クルーの前に、異様な姿で出現した。彼は撮影が行われていない時間も、常に吸血鬼に成り切っていた。撮影が進む中、グスタフが指を切って出血する。するとシュレックはグスタフの指に噛み付き、さらにカメラマンのヴォルフにも襲い掛かった。
ムルナウはシュレックを撮影クルーのいない場所に連れ出し、クルーに手を出したことを強く非難する。実はシュレックは本物の吸血鬼で、ムルナウは撮影終了後に主演女優グレタを差し出す契約を交わしていた。ムルナウは船に乗ることを拒否するシュレックのため、城の前に大きな船の模型を作り、その代わりにクルーを襲わぬよう言い含めた。
ヴォルフが死亡したため、ムルナウは新しいカメラマンを探すためベルリンに戻った。その間に、シュレックは撮影クルーを襲った。ムルナウはカメラマンのフリッツを連れ帰り、撮影は再開された。やがて、主演女優グレタがチェコにやって来た。ムルナウはすぐにグレタを欲しがるシュレックを何とか抑えながら、映画を完成させようと躍起になる…。

監督はE・エリアス・マーヒッジ、脚本はスティーヴン・カッツ、製作はニコラス・ケイジ&ジェフ・レヴァイン、共同製作はジミー・デ・ブラバント&リチャード・ジョンズ、製作協力はオリアン・ウィリアムズ&ノーム・ゴライトリー、製作総指揮はポール・ブルックス&アラン・ホウデン、撮影はルー・ボーグ、編集はクリス・ワイアット、美術はアシェトン・ゴートン、衣装はキャロライン・デ・ヴィヴェース、特殊メイクアップ・デザインはジュリアン・マーレイ&ポーリーン・ファウラー、音楽はダン・ジョーンズ。
出演はジョン・マルコヴィッチ、ウィレム・デフォー、ウド・キアー、ケイリー・エルウィズ、キャサリン・マコーマック、エディー・イザード、アデン・ジレット、ニコラス・エリオット、ロナン・ヴィバート、ソフィー・ランゲヴィン、ミリアム・ミュラー、ミロス・フラヴァク、マルヤ=レーナ・ヤンカー、デレク・クーター他。


サイレント時代に作られた吸血鬼映画の古典『吸血鬼ノスフェラトゥ』の製作現場を題材にした作品。
ムルナウをジョン・マルコヴィッチ、シュレックをウィレム・デフォー、アルビンをウド・キアー、フリッツをケイリー・エルウィズ、グレタをキャサリン・マコーマック、グスタフをエディー・イザード、ヘンリクをアデン・ジレット、ヴォルフをロナン・ヴィバートが演じている。
E・エリアス・マーヒッジは学生時代に製作した自主映画『Begotten』で注目され、ミュージック・ビデオの世界で活動していた人物で、商業映画としては監督第一作。スティーヴン・カッツは1998年テレビのミニシリーズ『フロム・ジ・アース/人類、月に立つ』でシナリオを担当しているが、映画では初めての脚本。

実際に存在する映画の舞台裏に、「吸血鬼を演じた俳優が実は本物だった」という架空の設定を持ち込んでいる。で、そのアイデアは悪くないと思うのだが、どういう風に膨らませるのか、どういう方向に持っていくのかという部分で、あまり練り込みが充分ではなかったように思われる。
そのため、「ウィレム・デフォーのショーケース」ということで収まっている。
ただ、ウィレム・デフォーは確かに頑張っているんだが、彼が演じるシュレックにしろ、ムルナウにしろ、全編に渡ってメインのキャラとしてフィーチャーされているかというと、どうも物足りない部分がある。
脇役のアルビンやフリッツ、グレタなどのキャラクターにも気を配り、それよりは扱いが少し上かなあという程度にも感じる。

BGMや雰囲気作りなどからは、ゴシック・ホラーとしての方向性が感じ取れる。しかし30分ほど経過して登場したウィレム・デフォーの大仰な芝居は、どう考えても恐怖を与えようとする類のモノではない。
そこにあるのは「熱演すればするほど荒唐無稽に見える」というコメディーとしての方向性であり、怖がらせようとしているのに全く怖くないというダメなホラー映画のそれではない。
では、そこからは完全にコメディーとして展開していくのかと思いきや、そういうわけではない。マックス・シュレックだけはコメディーのキャラクターとしての存在をアピールするのだが、演出の方向性が不鮮明だ(完全にホラー志向という印象でもないし)。
そのため、ウィレム・デフォーの立ち振る舞いと、彼を取り巻く周囲の空気には、ズレが生じてしまう。

たぶん、この映画の肝は、「理想の映画を作るためなら悪魔にでも魂を売り渡すという、マッド・サイエンティストならぬマッド・ディレクターの狂気」、「モンスターであるシュレックよりも、人間のムルナウの方が恐ろしい」という部分にあるのだろう。
で、それならそれで、それをブラックなコメディーとして作ればいいだけだと思うんだけどね。
終盤の展開を見ると、どうやらムルナウの狂気や執念を、コメディーではなくマトモなホラーとして収めようとしているようだ。
でもねえ、そこまでのムルナウの様子からは、本物のモンスターを越えるほどの恐ろしさは伝わってこないのよね。
ただシュレックに振り回されているだけって感じで。
終盤だけ「狂気の人」として描いても、それだけじゃ弱いだろう。

なぜムルナウが最初から本物の吸血鬼と知っていながら、女優を生贄に捧げる約束をしてまでシュレックを出演させたのかという疑問は、解決しなければならない問題だ(これが「最初は本物と知らなかった」ということなら問題は無い)。
ここではムルナウに「科学のため」「作品を後世に残すため」と説明させているが、理由としては薄弱だ。コメディーなら、そこは軽いノリでも突破できた可能性が高い気がするが、どうやらマジらしいので、かなりハードルは高くなっている。
そして、そのハードルを越えられていない。

ムルナウは「ロケ地を探していたら本物の吸血鬼であるシュレックを見つけた」と劇中で語っている。しかし実際のマックス・シュレックは、『吸血鬼ノスフェラトゥ』の以前にも何本かの映画に出演している。
また、この映画では最後にシュレックが死亡しているようだが、実際のシュレックは『吸血鬼ノスフェラトゥ』の後も多くの映画に出演している。
でも、そこで事実との辻褄を合わせるための説明も無いし、事実からの逸脱を観客に受け入れさせるだけのバカバカしさも無い。
ツラいね。

 

*ポンコツ映画愛護協会